尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大傑作映画「スパイの妻 〈劇場版〉」

2020年10月20日 21時07分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 黒沢清監督の映画「スパイの妻 〈劇場版〉」が公開された。今年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞したことで、一躍注目された。いつもは新作をなかなか見ないんだけど、時間がうまく合うこともあって早速見てきたのだが、これは大変な傑作だった。最近見た映画では「本気のしるし 劇場版」も面白かったし、「星の子」も良かった。でも「スパイの妻」はそれらの映画からも一頭地を抜く大傑作だ。テーマも重大だが、撮影や音楽も素晴らしい。そして何より蒼井優高橋一生が圧倒的な演技を披露している。

 この映画も〈劇場版〉と銘打たれているが、元々は2020年夏にNHKのBS8Kで放映されたドラマだという。それをスクリーンサイズや色調を再編集して劇場版にしたものだとある。全然気付かなかったのだが、こんなドラマをNHKで作っていたのか。ヴェネツィアで受賞してホントに良かった。内容的にあらぬ非難を受けかねないドラマをよく作ったものだと思う。

 脚本は濱口竜介野原位(ただし)、黒沢清の3人。最初の二人は神戸を舞台にした5時間を超える傑作「ハッピーアワー」(濱口竜介監督)の脚本を手掛けている。今回も神戸を舞台にした作品になっていて、ロケが素晴らしい。(神戸を舞台にした映画の最高峰だろう。)脚本が本当に素晴らしくて、最後まで気が抜けない。登場人物たちは自分でも予測出来ない時代を生きている。そこから生まれるミステリアスなドラマは、見る者にとっても予測不能な展開だ。
(右端=黒沢清監督)
 神戸で貿易会社を営む福原優作高橋一生)はきな臭くなる時勢をよそに、妻聡子蒼井優)とともに優雅な暮らしを続けている。フランスのパテ社9.5ミリ家庭用映画カメラでホーム・ムーヴィーを作って楽しんでいる。(これは当時有名だった機械で、劇中では実物を使って実際に撮影している。)そんな彼らの生活にも暗い時代が忍び寄ってくる。友人の英国人貿易商がスパイの疑いで連行される事件が起こった。妻の東京時代の知人、津森泰治東出昌大)は神戸の憲兵隊に伍長として転任してきて、くれぐれも注意するように警告する。

 福原邸のロケ地、旧グッゲンハイム邸が本当に素晴らしい。海を望める洋館で、まさに設定にピッタリ。他にも旧加藤海運本社ビル神戸市営地下鉄名谷車輌基地神戸税関など神戸にある建造物が生かされている。街頭の宣伝ビラ、店の看板なども当時を再現している。この並々ならぬ苦労の末に、「非常時」を実感できる映像になっている。特に福原邸で夫婦が交わす危険な会話の数々を、カメラは光をいっぱいに取り込んで写す。「光と影」の美しい画面は、単に映像美というに止まらず「時代」を生きる人々の苦悩を象徴している。

 このように脚本や演技を支える技術スタッフの力量が半端なくすごいのである。だから見始めるとすぐに、この映画の完成度が高いことが予感できる。だが、「大日本帝国の国家機密」を知ってしまった夫婦が一体どのような行動を起こすのか。最後の最後まで予断を許さぬ勇気と知恵の駆け引きが始まる。もう少し時間を戻すと、1940年、日米関係が悪化する中で、今しか行けないと思って優作と甥の竹下文雄坂東龍汰)は中国(「満州国」と「中華民国」)に旅行に行く。そして看護婦だった草壁弘子という女性を連れ帰る。文雄は会社を辞めて有馬温泉に籠もって小説を書くという。そして弘子は殺されて、憲兵の泰治が聡子に事情を聞きに来る。
(左=憲兵役の東出昌大)
 映画の一番重大な問題ではないので、ここで「機密」に少し触れることにする。優作の会社は医療品も扱うので、満州北部に出掛けて日本軍の医学部隊とも接触する。そこで人為的にペストが流行したと知る。つまり「731部隊」の細菌戦である。消された医者が残した研究ノート映像こそが、優作たちが持ち帰ったものだった。草壁浩子はノートを残した医者に仕えた看護婦だった。この「帝国の暗部」を知ってしまった優作はどうするか。

 いろいろな経緯があって、優作は聡子に言い切る。自分は「コスモポリタン」だと。愛国者ゆえに自国の過ちを正したいのではなく、国家より「正義」を優先するのだと。つまり自覚的、確信的な「非国民」なのである。それに対して、六甲山の中であった泰治(憲兵)は聡子に言う。「あなた方の普通が、他の人には非難や攻撃に受け取られる時代なのです」みたいなことを言う。詳しいセリフは忘れてしまったけれど、これは全く現在の日本(世界)を思い起こさせるではないか。「分断」された世界では、価値観が正反対になる。

 そこで取られた優作の行動、聡子の行動をどう理解するべきか。それは僕には評価が難しいし、内容を書けないのでこれ以上触れられない。ただ蒼井優の圧倒的な存在感が全てを呑み込んでしまうと思う。単なるお嬢さんかと思っていたら、「スパイの妻になります」と宣言するまでに。蒼井優はもういいかと思っていたけど、再び女優賞を獲得するかもしれない。他には憲兵役で平然と拷問する東出昌大は助演男優賞候補。音楽の長岡亮介も素晴らしい。

 黒沢清監督(1955~)は、よく黒澤明と間違われながらも世界で人気を博してきた。僕と同年で、立教大学で映画を作って学内で上映していた頃から見ている。プロになった後は僕の苦手なホラー映画が多いので、どうも今ひとつ付いていけなかった。最近の「クリスピー 偽りの隣人」や「散歩する侵略者」もとても面白いとは思うけれど、どうも好きにはなれなかった。だから「トウキョウソナタ」(2008)が最高かと思ってきたのだが、明らかに「スパイの妻」が突出した最高傑作だ。この磨き上げられた技術を堪能するとともに、主人公二人の行動の意味を考え続ける映画だ。
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