尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「祖国のために命を捨てるのは道徳的」かー河村市長発言考

2024年05月20日 22時33分23秒 | 政治
 ちょっと時間が経ってしまったが、名古屋市河村たかし市長の4月30日の発言について考えてみたい。この人はかつて自民党、新進党、民主党などに所属したが、現在は「日本保守党」共同代表である。(同時に地域政党「減税日本」代表でもある。)高校生の提案で名古屋市は空襲死者らを悼む日を設置することになり、5月14日を「なごや平和の日」とした。(名古屋市は何度か大きな空襲を受けているが、1945年5月14日の空襲で名古屋城が焼失した。)

 「なごや平和の日」制定は良いけれど、その決定を受けた記者会見で、河村市長は「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語ったのである。その後批判もされたが、似たような発言をしている。うっかり発した「失言」ではなく、確信的な発言なんだろう。「時局的」には、最近の自衛隊員の靖国神社集団参拝などにも通じる、「ある方向性」があるんだと思う。
(河村市長発言)
 それは「日本周辺の緊張は激化していて、自衛隊員にも戦死者が出ないとは言えない国際環境にある。その際、日本は国家として戦死者に対して最大限の敬意を持って追悼しなければならない。そのために今から様々な心構えをしておかなくてはいけない」とでも言うようなものだろう。その状況認識がどの程度正しいかという問題は冷静に考えなくてはいけない。しかし、そう思い込んでいる人は一定数いるわけで、今後もこのような発言は続発するだろうと思う。

 この発言について考えるべきポイントは二つあると思う。それは「祖国のため」という部分と「命を捨てる」という部分である。なお、「道徳的行為」も問題ではある。「道徳」は規範というだけだから、これは「道徳的に高く評価されるべき行為」というような意味なんだろうけど、道徳規範の基準を政治家が示すのは問題だろう。しかし、これはそこまでにする。
(日本保守党共同代表に)
 最初に「命を捨てる」から。何故「死者」だけしか評価の対象にならないのだろうか。「祖国のために様々に尽くす」でも、言いたいことは通じるんじゃないか。「良心的兵役拒否」は認めないのだろうか。戦死した人以外にも、多数の傷痍軍人が生まれたし、空襲で焼け出されて「難民」や「戦災孤児」になった人も多数いる。「道徳」を振りかざす人ほど、戦災孤児が「浮浪児」となったり、戦争未亡人がセックスワーカーになったりすると、「道徳的に」非難したりするものだ。
 
 ひとたび戦争になると、実に多くの犠牲者が出る。そして「戦死するか」、あるいは「障害を負ったが命は取り留めた」か、それとも無傷で生還できたかは、ほぼ偶然による。そして、傷痍軍人はもちろん、無事に生還したとしても、戦後の混乱期を生き抜くのは大変だった。「命を捨てた」人がより道徳的に正しい行動を取っていたかというと、そんなことは全然ないだろう。まあ、そんなことは僕が言うことではなく、地元の中日新聞に連載された木内昇『かたばみ』を読みなさいと言っておきたい。

 さて、問題は「祖国のため」である。河村氏はウクライナやガザにも触れたという。どう触れたのか報道ではよく判らないのだが、これはどう解釈すれば良いのだろうか。ウクライナは確かに「祖国を侵略された」立場と言えるだろう。ではロシア兵の場合はどうなんだろう。ロシア兵の戦死者も「祖国のため」として道徳的に正しいのか。イスラエル人とガザのパレスチナ人の場合は、もっと複雑だ。どっち側も「道徳的」なんだろうか。

 ウクライナでも無防備な病院が爆撃されたし、ガザでも病院が爆撃され多くの子どもが死んでいる。そういう死者も「祖国のため」に死んだのだろうか。いや、僕は「国際法違反の戦争犯罪で殺された」と判断するべきだと思う。そもそもの名古屋大空襲の死者だって、「祖国のため」の犠牲者ではなく、「戦争犯罪の犠牲者」であり、「祖国」を言い出すなら「祖国の始めた無謀な戦争政策の犠牲者」である。「祖国のため」と言って様々な戦死者を一緒くたに顕彰するのは、「犯罪の隠ぺい」になりかねない。

 結局「祖国」の始めた戦争には全力で協力するべきで、どんな戦争であっても「祖国の戦争の戦死者」は道徳的に正しいというのが河村氏の世界観なんだろう。だから「アジア太平洋戦争」が侵略戦争であっても、戦死者は「犠牲者」ではなく「道徳的行為」になる。日本人だからそれで良く、もしロシア人に生まれていたら「ロシアの戦争はすべて正しい」と判断する。そういうタイプの思考の持ち主なんだろう。だがグローバル化の進む現代において、ちょっと情報を集めれば「祖国の過ち」はすぐに判明する。

 歴史を振り返ってみれば、様々な戦争があったと判る。「祖国のため」を考えるならば、「祖国の始めた戦争に全力で反対する」方がずっと「道徳的行為」だったことなどいっぱいある。第二次大戦中の日本であっても、日本の内外で侵略戦争を止めさせるために囚われていた人が多数存在する。「戦死者」ならすべて道徳的というより、場合によって「祖国の政策に反逆する」方が道徳的に正しい場合がある。もし、「祖国」とか「道徳」などの言葉をどうしても使いたいなら、そこまで言わなければ歴史の教訓を真面目に受け継ぐとは言えない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「つばさの党」と「N党」ー... | トップ | 「ゼロ歳児選挙権」という暴... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事