いじめ問題を書いてしまいたい。この何十年か、何度か時々「いじめ」問題が大きく取り上げられる。そのたびに「いじめ対策」とか「いじめ調査」とか「強い対応」とかが言われる。そして、数年後にまたいじめが大きな問題となってしまう。それは「学校の対応が問題」だとして捉えられ、特に「公立学校バッシング」と結びついて取り上げられることが多かった。その言説の構造こそが、いじめ問題を大きくしてきたのではないか。
「いじめが根絶できない理由」は前に書いたけど、学校外部の負の影響を受けるだけでなく、「評価」を避けられない「学校そのもの」の中に「いじめの芽」が存在する。だから、いじめを根絶するという目標を作ると、かえって「いじめ隠ぺい」を招くと考えられる。「いじめ事件」を仮に防止できたとしても、「いじめ的言動」のすべてを学校からなくすことはできない。学校だけでなく、すべて人間の住むところどこでも、差別や偏見を完全になくすことはできない。
では何をすればいいのか。事件になるような大きな問題さえ起こらなければ、それでいいのか。そうではないだろう。本当は生徒を取り巻く「差別社会」の中で、それに巻き込まれず立ち向かっていけるような「反いじめ文化」を育てていくことが学校の目標ではないかと思う。しかし、それはなかなか難しい。生徒を取り巻く「現実社会」の影響力は強い。生徒は教師の言葉よりも、テレビやインターネットの伝える「怪しい話」の方を信じている場合が多い。テレビのヴァラエティ番組などは、出演者の中に「差違」を見つけて、からかったりバカにしたりする趣向がとても多い。そういう番組を見て育つ生徒が、「普通と違う」生徒をバカにしたり偏見を持つようになるのは当然だ。
最近は偏見を持つ段階から進んで、今回の大津市の場合のように「教育長を襲う」というような暴力的直接行動(テロ)をもてはやす段階まで来てしまった。いじめに反対するように見えて、実は自分がいじめを行っている。それをまたネット空間で持ち上げる。このような「匿名空間」ではなんでも可能になる。「教室」(クラス)も、そのような「匿名空間」化してしまうと、皆が無関心になる中で「いじめ」が起きても誰も止められなくなってしまう。だから、クラスが「学習集団」として機能するような、行事の盛り上がりや生活規律作りが必要なのである。そしてそれを作るのが、学年担任団の仕事であることも前に書いた。
このように生徒の世の中は、差別や偏見に満ちているのだが、それを今「差別社会」と表現すると誤解されるかもしれない。日本社会にあった歴史的な社会的差別(差別や性別差別など)は、学校では否定されているし人権教育を通して理解が進んでいることになっている。もちろん完全ではないが、数十年前よりは「あからさま差別事件」が起きることは少ないだろう。「いわれなき差別」については、確かに量的には減っているのではないかと思う。しかし人間集団である以上、一人ひとりは「差違」を抱えており、学校と言う「能力によって評価される社会」では、「いわれある違い」は大きな問題になってしまう場合がある。「行事」を通してクラスのまとまりを作ると言っても、球技大会をやれば優勝もあればビリもできる。優勝したクラスはいいけど、ビリになったクラスで「戦犯さがし」が始まれば「いじめ」のきっかけを作ってしまう。「クラスでまとまる」「みんなで決めて、みんなで頑張る」などと言うクラス目標だけでは、うまく行ったときはいいけど、条件の違いで他の仲間と同一のペースで頑張れない生徒はかえって排除されてしまうこともある。
ではどうすればいいか。「マイノリティへの配慮」がすべての活動の前提に必要なのではないか。「誰も悲しい思いをしないクラス」というようなスローガンである。学校では勉強やスポーツをするが、勉強もスポーツもできる方がいいに決まってる。そして少しの努力や協力で、みんなで試験を頑張ったり、スポーツ大会でいい成績をあげたりできることが多い。その「少しの努力や協力」をしない生徒に対しては、教師が努力や強力を求めるのは当然である。だけどその時の加減が難しいのだが、十分努力してるけど結果が付いてこない生徒や、努力自体が大変な生徒(障がいや病気を抱える生徒など)もいるわけである。そういう生徒のプライドにも配慮しつつ、どうやってクラスのまとまりを作っていけばいいのか。それは難しい。うまく行ってるクラスを見て、「技を盗む」ことを繰り返して教師も成長していくんだと思うけど、今のように「教師どうしを競争させれば、教育がうまくいく」みたいな競争政策の下ではそれも難しい。それぞれの教師が孤立しながら悩んでしまうのが今の学校ではないか。
多くの場合、「いじめ事件」の前に「いじめ言動」があり、その前に「いじめ的な言葉が飛びかう教室空間」がある。「言葉」が重要だと思う。人を馬鹿にするような言葉遣いを生徒がするようになるときがある。強い者へのへつらいか、テレビなどの影響か。例えば、本当に友達同士の間で、「こんな問題もできないのか」「うるせえな、チビのくせに」などなど。この「くせに」がいけない。友達同士だからいじめではなくても、いけない。こういう言葉が教室で当たり前になると、皆が自分の偏見(ホンネ)を出しやすくなってしまう。今は「キモイ」というような言葉が一番問題だ。「テレビを見てたら、タレントの誰それがキモイこと言ってんの」と誰かが言う。別にこの学校の生徒や教師を言ってるわけではない。だけど、この言葉は使わない方がいいと教師が言う方がいい。これは難しいと思うけど。「反いじめ文化」を育てるには、「言葉」に敏感になることから始まると思う。
その時に生徒は「なんで使ってはいけないの」と聞くだろう。言葉で説得するのも大切だけど、最後の最後は「先生はその言葉が嫌いだから、このクラスでは禁止だ!」と決めてしまう方がいい。そうでないと、うまく説得に応じない生徒がヘリクツを述べたてて(「言論の自由」とか)、問題がこじれてしまうことがある。「賢い生徒」の方が問題で、自分が傷つかない立場にいて教師をやり込めることを喜びとしがちなのである。「キモイ」は人を不快に思う時の言葉だから、教室で使う必要はない、と言い切ってしまう方が問題は少ない。それで問題が見えなくなるようでは困るんだけど、「うちの担任は誰かが不快な思いをする言動を許さない人だ」と思ってもらう必要がある。しかし、このような「担任権限で禁止」がうまく行くためには、それ以前の前提として「学校と担任教師への信頼」が存在してなければならない。そうでないと「何か、うちの担任、変なこと言ってたよ」になってしまうだろう。だから、今はなかなか難しいだろう。「学校バッシング」「教師バッシング」こそが学校の体力を擦り減らしてしまい、いじめを防げない「内向きの学校」を作ってしまったのではないかと思う。
以上は主に中学を念頭に、「原論」として書いた。もう少し具体的な話、あるいは高校段階での話は次回に書きたい。
なお、中学と高校の違いは以下の通り。現在、日本社会では大きく学歴の三層差が存在する。(橘木俊詔「日本の教育格差」、2010、岩波新書)「有名大学卒」「大学卒」「高卒」である。専門学校や短大は中身に応じて、大卒(それほど有名でない大学)や高卒のカテゴリーに入れる。「高校中退」は「アウトカースト」である。この三層はおおむね、入った高校で決まる。どこの大学を受けるかは受験料さえ払えば自由だが、いわゆる有名大学に入るには進学高校(普通科上位校)へ進む場合が多い。普通科中位校では「それほど有名ではない大学」または専門学校、職業高校では就職というコースが多くなる。いじめなど多くの問題が中学で起こるのは、発達段階もあるが、一番大きいのはこの「人生の大選抜」に直面しているからである。しかし、まだ選抜前なので、できることはかなり多いとも言える。高校は「選抜後」の生徒たちに直面するので、有名大学へ向けてスルーしていくだけの生徒か、選抜に敗れてしまい教師の役割をもう必要としない生徒が多い。この基本的な現実を踏まえない教育論議はすべて意味がない。
「いじめが根絶できない理由」は前に書いたけど、学校外部の負の影響を受けるだけでなく、「評価」を避けられない「学校そのもの」の中に「いじめの芽」が存在する。だから、いじめを根絶するという目標を作ると、かえって「いじめ隠ぺい」を招くと考えられる。「いじめ事件」を仮に防止できたとしても、「いじめ的言動」のすべてを学校からなくすことはできない。学校だけでなく、すべて人間の住むところどこでも、差別や偏見を完全になくすことはできない。
では何をすればいいのか。事件になるような大きな問題さえ起こらなければ、それでいいのか。そうではないだろう。本当は生徒を取り巻く「差別社会」の中で、それに巻き込まれず立ち向かっていけるような「反いじめ文化」を育てていくことが学校の目標ではないかと思う。しかし、それはなかなか難しい。生徒を取り巻く「現実社会」の影響力は強い。生徒は教師の言葉よりも、テレビやインターネットの伝える「怪しい話」の方を信じている場合が多い。テレビのヴァラエティ番組などは、出演者の中に「差違」を見つけて、からかったりバカにしたりする趣向がとても多い。そういう番組を見て育つ生徒が、「普通と違う」生徒をバカにしたり偏見を持つようになるのは当然だ。
最近は偏見を持つ段階から進んで、今回の大津市の場合のように「教育長を襲う」というような暴力的直接行動(テロ)をもてはやす段階まで来てしまった。いじめに反対するように見えて、実は自分がいじめを行っている。それをまたネット空間で持ち上げる。このような「匿名空間」ではなんでも可能になる。「教室」(クラス)も、そのような「匿名空間」化してしまうと、皆が無関心になる中で「いじめ」が起きても誰も止められなくなってしまう。だから、クラスが「学習集団」として機能するような、行事の盛り上がりや生活規律作りが必要なのである。そしてそれを作るのが、学年担任団の仕事であることも前に書いた。
このように生徒の世の中は、差別や偏見に満ちているのだが、それを今「差別社会」と表現すると誤解されるかもしれない。日本社会にあった歴史的な社会的差別(差別や性別差別など)は、学校では否定されているし人権教育を通して理解が進んでいることになっている。もちろん完全ではないが、数十年前よりは「あからさま差別事件」が起きることは少ないだろう。「いわれなき差別」については、確かに量的には減っているのではないかと思う。しかし人間集団である以上、一人ひとりは「差違」を抱えており、学校と言う「能力によって評価される社会」では、「いわれある違い」は大きな問題になってしまう場合がある。「行事」を通してクラスのまとまりを作ると言っても、球技大会をやれば優勝もあればビリもできる。優勝したクラスはいいけど、ビリになったクラスで「戦犯さがし」が始まれば「いじめ」のきっかけを作ってしまう。「クラスでまとまる」「みんなで決めて、みんなで頑張る」などと言うクラス目標だけでは、うまく行ったときはいいけど、条件の違いで他の仲間と同一のペースで頑張れない生徒はかえって排除されてしまうこともある。
ではどうすればいいか。「マイノリティへの配慮」がすべての活動の前提に必要なのではないか。「誰も悲しい思いをしないクラス」というようなスローガンである。学校では勉強やスポーツをするが、勉強もスポーツもできる方がいいに決まってる。そして少しの努力や協力で、みんなで試験を頑張ったり、スポーツ大会でいい成績をあげたりできることが多い。その「少しの努力や協力」をしない生徒に対しては、教師が努力や強力を求めるのは当然である。だけどその時の加減が難しいのだが、十分努力してるけど結果が付いてこない生徒や、努力自体が大変な生徒(障がいや病気を抱える生徒など)もいるわけである。そういう生徒のプライドにも配慮しつつ、どうやってクラスのまとまりを作っていけばいいのか。それは難しい。うまく行ってるクラスを見て、「技を盗む」ことを繰り返して教師も成長していくんだと思うけど、今のように「教師どうしを競争させれば、教育がうまくいく」みたいな競争政策の下ではそれも難しい。それぞれの教師が孤立しながら悩んでしまうのが今の学校ではないか。
多くの場合、「いじめ事件」の前に「いじめ言動」があり、その前に「いじめ的な言葉が飛びかう教室空間」がある。「言葉」が重要だと思う。人を馬鹿にするような言葉遣いを生徒がするようになるときがある。強い者へのへつらいか、テレビなどの影響か。例えば、本当に友達同士の間で、「こんな問題もできないのか」「うるせえな、チビのくせに」などなど。この「くせに」がいけない。友達同士だからいじめではなくても、いけない。こういう言葉が教室で当たり前になると、皆が自分の偏見(ホンネ)を出しやすくなってしまう。今は「キモイ」というような言葉が一番問題だ。「テレビを見てたら、タレントの誰それがキモイこと言ってんの」と誰かが言う。別にこの学校の生徒や教師を言ってるわけではない。だけど、この言葉は使わない方がいいと教師が言う方がいい。これは難しいと思うけど。「反いじめ文化」を育てるには、「言葉」に敏感になることから始まると思う。
その時に生徒は「なんで使ってはいけないの」と聞くだろう。言葉で説得するのも大切だけど、最後の最後は「先生はその言葉が嫌いだから、このクラスでは禁止だ!」と決めてしまう方がいい。そうでないと、うまく説得に応じない生徒がヘリクツを述べたてて(「言論の自由」とか)、問題がこじれてしまうことがある。「賢い生徒」の方が問題で、自分が傷つかない立場にいて教師をやり込めることを喜びとしがちなのである。「キモイ」は人を不快に思う時の言葉だから、教室で使う必要はない、と言い切ってしまう方が問題は少ない。それで問題が見えなくなるようでは困るんだけど、「うちの担任は誰かが不快な思いをする言動を許さない人だ」と思ってもらう必要がある。しかし、このような「担任権限で禁止」がうまく行くためには、それ以前の前提として「学校と担任教師への信頼」が存在してなければならない。そうでないと「何か、うちの担任、変なこと言ってたよ」になってしまうだろう。だから、今はなかなか難しいだろう。「学校バッシング」「教師バッシング」こそが学校の体力を擦り減らしてしまい、いじめを防げない「内向きの学校」を作ってしまったのではないかと思う。
以上は主に中学を念頭に、「原論」として書いた。もう少し具体的な話、あるいは高校段階での話は次回に書きたい。
なお、中学と高校の違いは以下の通り。現在、日本社会では大きく学歴の三層差が存在する。(橘木俊詔「日本の教育格差」、2010、岩波新書)「有名大学卒」「大学卒」「高卒」である。専門学校や短大は中身に応じて、大卒(それほど有名でない大学)や高卒のカテゴリーに入れる。「高校中退」は「アウトカースト」である。この三層はおおむね、入った高校で決まる。どこの大学を受けるかは受験料さえ払えば自由だが、いわゆる有名大学に入るには進学高校(普通科上位校)へ進む場合が多い。普通科中位校では「それほど有名ではない大学」または専門学校、職業高校では就職というコースが多くなる。いじめなど多くの問題が中学で起こるのは、発達段階もあるが、一番大きいのはこの「人生の大選抜」に直面しているからである。しかし、まだ選抜前なので、できることはかなり多いとも言える。高校は「選抜後」の生徒たちに直面するので、有名大学へ向けてスルーしていくだけの生徒か、選抜に敗れてしまい教師の役割をもう必要としない生徒が多い。この基本的な現実を踏まえない教育論議はすべて意味がない。
日本は子どもを大事にしない国だなと言う感想があります
問題は差別から物事をとらえる文化だと
私は同和問題を考えたいと思ってきました
熊本の人権組織は学校の教員が中心です
どこもかな???
素敵な出会いがいっぱいありました
でも
いまだに差別が無くなりません
それと
いじめと相通じるような気がします
子どもを大事にしない人権5流国の日本
おかしいことがいっぱい
でも
それに対して素敵な素晴らしいこともたくさんあります
差別が無くなる時にいじめが無くなるように思います