尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

選挙協力より国民投票の議論を!

2016年01月14日 22時57分07秒 |  〃  (選挙)
 来るべき参議院選挙で、強大な与党の横暴に対抗するために、野党は「選挙協力」をすべきだという議論がある。特に参院選では選挙区に「一人区」が多くあり、そういうところは人口が少ないわけだから、もともと自民党が強い。でも、1989年や2007年の参院選では野党の大勝となり、後の政権交代につながる結果ともなった。だから、大胆な選挙協力を行い、自公連立政権に対抗するべきだというのはもっともな議論である。(なお、1人区は32もある。2016年参院選から、宮城、新潟、長野が定数減となり一人区となる。また一人区だった鳥取と島根、徳島と高知が合区される。)

 ところで、本当に民主党と共産党の選挙協力など、できるのだろうか。あるいは、すべきなのだろうか。そういう議論も重要だと思うけど、僕はここでは、その問題の前に「他の視点」でいくつか書いておきたいと思う。「選挙とは何なのか」ということを考えると、もっと考えるべき問題があると思うのだ。もっとも、そういう議論をしても、今年の夏には間に合わないだろうから、プロの政治家はとりあえず今夏の選挙協力の可否を検討して欲しいと思うけど。

 さて、選挙の議論をする前に考えないといけないのは、「選挙の有効性を多くの人が信じなくなっている」ということである。日本だけではなく、世界中の多くの国で、選挙で選ばれた指導者が国民を無視しているという感覚を共有している。だから、選挙に行かない人も多くなった。大体、インターネットとグローバル化の時代に、「定住している国民」が数年に一度選挙権を与えられるというシステム自体が問われている。(選挙権は「一定の住所に住んでいる国民」に与えられるから、職を転々とする底辺労働者や「ホームレス」の人々、また世界をまたにかけて働く多国籍企業の役員、あるいは戦争や飢餓を逃れてきた難民などには選挙権の行使そのものが難しい。)

 そして、世界が複雑にリンクし、伝統的な考え方も大きく揺らぎ、人間も「個性」が重視されるような社会になった。人々は「消費者」として、「多種目少量生産社会」を生きている。このような社会では、「政策を一括提示する大政党」の意義が薄れる。人々は経済政策はA党、外交政策はB党、福祉政策はC党…と政策ごとに支持がバラバラになる。また、「特にこだわりがある政策」がそれぞれに生まれ、他の政策はともかく「子育て支援に熱心な党」とか「沖縄問題に熱心な党」…などで選んだりするようになる。「大量生産社会」とは人々の政治意識も変わってくるのである。

 だけど、「選挙」はやるしかない。当面、他のシステムは考えられない。しかし、「国のリーダーを選ぶ」という意味では選挙システムを使い続けるしかないけれど、個々の政策は必ずしも選挙ですべては決められない時代となっている。現実に、今も政権支持率は高いけれども、集団的自衛権原発再稼働には反対の世論が強い。全国的にはそうなんだけれど、各選挙区で選挙すると、小選挙区では自民党が勝つことが多い。だから、選挙で勝った自民党が決めたことに国民は従うべきだと言ってしまえば、話はそれまで。しかし、そう言った瞬間に、「じゃあ、選挙に行っても仕方ないや」という人も出てくる。それでいいのかということである。

 地方政治では、もうそういう場合に「住民投票」が当たり前になっている。住民投票条例を制定して、その地域にとって重要な問題を住民が投票している。選挙権年齢も低くしたり、定住外国人にも選挙権を認めているところもある。合併問題など、住民投票で政策が変わったことも多い。それを国単位でも行う。集団的自衛権容認の是非、原子力発電所の方向性、夫婦別姓の是非などは、まさに「国民投票」で決めるにふさわしい課題だろう。それぞれの問題をどう考えるかということは別にして、「国論を二分するような問題」は「国民投票」を行うべきだということに反対の人がいるだろうか。

 そりゃ、まあ、いるだろう。現に多数派を形成している党は、自分たちの政策を妨害されるだろうから、反対に決まっている。自分たちの権限を縮小することになるんだから、国会議員もホンネでは反対の人がいるだろう。そういう人々は必ず「憲法違反」と言いだすはずである。日本国憲法では、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」(前文)と書かれている。また、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」(41条)とされている。これを狭く解釈すると、選挙で選ばれた国会議員がすべてを決定するんだぞとも読める。

 だが、憲法前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し」とも書かれている。憲法の規定により、国民投票の結果だけでは「法的規範」は持たない。だが、国民投票は「国民の厳粛な信託」を意味するのであって、それを受けて国会議員が権力を行使すればいいというだけのことだ。そういう風に解釈するのは、集団的自衛権をムリヤリ容認するより、ずっと素直な解釈ではないだろうか。だけど、ゴチャゴチャいう人がいるようなら、こういう問題こそ「憲法改正」にふさわしいテーマではないか言えばいい。

 最後に、僕が考える国民投票のイメージを書いておきたい。国民投票を個別にやるのはコストがかかりすぎる。国政選挙と一緒にやった方が便利だろう。衆議院は解散があるから、いつ選挙があるか判らないので、国民投票を準備するのも大変である。また衆議院は政権選択で優先するから、政策パッケージそのもので争うべきだという論も成り立つだろう。一方、参議院は解散がないから、必ず3年目の7月に参院選に行われる。政権のやり方に異議を持つ人が国民投票を求めるだろうから、チェックの意味でも参院選と同時に国民投票を行うというのはどうだろうか。同じテーマで毎回やっても政策が安定しないから、一回やったら少なくとも次回の参院選では同テーマではできない方がいい。

 国民投票の発議は、多数党はやる必要がないんだから、少数党が要求できる必要がある。臨時国会と同じく、「国会議員の3分の1」の要求で行う。また、国民投票なんだから、国民自体が要求できる必要がある。リコール制度に準じて、具体的な数を決めればいい。あまり多くを要求すると、投票するまでもなく署名だけでいいことになるから、「有権者の3分の1」など国民全体では不可能な数にしてはいけない。それより「20都道府県以上で各10万人以上の有権者の署名が集まった時」などといった数がいいのではないだろうか。「有効投票率」を決めてもいいけれど、参院選と同時にやろうという僕の発想では、安保、原発、夫婦別姓などで5割以下の投票率というのは考えられないと思う。心配するまでもなく、むしろ参院選の投票率を押し上げる要因になると思う。投票結果に拘束力を持たせるためには、憲法を変えて投票結果遵守を書き込んだ方がホントはいいだろうと僕は思う。選挙という制度の問題を何回か続ける。
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