尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

武村正義、池永正明、福井達雨ー2022年9月の訃報①

2022年10月08日 22時58分38秒 | 追悼
 2022年9月の訃報。ジャン=リュック・ゴダールを別に書いた。僕にとってゴダールの訃報がすべてみたいな月だったけど、思いのほか重要な訃報が多かった。月末に亡くなった三遊亭円楽は、8月に国立演芸場で聞いたばかり。先月、青森県の蔦温泉を書いたが、そこにアントニオ猪木の墓があると書いたら、10月1日に亡くなった。何だか偶然にしては怖すぎの感じ。月ごとなので猪木は来月になる。全部で3回に分けて、まずはそう言えばこの人がいたなという3人を取り上げたい。

 元新党さきがけ代表武村正義が9月28日に死去。88歳。マスコミは「元官房長官」と書いたが、書くならば「元大蔵大臣」ではないか。21世紀になって、官房長官の重要性が増しているが、昔は首相の次は外相、蔵相だった。だから、「自社さ」三党連立の村山富市内閣が出来た時、自民党総裁の河野洋平が外相、さきがけ代表の武村が蔵相に就任したのである。官房長官というのは、前年1993年に非自民8党派連立の細川護熙内閣が出来た時に就任したものである。
(武村正義)
 93年総選挙では、自民党から新生党(小沢、羽田グループ)とさきがけが離党し、新生党は社会、公明、民社などと政権合意をまとめて選挙に臨んだ。どちらも過半数を取れず、細川の日本新党と武村の新党さきがけが組んだ院内会派「さきがけ日本新党」がキャスティングボートを握ることになった。そして小沢一郎が日本新党の細川を首相候補として擁立して、政権交代が実現した。しかし、その後「国民福祉税」構想などで細川首相と距離を置くようになり、94年4月の細川首相の辞意表明で両者の関係は終わる。

 この背景には連立政権の実質的リーダー、小沢一郎(新生党代表幹事)に対する警戒心がある。「豪腕」で知られた小沢は、当時「普通の国」を目指す「危険な政治家」と思われていた。リベラルな政治姿勢の河野洋平が総裁を務める自民党の方が連立相手として相応しいという判断もあったのだと思う。ある意味「反小沢」でまとまったのが、あり得ないと思われた社会党委員長を首相に担ぐ「自社さ連立」内閣だったのである。大蔵大臣は村山首相が辞任する96年1月まで務めた。その間、フランスが南太平洋で大気圏内核実験を行った際に、現職蔵相でありながら現地の抗議デモに参加したことが忘れらない。
(自社さ三党連立、左から武村、村山、河野)
 武村正義については、衆議院議員になる前の方が興味深いと思う。高校時代は民青で、名大工学部から東大教育学部、経済学部と大回りして、国家公務員上級試験に合格。27歳、妻子ありの経歴を後藤田正晴が面白がって、自治省に採用されたとウィキペディアにある。1971年に郷里の滋賀県八日市市長に当選。自転車で通勤する36歳の若い市長は全国的に注目された。1974年には当時の野崎知事に反発する勢力に擁立され、4野党推薦の「革新」候補として滋賀県知事選に立候補して当選した。78年、82年には無投票で再選。この間、79年には琵琶湖の水質保全のための合成洗剤追放条例(琵琶湖条例)や風景保全のための条例を成立させた。
(知事時代)
 僕は知事就任以前から注目していたが、87年総選挙に当選した後は自民党に入党してガッカリしたものだ。しかし、「政治とカネ」の問題を考える「ユートピア政治研究会」を結成し、これが「新党さきがけ」につながる。日本では珍しい「環境重視の保守リベラル政党」の可能性があったかもしれないと思う。だが三党連立を成功させる「寝業師」の面も持ち、その結果小選挙区制度に対応するため「社・さ」で新党を結成すると言うとき、鳩山由紀夫に「排除」されてしまった。その時点では「自民寄り」のイメージが強くなってしまったのである。しかし、僕は思うのだが、鳩菅の軍師として民主党に武村がいたら歴史は少し変わったのではないか。今後大国が終わる日本において、武村が主張した「小さくともキラリと光る国」は再発見されると思っている。

 元プロ野球選手の池永正明が9月25日に死去。76歳。下関商業の投手として3年連続で甲子園に出場。2年生だった63年の選抜大会では優勝した。1965年に西鉄ライオンズに入団して、20勝10敗で新人王となった。そして67、68年には23勝を挙げて、300勝投手も夢ではないと言われたわけである。しかし、池永の名前は「黒い霧事件」による永久追放で記憶されることになってしまった。当時政界で疑惑が持ち上がると「黒い霧」と言われたため、69年オフに「野球賭博に関わる八百長疑惑」が持ち上がった時も「黒い霧」と呼ばれた。そして100万円を受領して返金されていなかった(年長選手から勧誘され返せなかった)ことを認めた。この結果、永久追放処分が下されたのである。
 (池永正明)
 僕はもちろんこの事件をよく覚えている。中学生だったので、当時のこと故、受験勉強中などにはプロ野球のラジオをよく聞いていた。毎日巨人戦がテレビ中継されていた時代である。パリーグの中継はほぼなかったから、多分テ池永を池永を見たことはなかったと思う。でもこれほど活躍していた選手の名前は当然知っていた。そして若い投手の代表格として、何となく気に入っていた。西鉄は50年代に2度日本一になった黄金時代があるが、60年代後半には低迷していた。僕は逆に強かった巨人、阪急などに関心がなかったのである。しかし、池永なくして西鉄はやっていけない。この処分は厳し過ぎるのではないか、と思わないでもなかった。その後処分解除を求める運動が続き、2005年に永久処分が解除された。本人は博多の中州でバーを営んでいたという。

 滋賀県に重度障害児施設「止揚学園」を設立した福井達雨が9月6日に死去、90歳。東京では新聞に訃報が掲載されなかったが、僕は非常に影響された人なので、取り上げておきたいのである。70年代、80年代にとても多くの本を書いている。自身の体験だけでなく、障害児の描いた絵をもとにした絵本なども多い。若く理想主義的だった僕は、障害児のために献身する福井に教育者の鑑を見る思いがした。「止揚学園」とはヘーゲルの止揚である。まさに時代を象徴するような命名ではないか。
(福井達雨)(止揚学園)
 書名をちょっと挙げておくと、『僕アホやない人間だ』『嫌われ、恐がられ、いやがられて 障害児差別と共に25年』『子供に生かされ子供を生きる』『草は枯れ、花は散るとも 子どもらに生かされて35年』『やさしい心をもっていますか? 障害児と共に生き、社会と闘い、心を守った、ほんとうの教育』などなど。読まなくても判るような題名だけど、読めばやっぱり感動したのである。妻の知人にここに勤めている人がいて、毎年のようにカンパしていた。やっぱり仕事にするとなると大変なようで、僕も最近は読んでないんだけど、長く続けたことだけで、偉大な教育者であり社会福祉家だったと思う。全国で講演活動も行っていた。
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