尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「公立中バイパス」の是非-中高一貫校問題③

2014年01月14日 23時59分34秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 「荒れ」や「いじめ」などの、時には「噂レベル」で地元の公立中が忌避され、できれば私立や公立の中高一貫校に行かせたいという親もいるらしい。今回はその問題を考えてみたい。当たり前だけど、どんな学校でもイジメはあるし、不登校になる生徒もいる。クラス分けや担任を選べない以上、どこでどんな生徒と一緒になるかは誰にもわからない。それを前提にして、果たして中高一貫校に行かせることでクリアーできる問題はあるのかどうかを検討する。

 憲法上、私立学校の設置の自由があると思われるから、高い金を払っても私立学校に行かせたいと親が選択するのは自由である。それが子どもにとっていいか悪いかはまた別問題だけど。先進資本主義国では(あるいは発展途上国の方が激しいかもしれないが)、リッチな階層のためのエリート学校が存在する。親がリッチでも子どもが勉強できるとは限らないから、そういう「出来の悪いお坊ちゃん」向けの私立学校もあるもんだし、「深窓の令嬢」向けの「お嬢様学校」も存在する。良いとか悪いとか議論しても仕方ない。

 そういう私立学校は、子どもに合えばとてもいい場合もあるけど、かなり大変なケースも多いと思う。人間は高い金を払った商品には、あまり文句を言いたくない。「そこそこ」だったら「まあこんなものか」と思いたい。高いホテルやレストランでも、「まあ雰囲気代」と思って何となく納得する。調べて誘って予約した自分の立場を考えて、損したと思いたくない。私立学校の場合も同じで、子どもに友達ができ、進路実績もそれなりならば、「行かせて良かった」と思いたい。施設などはいいから、「公立より良かった」となる。兄や姉がいた時の先生は、公立だと下の子の時にはもう異動している可能性が高い。私立なら、教員の大部分はずっといるから、そういう安心感がはっきりある場合もある。

 でも私立は独自の教育理念や校風があるから、全員ではなくても、合わない生徒は必ずいる。厳しい生活指導や付いていけない学習進度などに加え、他の生徒とトラぶっても学校の対応が納得いかない場合はかなり聞く。(岩波新書「中学受験」にも出てくる。)公立だと「教育委員会に訴える」という手があるが、私立学校の場合、生徒指導に関して教育委員会の管轄下にない。自分が定時制高校(夜間と三部制)で勤務した経験から言えば、私立をリタイアする生徒は、一般の予想以上に多いのではないか。(僕個人で多分100人以上接していると思う。)それらの生徒の場合、何故不登校になったり、中退したかが納得できないケースが多い。私立に行くぐらいだから、成績レベルは高い場合も多い。でも学校と合わなくなり、ものすごく傷ついて公立の定時制にたどりつく。どうして前の私立学校で包容できなかったのか、全く理解できないケースが多い。私立を選択すると、そういう場合もあるということである。

 でも私立に行かせる選択の自由はあるわけだが、税金で作る「公立中高一貫校」をどう考えるかは別の問題である。私立に行かせる親や、子どもがいなかったり結婚していない人も税金を払っている。私立に行かせる経済力や学力がない場合は、地元の公立中に行くことになる。しかし、東京の多くの地区では「学校選択制」を取っている。行かせる中学は親が調べる必要がある。調べていけば、中高一貫校も公立にあるではないかとなり、受けるだけでもさせてみようかとなる。東京では幾つかの区で、都立中高一貫校ができる前から「学校選択制」を実施していた。つまり「競争」信仰を区教委が植え付けてしまった結果、区立中が選ばれずに都立中高一貫校に生徒を奪われることになったのである

 でも「荒れ」や「いじめ」を避けるという意味ではどうなんだろうか。確かに学力レベルからいって、中高一貫校で「授業が荒れる」ということは考えにくい。しかし、授業進度が早くて子どもがうまくついていけないこともありうる。地元の公立中ならクラスで一番なのに、中高一貫校では下から数えた方が早いという「屈辱」を味わう生徒も必ずいる。「鶏頭となるも牛後になるなかれ」(大きな集団の中で使われるよりも、小さな集団であっても長となるほうがよい)という言葉もある。あまり早い時期に「自尊感情」を損なうこともありうる。だが、そういう時期はやがて必ず来るのだから、「高い学力生徒の中で学ぶ」方がいいという考えもある。

 子どもは一人ひとり違い、必ずこれがいいと言う答えは教育にはないと思うけど、そのような「出来る子」特有の問題があるのである。でも、自分の子はいじめが心配だから、私立や公立中高一貫に行かせたいという発想は間違っていると思う。友だちが作りにくいタイプの子は、どこでも難しい。ならば6年間一緒の学校より、家の近くの中学で「小学校時代の友だち」と一緒の方が生きやすいのではないか。生徒間に多少いろいろあっても、「守ってくれる」生徒集団があれば、やっていける。地元中学にいじめがあると言っても、それはそういう学年の問題で、問題は小学校の自分の子どもの学年の雰囲気の方である。学校の対応がどうのと言っても、管理職も他の教員もどんどん転勤するのだから、公立学校は毎年どんどん変わる。小学校時代から活躍してきた学年の生徒なら、中学に行ってもうまく適応して伸びていくはずだ。

 大部分の子どもは地元の中学校に通い、高校受験を経験して、自分の社会的ポジションを獲得する。そこには「矛盾」もたくさんあるけれど、日本の大部分の子どもが通る道を一緒に通ることにより、「悩みを共有する」帰属意識、世代の体験を持つことになる。もちろん中高一貫校なら、6年間変わらぬことにより、強い仲間意識が生まれるだろうし、高校受験がない分を他の活動に使える。どっちがいいかは判断が難しいが、あえて「公立中高一貫校」をたくさん作る意義がどこにあるのか、僕には正直わからないのである。「中高一貫校でしか伸ばせない力」が圧倒的に多いのでなければ、公立中で頑張ればいいのではないか。僕には「公立中高一貫校ができたことにより、経済的に私立に行けないが学力の高い生徒に、同じような教育の機会を与えられるようになった」とかいう言説が信じられないのである。それでは、「公立中に行く生徒は、学力も経済力もない」と決めつけているのと同じではないのか。「出来る子」問題を検討する必要があるが、僕の考えは大体そういうもの。その問題は次回に書くことにする。
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