尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

田中美津、竹本信弘、荒井献、伊藤隆他ー2024年8月の訃報③

2024年09月08日 21時32分23秒 | 追悼
 1970年代前半の「ウーマンリブ」運動の中心だった女性運動家、鍼灸師の田中美津が7日死去、81歳。60年代末にベトナム反戦運動に関わるようになり、本郷三丁目の自宅が東大闘争活動家のアジト化した。活動家の男性を見て失望し、「女性解放」という問題意識を持ち、1970年8月、「女性解放連絡会準備会」を結成。10月21日の国際反戦デーで女性だけのデモを行い、「便所からの解放」というビラを配った。同年「ぐるーぷ闘うおんな」を結成。これらの活動は現代フェミニズム運動の出発点とされる。75年の「国際婦人年メキシコ会議」に出席するためメキシコに赴き、そのまま4年滞在した。帰国後、鍼灸学校に通い、82年から新宿で鍼灸師を続けた。そのことも含めて、同時代の女性の生き方に大きな影響を与えてきた。著書に『いのちの女たちへ』(1972)や『自分で治す冷え性』(1995)など。ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(2019)がある(追悼上映あり)。
(田中美津)(昔)
 1970年前後に新左翼の理論家滝田修のペンネームで「過激派の教祖」と呼ばれた竹本信弘が7月14日に死去、84歳。8月に報道された。京都大学で思想史を専攻し、1967年に京大経済学部助手となった。暴力革命論を展開し当時学生たちに影響を与えたと言われる。1971年8月に起こった「朝霞自衛官殺害事件」(「赤衛軍事件」)の首謀者とされ、1972年1月9日に指名手配されたが、竹本は不当な濡れ衣を晴らす義務はないとして、以後「潜行」生活に入った。この事件は川本三郎『マイ・バック・ページ』の事件だが、実行犯Kは「虚言癖」があり供述には問題があると言われていた。
(竹本信弘=滝田修)
 僕が知っているのはその「潜行」報道からで、1974年には専攻しながら本も出し「不在の存在感」があった。後になって土本典昭監督の記録映画『パルチザン前史』を見て、これが滝田修かと感慨があった。10年以上も逃亡したが1982年8月8日に逮捕され、裁判では無罪を主張したが、1989年に幇助罪で懲役5年の判決が出た。未決勾留の方が長いので釈放され、同年『滝田修解体』を出版して過去を否定した。調べてみると2018年に『今上天皇の祈りに学ぶ』という本を出していて、この人も結局「転向」したのかと思った。何故出頭して裁判闘争を行わなかったのか、僕は昔から疑問に思っている。
(映画『パルチザン前史』) 
 新約聖書研究の第一人者荒井献(あらい・ささぐ)が16日死去、94歳。原始キリスト教史や新約聖書学が専門で、聖書の歴史的研究を行った。東大名誉教授、学士院会員。イエスの実像を探る研究は多くの人に影響を与え、特に1973年の岩波新書『イエスとその時代』は僕も刺激を受けた。『原始キリスト教とグノーシス主義』(1971)で学士院賞。専門研究は奥深いが、イエスやユダを論じた一般書は現代思想として読まれた。なお、2010年に亡くなった夫人の荒井英子氏は『ハンセン病とキリスト教』(1996)などの著書があり、以前『小島の春』の映画上映と荒井英子さん講演会を企画した思い出がある。
(荒井献)
 歴史学者の伊藤隆が19日死去、91歳。日本近現代政治史専攻、東大名誉教授。保守系論客として知られ、「新しい歴史教科書をつくる会」理事となり、分裂後は「日本教育再生機構」に参加し育鵬社教科書の執筆代表者となった。この人に関しては、2015年に中公新書の書評『伊藤隆「歴史と私」を読む』を書いた。若い頃から立場が違うけど、史料発掘の業績は大きい。その本でもいかに昔の政治家の文書を見つけるかが大変に面白かった。また「オーラル・ヒストリー」の開拓者としての業績もある。70年代には戦前の日本政治史を「ファシズム」ととらえることに疑問を表明し論争となった。その問題については思うところもあるが、ここでは触れないことにする。伊藤史観が定説となったわけではないだろう。
(伊藤隆)
 7月29日に世界第2位の高峰K2(パキスタン、8611m)で山岳カメラマン、クライマーの平出和也(ひらいで・かずや、45歳)と中島健郎(なかじま・けんろう、39歳)が滑落した。この事故に関して、8月22日二人が所属する「石井スポーツ」が「生死を確認できない」ものの、「追悼の意を表する」と死亡と認識する報告を発表した。二人とも「世界最強」と言われるクライマーで、少人数で荷物を軽量化してスピーディーに行動する「アルパインスタイル」で、数々の未踏ルートを登ってきた。「登山界のアカデミー賞」と言われるフランスのピオレドールを平出は日本人最多の3回、中島も2回受賞している。
(左=平出和也、右=中島健郎)
・元プロ野球選手の宅和本司(たくわ・もとじ)が4日死去、89歳。1954年に何回に入団し26勝9敗、防御率1.58、275奪三振で、新人王と投手三冠に輝いた。翌年も24勝11敗で最多勝。その後近鉄を経て61年引退。通算成績は56勝26敗なので、ほぼ最初の2年だけの活躍だった。また元大相撲の小結千代天山が28日死去、48歳。99年に入幕し、連続3場所で三賞を受賞したことで知られる。99年名古屋場所で新小結となるがケガでその後は活躍出来なかった。
・在外被爆者救援に取り組んだ森田隆が12日死去、100歳。広島の被爆者だが、56年ブラジルに移住。日本では原爆手帳が支給されていると知り、84年に「在ブラジル原爆被爆者協会」を設立した。自伝『広島からの最後のメッセージ』(2017)がある。また広島の被爆者で原爆死没者名簿の記帳を約40年間続けた池亀和子が16日死去、82歳。
・沖縄戦研究で知られた元沖縄国際大教授、吉浜忍が23日(訃報発表日)までに死去、74歳。2戦争遺跡の文化財指定に取り組むとともに大学に「沖縄戦」の科目を新設した。2017年に『沖縄の戦争遺跡』を出版した。
・「シャトレーゼ」創設者の斉藤博が10日死去、90歳。1954年に山梨県甲府市で菓子販売業を始め、67年に合併してシャトレーゼとなった。
・前島根県知事での溝口善兵衛が20日死去。財務官時代は「ミスター・ドル」と呼ばれた。07年から3期島根県知事。

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