東京五輪でソフトボールの金メダルを獲得した名古屋市出身の後藤希有(みう)選手が、8月4日に名古屋市の河村たかし市長を表敬訪問した。その際、市長が金メダルを噛んだことが大きく報じられ、苦情や批判が殺到した。他競技のメダリストからもたくさんの批判が湧き起こったが、単に「金メダリストに対する敬意に欠ける」といったレベルの問題ではないと思う。なお、河村市長は単に「金メダルを噛んだ」だけではなかった。「旦那はいらないか」「恋愛禁止か」などとも発言していた。そのことは【表敬訪問の詳報】(東海テレビ)に詳しい。
(河村市長が金メダルを噛んだ)
その記事によれば、第一声が「でかいな。やっぱり」である。金メダルを噛んだ後も「体つきはもう1人の、昔からおるピッチャーの」と上野選手の名前も出て来なくて、後藤選手が「上野さんがやっぱりガッチリされています」と応じる。「ポニーテールの女のソフトボールやっている連中はかっこええんですよ、本当に。中々、元気そうで、未来がありそうで、感じがええじゃないですか。是非、立派になって頂いて、ええ旦那をもらって。旦那はええか?恋愛禁止かね?」「受験勉強なんかどうでもええで、ソフトボールをやりゃあええがね。本当はそうならないかん。びっくりしました。テレビのたくましい雰囲気と、えらいキュートな雰囲気と」などと読んでる方が恥ずかしくなるような発言が続く「歴史的文献」である。
ところで、ここで愛知県の大村知事のリコール問題やその後のリコール署名偽造事件を書きたいと思いながら書いてなかった。そのリコールは「あいちトリエンナーレ2019」の「言論の不自由展」問題をきっかけにしたもので、高須クリニックの高須院長や河村市長が中心になっていた。リコール自体は初めから成立可能性がないので、他市の問題でもあり書くまでもないと思った。だが、その後の署名偽造と合せて「極右勢力の考え方」を知る意味で考えるべき問題だった。公然と「言論の不自由」を実践して見せた河村名古屋市長の存在こそ重大だろう。
河村たかし(1948~)は昔から県会や名古屋市長への立候補を模索していた。90年の衆院選には無所属で立候補して落選、1993年衆院選では自民党を離党して日本新党から初当選した。以後、新進党、自由党、民主党に所属し、その間も民主党代表選への出馬を表明しては断念を繰り返した。テレビのバラエティ番組によく出演してざっくばらんな発言がそれなりの人気を得ていたと思う。2009年4月の名古屋市長選で初当選したが、市議会と対立し市長自らが市議会リコール運動を起こした。それに失敗し責任を取って辞任、2011年の出直し選に再出馬して当選した。以後、2013、2017、2021の市長選と5回当選した。
金メダル問題に戻ると、「そもそも表敬訪問する意味があるのか」「メダルを噛む行為そのものがどうなんだろうか」という意見もあるだろう。僕もメダル噛みには違和感を感じていたから、メダリストにも同じように思っている人もいるんだと思った。また逆に「金メダルはそんなに神聖なものなのか」とも言えるだろう。「コロナ禍」で握手なども控えている中で、「噛んでから返す」というのは誰にも容認できない行為だ。そういう点を前提にして、一番の問題点はちょっと違うところにあるのではないかと思う。
それは「他人のもの」に対する図々しさから来るうっとうしさである。他人のものなんだから、誰が考えたって最低のマナーとして「噛んでみてもいいですか」と聞くべきだろう。だがそういうマナー感覚があれば、そもそも他人の金メダルを噛んだりしない。何でも名古屋城の金のシャチホコも噛んで見せたらしいから、特に金にこだわりがあるのか。いや、それも「受け狙い」なんだと思う。何で我々がこのことを知っているかというと、そこにマスコミがいて写真が報道されたからだ。つまり公然となされたのであって、少なくとも本人は悪いことをしているとは思っていなかった。むしろ「お茶目」な行動として、有権者に好感を持たれると思っていたはずだ。
今回なるほどと思ったのは、時事通信の「名古屋市長のメダルかじり、海外で冷ややか」という記事にあったアメリカ人のツイッターへの投稿である。「日本で働く女性の現状を象徴している。年配の男性が(女性の)個人空間に侵入し、苦労して手に入れた成果を台無しにする」という指摘である。この「個人空間への侵入」という指摘はよく判る気がする。批判された後で河村市長が最初に発表したコメントで「最大の愛情表現だった」と言った。これが今回一番気持ち悪いと思ったが、セクハラや体罰を「愛情」だという発言を何度も聞いたと思う。
「個人の尊厳」への配慮がなく、図々しく踏み込んできて、それを「愛情」と呼ぶ。例えば教科書を忘れたと言うから隣の生徒に見せてあげたら、指をなめてページをめくったり勝手に書き込みされたというようなものか。それをおかしいと思わないことが一番の問題で、気付いていないのである。本当ならシャチホコを噛んだときに誰かが市長をたしなめるべきだったが、こういう人が権力を持っていると誰も直言しなくなるだろう。ところで、この金メダル事件の構造は、「リコール問題」と同じだと思う。昔の市議会リコール時の署名簿が今回利用されたと言われるが、それがそもそも「個人情報の流用」である。
(愛知県知事リコール運動を進める河村市長)
それとともに、そもそもの「言論の不自由展」のとらえ方がおかしい。展示内容が「反日」だというが、それを河村市長は見たのか。見ないで批判してるし、他の人にも見るなという。見る前に禁止されたら、内容の判断が出来ない。一般市民は判断する必要がないというのである。そして、何を考えたのか開催責任者だった大村知事をリコールするという。本人は善事をなしていると思い込んでいるのかもしれないが、すべて「思い込み」である。不勉強に対して助言してくれる人がいない。河村市長の振る舞いを見て、日本のありようと自分も含めた人の生き方を考えるきっかけにしなければと思う。
(河村市長が金メダルを噛んだ)
その記事によれば、第一声が「でかいな。やっぱり」である。金メダルを噛んだ後も「体つきはもう1人の、昔からおるピッチャーの」と上野選手の名前も出て来なくて、後藤選手が「上野さんがやっぱりガッチリされています」と応じる。「ポニーテールの女のソフトボールやっている連中はかっこええんですよ、本当に。中々、元気そうで、未来がありそうで、感じがええじゃないですか。是非、立派になって頂いて、ええ旦那をもらって。旦那はええか?恋愛禁止かね?」「受験勉強なんかどうでもええで、ソフトボールをやりゃあええがね。本当はそうならないかん。びっくりしました。テレビのたくましい雰囲気と、えらいキュートな雰囲気と」などと読んでる方が恥ずかしくなるような発言が続く「歴史的文献」である。
ところで、ここで愛知県の大村知事のリコール問題やその後のリコール署名偽造事件を書きたいと思いながら書いてなかった。そのリコールは「あいちトリエンナーレ2019」の「言論の不自由展」問題をきっかけにしたもので、高須クリニックの高須院長や河村市長が中心になっていた。リコール自体は初めから成立可能性がないので、他市の問題でもあり書くまでもないと思った。だが、その後の署名偽造と合せて「極右勢力の考え方」を知る意味で考えるべき問題だった。公然と「言論の不自由」を実践して見せた河村名古屋市長の存在こそ重大だろう。
河村たかし(1948~)は昔から県会や名古屋市長への立候補を模索していた。90年の衆院選には無所属で立候補して落選、1993年衆院選では自民党を離党して日本新党から初当選した。以後、新進党、自由党、民主党に所属し、その間も民主党代表選への出馬を表明しては断念を繰り返した。テレビのバラエティ番組によく出演してざっくばらんな発言がそれなりの人気を得ていたと思う。2009年4月の名古屋市長選で初当選したが、市議会と対立し市長自らが市議会リコール運動を起こした。それに失敗し責任を取って辞任、2011年の出直し選に再出馬して当選した。以後、2013、2017、2021の市長選と5回当選した。
金メダル問題に戻ると、「そもそも表敬訪問する意味があるのか」「メダルを噛む行為そのものがどうなんだろうか」という意見もあるだろう。僕もメダル噛みには違和感を感じていたから、メダリストにも同じように思っている人もいるんだと思った。また逆に「金メダルはそんなに神聖なものなのか」とも言えるだろう。「コロナ禍」で握手なども控えている中で、「噛んでから返す」というのは誰にも容認できない行為だ。そういう点を前提にして、一番の問題点はちょっと違うところにあるのではないかと思う。
それは「他人のもの」に対する図々しさから来るうっとうしさである。他人のものなんだから、誰が考えたって最低のマナーとして「噛んでみてもいいですか」と聞くべきだろう。だがそういうマナー感覚があれば、そもそも他人の金メダルを噛んだりしない。何でも名古屋城の金のシャチホコも噛んで見せたらしいから、特に金にこだわりがあるのか。いや、それも「受け狙い」なんだと思う。何で我々がこのことを知っているかというと、そこにマスコミがいて写真が報道されたからだ。つまり公然となされたのであって、少なくとも本人は悪いことをしているとは思っていなかった。むしろ「お茶目」な行動として、有権者に好感を持たれると思っていたはずだ。
今回なるほどと思ったのは、時事通信の「名古屋市長のメダルかじり、海外で冷ややか」という記事にあったアメリカ人のツイッターへの投稿である。「日本で働く女性の現状を象徴している。年配の男性が(女性の)個人空間に侵入し、苦労して手に入れた成果を台無しにする」という指摘である。この「個人空間への侵入」という指摘はよく判る気がする。批判された後で河村市長が最初に発表したコメントで「最大の愛情表現だった」と言った。これが今回一番気持ち悪いと思ったが、セクハラや体罰を「愛情」だという発言を何度も聞いたと思う。
「個人の尊厳」への配慮がなく、図々しく踏み込んできて、それを「愛情」と呼ぶ。例えば教科書を忘れたと言うから隣の生徒に見せてあげたら、指をなめてページをめくったり勝手に書き込みされたというようなものか。それをおかしいと思わないことが一番の問題で、気付いていないのである。本当ならシャチホコを噛んだときに誰かが市長をたしなめるべきだったが、こういう人が権力を持っていると誰も直言しなくなるだろう。ところで、この金メダル事件の構造は、「リコール問題」と同じだと思う。昔の市議会リコール時の署名簿が今回利用されたと言われるが、それがそもそも「個人情報の流用」である。
(愛知県知事リコール運動を進める河村市長)
それとともに、そもそもの「言論の不自由展」のとらえ方がおかしい。展示内容が「反日」だというが、それを河村市長は見たのか。見ないで批判してるし、他の人にも見るなという。見る前に禁止されたら、内容の判断が出来ない。一般市民は判断する必要がないというのである。そして、何を考えたのか開催責任者だった大村知事をリコールするという。本人は善事をなしていると思い込んでいるのかもしれないが、すべて「思い込み」である。不勉強に対して助言してくれる人がいない。河村市長の振る舞いを見て、日本のありようと自分も含めた人の生き方を考えるきっかけにしなければと思う。
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