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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて

2025年03月27日 21時54分18秒 | 追悼

 歴史学者で立教大学名誉教授の山田昭次先生の訃報が伝えられた。3月15日没、95歳。年齢が年齢だけに遠からず訃報を聞くことは覚悟していたが、やはり寂しいことである。僕は直接に授業、ゼミなどで教えを受けた者だが、それ以上に卒業後もいろいろと関わりがあって、話を聞く機会も多かった。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の真相究明にライフワーク的に取り組んできたが、関東大震災の周年集会でも顔を見ることがなくなっていた。まあ年齢的にやむを得ないことだろうと推察していた。

 山田先生は立教大学では長く一般教育部に所属して、文学部史学科にも出講していた。そのためかどうか、ゼミも朝イチか夕方に開講されていて、僕は早起きが苦手なので学部時代にゼミを取らなかった。大学院に進学後にゼミを受講して史料の読解など非常に勉強になった。そういう普通の意味で「恩師」なのだが、山田先生と言えば学部時代から違うことで知っていた。それは「韓国政治犯徐勝徐俊植兄弟の救援運動である。1971年に韓国で「学園浸透スパイ団事件」として逮捕されたのが徐兄弟である。山田先生は自ら救援会を立ち上げ、渡韓して長く運動を続けた。昔のチラシ、ビラ等をかなり取ってあるので、探してみたら出て来た。

(「徐さん兄弟救援報告」36号)

 幾つもあるのだが、ここでは第36号(1987年12月13日付)の画像を載せておく。もう僕は就職していた時期だから、送られてきたのか集会などで貰ったものか。多分時々カンパしていたと思う。会の名前は「徐さん兄弟を守る会」で、連絡先は立教大学12号館になっている。徐勝さんは韓国が民主化されてもすぐには解放されず、1990年に釈放された。(刑期は原判決が無期懲役で、その後20年に減刑されていて、19年間の拘禁生活を送った。)徐兄弟初め多くの在日韓国人政治犯の救援運動がその頃存在した。徐兄弟に関しては他にも救援運動があったが、一人で最後までやり切ったのは見事というしかないと思う。

(『生き抜いた証に』)

 もう一つ新聞やウィキペディアに載っていない重要な仕事に、朝鮮人・韓国人ハンセン病元患者の聞き書きがある。これは学生と共に取り組んだ研究で、立教大学史学科山田ゼミナール編生き抜いた証に ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録』という本にまとめられている。1989年に緑陰書房から刊行された本で、1996年に廃止される「らい予防法」がまだあった時代である。僕もその前から何度も全生園を訪問していたし、別に訪問に許可など要らなかった。それでも法律上は厳しい「隔離」が定められていた。ハンセン病問題への関心がまだ少なかった時代の先駆的な業績で、忘れられないで欲しい本だ。

 僕は1980年に韓国ハンセン病元患者定着村へのワークキャンプに参加した。その後も関わりが続き、韓国に「交流(むすび)の家」を作ろうという動きが起こった。(「交流の家」というのは、奈良に作られたハンセン病元患者との交流用施設の名前。)その会で僕が中心になって「映画と講演の会」を企画したことがある。映画はハンセン病差別を描く『あつい壁』と韓国映画『族譜』で、講演は山田先生にお願いした。日時の承諾を得た後、中身をきちんと説明するために、久しぶりに大学の山田研究室を訪ねた記憶がある。韓国とハンセン病ともに語れる人は数少ない。非常に感銘深い講演だったが講演料は受け取って貰えなかった。

(『金子文子』)

 以上のように、40代、50代の学者としての壮年期を救援運動に費やしたこともあり、多くの論文がありながらなかなか単行本にまとめることがなかった。新書本なども書いてないから、一般的な知名度は高くはないだろう。僕が思うに代表作は『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房、1996)である。金子文子は『何が私をこうさせたか』(岩波文庫)という独創的な自伝で知られる。朝鮮人の朴烈と結婚したアナキストで、関東大震災後に「大逆事件」をデッチ上げられた。その本のことは、『金子文子「何が私をこうさせたか」再読』(2018.9.1)に書いた。この本はなかなか大変だが、是非ともチャレンジして欲しい本だ。

(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)

 非常にすごいなと思うのは、退職後に妻に先立たれた後も、研究をまとめて世に問うた姿勢である。時々は新聞の投稿などを読むこともあった。関東大震災関係では『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社、2011)が最後になったと思う。読後の感想をまとめて書いたが、特に「国家責任」を厳しく問うとともに、「民衆責任」を問い続けたことは特筆すべきことだ。「侵略」「虐殺」を直視出来ない日本人に対する言葉は時に厳しすぎるかと思えるぐらいである。しかし、その認識は厳密な史料批判から導き出されたものだった。「日本人の良心」と呼びたい研究者人生だったと思う。


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