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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「反いじめ文化」を育てる②

2012年09月17日 00時42分37秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 つい他のことを書いてしまって、書き切ると言った「いじめ問題」が終わらない。まあ前回の続きを書いてしまいたい。
 
 一体学校で「いじめ」が起きたら何が悪いのだろうか?いじめは防げないが、学校や教育行政が「隠蔽するのが怪しからん」という人もいるようだ。「生徒がルールを守らないのに、学校がきちんと指導できていないのがおかしい」という人もいる。そういう考え方によれば、学校がもっと毅然と対応すべきだし、また毅然と対応する教員の給料を上げて教師を競わせればいじめがなくなるという意見もある。もっと極端になると「いじめを犯罪にして警察が解決すればいい」という人までいる。僕からすれば、あまりにもナイーブな人間観に驚いてしまう。きっと「いい家庭」「いい学校」で育った「二世議員タイプ」で、実際にルール違反をする生徒や女子グループの複雑な人間関係のもつれなんかと格闘したことがないんだろう。だから、そんな「厳しくすればいじめは防げる」みたいなバカみたいなことが言えるんだろうと思う。

 もっとも僕も「深刻ないじめ事件」を緊急に止める必要があるときは、教師の強制力で指導したり、警察力を導入することも大切だと思う。でも、大人になっても職場や家庭で人間関係がもつれることはつきまとう。未成熟な生徒がいっぱいる学校内で、人間関係でトラブルを起こさせないことだけが学校の目標ではダメだろう。教師の力で学校にいる間だけは守られていても、卒業して「狼の群れ」の中に放されたら何もできない人間であることを暴露してしまうことはけっこう多い。学校時代に、基本的な「反いじめ文化」が育てられていないということで、それが一番問題なのではないかと思う。

 「いじめ」のニュースを見聞きすれば、「かわいそう」な事例が一杯ある。教科書を隠されたり、虫の死骸を入れられたり、誰も話しかけてくれなかったり、カネを持ってくるように強要されたり、そんな行為を受けている生徒を「かわいそう」と思う。それは自然である。かわいそうだから「同情」するというのは、確かに「何かを考え行動するときの最初の一歩」になることが多い。戦争で子どもが死んだり、飢餓が広がり難民になったり、津波で家族や家を失ったり、原発事故で突然村ごと住めなくなったりするのは、まさに「かわいそう」。子どもも大人もそういうニュースを聞けば皆「同情心」が高まる。それを否定する必要はないし、最初は同情からでもいいだろうと思う。でも、「同情」には明らかに限界がある。「緊急の時期」を過ぎてしまえば、どんなところに住む人間にも「日常生活」がある。被災地にもある。いじめ事件が起こった教室にもある。「忘れてはいけない」とマスコミは言ったりするけど、「だんだん忘れていく」ことは避けられない。そして「同情される側」も「同情だったらもういらない」と普通は思うようになる。非日常の緊急時期には同情も大切だったけど、「かわいそうだから助けてあげる」という発想では、「同情する側が上」で、同情される側の自立が阻害される

 それと「同情」から発する行動は、「義務感」と結びついてしまうことが多い。「経済が発展した我々は、飢えと戦争に苦しむ発展途上国を助けなければいけない」「被災地の人々を支援するのは国民の義務である」などなど。まあ、そういう「義務」もあるかもしれないけど、義務感だけでやっていると、楽しくないし疲れてくる。皆の熱が下がってくると、義務だと思って頑張る人だけ負担が多くなり、冷めてきて手伝ってくれない人を批判する気持ちが起こる。そうして気持ちがバラバラになって終わってしまうと言うのが、多くのボランティア活動や社会運動のてん末である。「いじめ問題」も似ていて、同情と義務感だけでやっている学校だと、「いじめ防止ポスター」なんかを作らされる生徒会役員や学級委員なんかだけ負担感を感じてしまい、結局試験勉強と部活動の日常に呑み込まれてしまう。

 人間は楽しくなければ続かない。これが大原則であって、いじめがいけないのは「かわいそう」だし「ルール違反」だからでもあるけれど、一番は「いじめがあるクラスはつまらない」からである。そのことを教師はもっと発信していかないと行けないと思う。そうでないと何だかマジメ主義になってしまい、みんながいじめはないかと見張っているようなムードになってしまう。「いじめはないけど、つまらない学校」は、いじめ問題のニュースが報じられなくなった数年後にいじめ事件が起きてしまうかもしれない。いや、いじめが起きないにしても、それでは「反いじめ文化」を育てたことにならない。では、「楽しい学校」をどうしたら作れるのか。教員処遇の問題は別に書くとして、「大胆に外部の風を入れる」ことと「マイノリティの文化を学ぶ」ことかなあと思う。

 「マイノリティの文化」と書くのは、やはり差別や偏見をなくすと言うのが、いじめを学校から減らしていくことと結びついていると思うからだ。差別について学ぶということは、「差別がかわいそう」ということではない。「差別の中でも差別に負けない生き方を作ってきた人から学ぶ」ということである。「差別や偏見はありません」という人が、実は「出身者だからと言って差別する気はない」と自分で思っているだけで、「学歴がない人はダメ」という理由で「被差別や外国人や経済的に大変だった人」を排除している、そしてそれを「合理的な理由だから差別ではない」と思い込んでいるということはかなり多い。実際にマイノリティで素晴らしい生き方をしてきた人を具体的に知らないから、「偏見はない」と思い込んでるだけで、「マイノリティへの敬意」もない。「敬意」がなければ「無関心」なだけで、「無関心であることを差別してないことと思っている」のである。それでは「反いじめ文化」は育たない。これは大切な点で、無関心であるということ自体が偏見を持っていることだと判らないと、「いじめを傍観する」=友達ではないから無関心だっただけでいじめてはいない、という子供たちの多くの心を動かすことができない。
 
 また「楽しい学校」と言うのは「遊びがある学校」という意味ではないわけで、もちろんレクリエーション大会をいっぱいやるというようなことではない。「生徒にも教師にも、深い知的、身体的刺激があって、人間や社会について新しい考え方、生き方を学ぶこと」である。学校なんだから「学ぶ楽しさ」を教えられなければいけない。「身体的」とわざわざ入れたのは、人間関係作りのゲームや演劇のワークショップ、伝統芸能や伝統工芸の体験授業などを想定しているからだが、基本は講演で「話しを聞かせる」ことが多くなると思う。聞かせるだけでは生徒は飽きるので、テーマ設定と講師の選定はよく考えなければいけない。今は「総合学習」もあるし、外部の講師を呼ぶことも昔より難しくない。仮に予算措置がなくても、僕の体験では「学校で生徒に話してほしい」と頼めば、日時さえあえば断られることはほとんどないと思う。

 「マイノリティ」と僕が書いたのは、いわゆる「差別問題」だけを指しているのではない。大企業に対しては中小企業が「少数派」であって、地域の中で「技術で頑張っている中小企業」を見つけて話してもらう。地域の中で「有機農業」を続けてきた農家、厳しい環境の中で頑張っている伝統工芸家、そういう人々も広い意味で「マイノリティ」と考えて、頑張ってきた姿に学ぶところが大きい。また、もちろん地域の中の外国人文化との触れ合いも大事だし、自分の地域ではない問題(アイヌ民族や沖縄の文化など)を特別に呼ぶことも考えられる。(特に高校の修学旅行で、北海道や沖縄へ行く場合。)ただ学校としてどうしても考えておかなくてはいけない問題もある。教員も一般社会の差別の中で生きてきたのであって、もちろん差別や女性差別、障害者差別などについては勉強したことはあっても、一般社会でまだ認知度が低いような問題については特に意識が高いというわけではない。今イメージしているのは、性的マイノリティホームレス刑余者(前科のある人、刑務所から出所した人)、難病を比喩に使う問題実験動物や毛皮などの問題などである。

 難病を比喩に使うというのは、例えばいつも掃除をさぼりがちな生徒を「お前はこの班のガンだな」と教師が言ってしまい、身内にがん闘病中の家族がいるマジメな女子が傷つくと言った場合である。「そんなに勉強しないと、お前の将来はホームレスだ」とか「そんなことをしたら刑務所行きだぞ。二度と誰も雇ってくれないぞ」などと教師が言ってしまうこともあるかもしれない。生徒の中に親が刑余者である場合がいないとは言えない。教師がホームレスの差別意識を持っていると、生徒が襲撃事件に関わらないとも言えない。(これは都市部では緊急に教員全員に対する研修が必要である。)そして何より深刻なのは性的マイノリティの問題で、教師が一生懸命制服の指導をすればするだけ、性同一性障害の生徒を傷つけてしまうことが現に起きている。なんとか全日制の高校に入っても制服でつまづき、制服のない定時制高校へ変わるという例も多い。中学段階では学校側にカミングアウトできず、高校段階で自分の「性自認」をはっきりさせたということである。それもできないで悩んでいる生徒がいるということを中学や全日制高校の教員は一応頭の中に入れておかないといけないだろう。この性的マイノリティ(いわゆるLGBT)の問題がいじめに直結していることもあるので、問題自体を意識するとともに、「性的マイノリティの人々の豊かな文化」を紹介することは重要である。

 そういう問題を一度にできるものではないだろうが、学校の特色を生かしながら、特別授業(人権や健康の講演会)、進路指導、行事(文化祭の講演会など)、道徳、総合学習、各教科の授業などで試みていく。問題は生徒に教え込むのではなく、生徒の心と触れ合う授業を作って、「大変だけど教師も楽しむ授業」を探っていくこと。そのためには「教師の感度を高めること」が必要である。学校自体が差別やいじめを生み出す場合も多いので、「自分を見直す」ことも求められる。従って、自分を見直すことができない教育委員会が開く「官製の人権研修」には全く期待はできない。人権研修会と言いながら都教委の反人権的施策を自己批判できない。そういう人しか講師に呼ばれない。そういう中で、現場で教員一人ひとりが自分の感度を上げて、できることをやっていくしかないだろう。でも、義務でやらなければいけないのではない。自分がもっと納得して働ける学校を作っていくということである
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1 コメント

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こちらは田原坂げんき村 (磨女3)
2012-09-20 09:31:00
毎日朝が来るのが楽しみなおばちゃんです

今日このブログのことを知りました

私はヤフーのブログをしています

田原坂げんき村の磨女3です

思いがいっぱいあります

現在63歳ですが

教師を目指した若いころが懐かしく

でも

教師にならなくて良かったと思うことが多々あります

子どもたちからは磨女3さんが先生として

出会いたかったと言われるとき

教師にならなくて良かったと思うのはどうしてかなと

考えますね

子どものためには私の様な教師が必要なんだろうと思

うからです

今日が素敵な出会いになりますように

願っています
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