尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書「明智光秀」を読む

2021年01月04日 22時41分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 福島克彦著「明智光秀」(中公新書)を読んだ。12月に出たばかりの新刊。つい買ってしまって,つい読んでしまうタイプの本である。これが2020年のラスト本だが、案外時間が掛かってしまった。今は新書本もなかなか難しい。自然科学系の新書だとお手上げの時もある。だから、こういう「史料に基づく」歴史学的な叙述は難しいと思う人もいるだろう。でも「俗説」を排して実像を見極める手続きを知ってもらう意味でも、歴史ファンにも是非チャレンジして欲しい本。

 年末年始にはお城大名の特集番組が多い。年末には「戦国大名総選挙」というのをやっていたが、「戦国武将」かもしれないが「戦国大名」とは言えないような人もランクインしていたように思う。面倒なことを言えば、「戦国大名」の前の時代は「守護大名」で、後の時代は「近世大名」である。何が違うかと言われても、ちゃんと答えられる人は少ないだろう。戦国大名は日本史上で本当に独自の存在なのである。

 織田信長は間違いなく「戦国大名」だが、明智光秀が果たして「戦国大名」と言えるかどうかは微妙だろう。織田信長も昔は戦国の「革命児」のように思われていた。今もそんなことを言う人は多いけれど、歴史学界では案外信長政権の「保守性」が指摘されている。信長は「天下統一」つまり「畿内制覇」(「天下」とは当時「京」の周りの五畿内を指していた)は進めたが、そのために旧勢力との妥協も強いられた。「比叡山焼き討ち」も武力抵抗勢力を排除したのであって、何も古代的勢力を打倒する目的があったわけではない。
(明智光秀像=岸和田市本徳寺)
 織田信長は四方に敵を抱えて戦争ばかりだったから、案外家中統制領域支配を徹底する時間がなかった。今は関東の後北条氏などの研究が進み、戦国大名の支配の仕組みが相当に解明されてきた。織田家には「分国法」さえなかったのである。そんな織田家の武将の中で、「国持ち」を認められた明智光秀羽柴秀吉など「現場」を知る武将たちが、実態に即した分国支配を進めて行くしかなかった。だから明智光秀は織田家中では「戦国大名」的な存在だった。

 明智光秀は歴史の中の敗者なので、残存する史料が少ない。だから生年も生地も確定していない。この本では定説的な美濃(岐阜県)だけではなく、近江(滋賀県)の可能性もあるとしている。最後の室町将軍足利義昭の家臣だったが、その後義昭政権を支える織田信長との「両属」状態になり、やがて信長政権の武将となった。そして坂本城(琵琶湖西岸)を築き、独自の武将と認められていった。それでも京都代官も務めているので、官僚的な才能もあったのだろう。「文化人」でもあって、連歌の会合にもよく出席していた。無いながらも、探せばずいぶん史料もあるもので、ずいぶん光秀の実像も判って来ている。
(明智光秀関連地図)
 そして丹波(京都府と兵庫県の一部)方面司令官となって、丹波統一を長年かかって実現した。丹波は山国なので、半ば独立した土着勢力(国人)が多数存在して制圧には時間が必要だった。しかし、それを実現した段階で、明智軍には「丹波衆」という「自分の部下」を持った。史料的に裏付けられる範囲でも、思いやりに満ちた武将だった光秀が独裁化していっている。その結果として「本能寺の変」が起こったのだろう。史料に基づかない憶測みたいなことは一切書いてない本だから、これが真相だみたいなことは出て来ない。

 だけど、「黒幕」がいなかったのは明らかだろう。関係の深かった丹後宮津城の細川氏さえ従っていないのだから、事前謀議があったはずがない。「足利義昭黒幕説」もあるが、(義昭は広島県の鞆の浦で毛利家に保護されていたのだから)毛利氏が秀吉とさっさと講和したのが理解出来ない。その当時、光秀と並ぶだけの軍事力を持っていた柴田勝家は北陸戦線、羽柴秀吉は中国戦線に釘付けになっていた。そして四国政策変更により、光秀と関係の深かった長宗我部氏討伐軍が出発しようとしていた。そこに絶好のチャンスがめぐってきた。

 著者の福島克彦氏(1965~)は大山崎町歴史資料館館長と出ている。光秀、秀吉の決戦の場となった「山崎の戦い」のお膝元である。そこで独特の歴史を持つ「大山崎」の宿場町構造が見事に説明されている。明智軍がほとんど旧信長勢力を味方に引き入れられなかったことが最大の敗因だ。我々は秀吉がこの後全国を統一したことを知っている。だから「山崎の戦い」を秀吉中心に見てしまう。この時点では神戸信孝(信長の三男)も陣中にいたし、北畠信雄(信長の次男)も別にいた。織田家から後継が出ると思った人が多いのだと思う。

 2020年の大河ドラマの主人公である明智光秀を歴史学でどうとらえるか。この本が一つの結論だろう。史料ばかりだし、面白い話はあまり出て来ない。でも限られた史料から、光秀の感情面も含めて実像を探る試みは、僕は単に歴史学に止まらずに「現実を謙虚に分析する」というトレーニングになると思う。まあ無理に読む必要もないと思うけどね。
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