尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・斉藤龍一郎君の思い出

2020年12月25日 23時26分08秒 | 追悼
 AJFアフリカ日本協議会)の事務局長などを務めた斉藤龍一郎さんが12月19日に亡くなった。65歳。最近病気がちだったのは知っていたけど、年齢が同じだったのでショックも大きかった。訃報については「AJF」のホームページで告知されている。そんなに深い関係でもないけれど、ずっと関わりが続いていたので、ここに自分なりに気持ちをまとめておきたい。彼はいつも「尾形君」と呼んでいたから、僕もタイトルは「斉藤君」と書いたが、文の中では「さん」と書きたい。
(AJFホームページ上から借用)
 「アフリカ日本協議会」と斉藤さんの関わりについては、AJFのホームページに「AJFの2000年から2016年 人とつながる歩み」として回想がまとめられている。2020年10月30日にAJF事務局でインタビューが行われたものである。また個人のホームページとして「斉藤龍一郎の近況です」が20世紀から継続して書かれている。自己紹介も書かれている。もともとの関心は「障害学」の領域だったのだと思うが、そのあたりのことは僕はほとんど知らない。いろんな分野で様々な活動に関わった人なので、Facebook上で多くの追悼を呼んで改めて驚いたりしている。

 僕と斉藤さんにはいくつかのつながりがある。ちょっとまとめてみれば、①市民運動圏のつながり ②Facebookの「お友だち」 が大きい。特に最近はほぼFacebook上でのつながりだった。しかし、それだけではなかった。③偶然に会う知り合い ④授業で困ったときの助っ人 がある。そして⑤として「人生の中ですれ違っていた人」というのがある。

 知り合ったのは、1993年に「731部隊展」の東京東部展実行委員会に参加した時である。僕は東京23区東北部の足立区に長く住んでいたが、1983年に結婚して墨田区、千葉県市川市に転居した。1991年に父が死んで、夏に足立区に再び戻った。勤務先も高校に変わり新しい活動を考えていた時期だった。独身時代はずいぶんいろんな運動に関わっていたが、中学勤務時は忙しくて他のことはほとんど出来なかった。そんな時に「731部隊展」のお誘いがあって、現代史を専攻した日本史教員としてはやるしかないと思ったのである。

 夏に「731部隊展」をやって、その後で映画「免田栄 獄中の生」の足立上映会につながった。冤罪は自分が一番関わった問題だから、僕が代表を引き受けた。その実行委員会でも斉藤さんと一緒だったはずだ。12月初めに免田栄さんが亡くなって、僕はその頃のことを思い出したのだが、じゃあと言われても斉藤さんとどういう風に知り合って、どんな話をしたかは詳しくは覚えてない。実行委員会が終わると「打ち上げ」に行くから飲んで忘れてしまったのである。

 斉藤さんはその頃は台東区の「解放書店」に務めていた。そこには何度か会いに行った。それは僕が関わった「らい予防法廃止一周年記念集会」とか、都立中高一貫校への「つくる会」教科書採択反対運動(特に2004年に浅草でやった「石川文洋講演会」)への協力要請の時が多い。「つくる会」問題では、台東区に作られる白鴎附属中に採択させるなという署名運動にも協力して貰った。そういう「市民運動圏」のつながりがベースにあった。

 しかし、そういう「公的」な付き合いの他に、「時々ばったり会う」ことが多かった。家が近いから、電車などで偶然会うのである。知り合いに偶然会うことは、そう何度もあるわけじゃない。でも斉藤さんには、多分10回以上は会っている。ヴァージニア・ウルフ原作の「オルランド」という映画が上映された時には岩波ホールで会った。調べてみると1993年の上映だから、知り合った直後だったことになる。授業で役立つ資料、視聴覚教材を求めて、解放書店やAJFに行ったこともある。そういう風にして斉藤さんとの関係が続いていった。

 21世紀になってから、僕は知人に「電子メール通信」を出していた時代がある。(「緑の五月通信」という名前だった。)それはもちろん斉藤さんにも送っていた。僕が教員を退職するとき(2011年)には「教員免許更新制」について何度も書くことになった。ほとんど反応もないわけだが、その時に最も鋭く本質を突いた反応を返してくれたのも斉藤さんだった。それにはずいぶん力づけられた。僕が今書いているのは、その時の「恩」を覚えていたいという意味が大きい。

 さて、「人生の中ですれ違っていた人」とはどういう意味か。人はいろんなところへ出掛けて、多くの人とすれ違う。何年か後に知り合いになったら、実は同じロックフェスティバルやクラシックコンサートに行ってたと判ることがある。僕は斉藤さんが深く関わっていた「金井康治君就学闘争」の集会に行っていた。保坂展人さんの「内申書裁判」や反アパルトヘイトの集会、多くの冤罪救援集会などに行っていた。だから1993年に出会うまでに、必ず何回かはすれ違っていたのだと思う。そして、実際に知り合う場が出来て良かったなあと思うのである。

 ここ数年はFacebookの投稿やホームページでも、闘病記が多くなっていた。それでも、このブログをFacebookにリンクさせると、一番たくさん「シェア」をしてくれた。調べてみると、12月13日が最後のシェアになっている。ちゃんと読んでくれて、引用されてることもあるから、僕も気が抜けない。でも斉藤さんが読んでくれてると思うのは間違いなく励みになっていた。斉藤さんのホームページを読むと、最後の頃まで彼は理論的関心を持ち続けていた。僕は最近は小説か歴史だけだから、そこが違う。でもお互いに本や映画の紹介を役立てていたと思う。

 政治や社会運動に関して、様々な立場や見解があったはずで、細かく言い始めれば僕とも違う点があったかもしれない。「運動圏」には時々「他人を裁く」人があるが、斉藤さんはそういうことがないから、気が置けずに何でもしゃべれたと思う。そういう人との交流は細くなっても長く残る。だんだんこうして、僕の同世代の知人もいなくなっていくのかと思うと寂しい。だけど「冥福を祈る」とか「安らかに眠ってください」とか、全然信じてない言葉は書かない。死んだら物質的には終わりだが、残って生きていく人の魂の中に生きると思う。そう思って忘れないでいたい。
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