尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ロベルト・ロッセリーニ監督「ローマで夜だった」

2021年11月27日 22時31分01秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ロベルト・ロッセリーニ監督の「ローマで夜だった」(1960)を見た。イタリアのネオ・レアリズモを代表するロベルト・ロッセリーニだが、1961年のキネ旬8位の「ローマで夜だった」を長いこと見られなかった。(この年は1961年は1位がベルイマンの「処女の泉」で「ウエスト・サイド物語」が4位だった。)今回は池袋の新文芸坐が独自に上映素材を得て字幕も付けたもので、先週は「自由は何処に」(1054)の上映もあったが、夜遅くの上映なので2連続は辛いから今回だけ見た。
 
 前作「ロベレ将軍」(1959)はロッセリーニと同じくネオ・レアリスモを代表するヴィットリオ・デ・シーカ監督が主演した大層立派なレジスタンス大作だった。続く「ローマで夜だった」も同じようにイタリア戦線のレジスタンスを描くモノクロの大作。尼僧姿の3人の女性が農家で食料を買っている。農民たちは実は脱走捕虜3人を倉庫で匿っていて、もう限界だから何でも安くする、ハムも付けるから引き取ってくれと押しつけられる。やむを得ずトラックの後ろに匿って、何とかドイツ軍の検問を通過してエスペリアジョバンナ・ラッリ)の家まで連れてきたのだった。衣装箪笥の後ろが屋根裏に通じていて、捕虜はそこで匿うことにする。

 脱走捕虜はイギリス、アメリカ、ソ連と国籍も違う組み合わせだった。尼僧に連れられてきたので、当然修道院のようなところへ行くと思うと、町中の家である。彼らは不審に思うが、実は尼さん姿は買い出し用の偽装だった。ドイツ兵も尼僧には警戒を緩めるらしい。第二次大戦末期、イタリアでは1943年にムッソリーニが失脚し、連合軍に降伏した。しかし、ヒトラーが直接ドイツ軍を送り込んでムッソリーニを救出してイタリア北部を占領していた。連合軍はシチリア島に上陸し、本土進撃を目前にしていた。そんな時代の話である。エスペリアは家に3人も男がいることが不安、一方、3人もここがどこだか判らず不安。朝になると鐘が鳴り始め、窓外を見るとローマではないか。サン・ピエトロ寺院やサンタンジェロ城が見える。
(昔ビデオになったらしい)
 英語、ロシア語、イタリア語が交錯し、意思疎通もままならないが、エスペリアは男友達のレナート(レナート・サルヴァトーリ)を呼んでくる。「若者のすべて」で次男シモーネを演じていた人である。レナートは秘かにレジスタンスに参加しているようで、足を負傷しているアメリカ兵のために英語を話せる医者を連れて来る。初めはすぐに追い出したかったエスペリアだったが、負傷者がいるのでむげに追い出せない。そのうちに情が通うようになり、クリスマスまでと決める。3人はクリスマスの飾り付けをして、エスペリアとレナートを歓待する。このあたりまでは人民の連帯を感動的に描きだしている。

 もちろんすべてうまく行くはずがなく、翌朝逃亡しようとしたときにレジスタンスの拠点が襲われてしまう。レナートとエスペリアも逮捕され、ソ連兵のイヴァンは逃げようとして射殺される。イヴァンはソ連の有名な監督・俳優のセルゲイ・ボンダルチュクが重厚に演じていた。米英の二人は何とか逃れてエスペリアの家の屋根裏に隠れたが、そこに屋根伝いに隣家の貴族の息子が救いにきた。貴族の館に匿われるが、そこにもドイツの秘密警察が訪れ、今度は修道院に逃れる。この段階では貴族も教会も(おそらくバチカンの指導層も)反ナチスで一致している。

 ドイツ軍が襲われ、報復としてレナートは殺されたと伝わるが、エスペリアは釈放された。しかし、イタリア人にも親ドイツ勢力は存在し、密告で修道院も襲われる。密告者の手はエスペリアにも伸びてくるが…。その頃、ローマは連合軍によって解放された。しかし、レナートを救おうとしてエスペリアはナチスの尋問に屈してしまったと涙ながらに語るのだった。民衆の中の気高い心と卑屈な心をともに描き出して、この映画は終わる。イタリア戦線のレジスタンス映画もずいぶんあるが、脱走捕虜を主人公にする点が珍しい。しかし、米英ソと一人ずつ出て来て、皆が皆善人でイタリア人と心通わせるというのが公式的だ。

 「ロベレ将軍」は舞台を収容所に限定しながら、「抵抗者とは誰のことか」というテーマを突き詰めていた。それに比べると、「ローマで夜だった」は今ではずいぶん公式的なレジスタンス映画に見えてしまう。だからこそ、その後ほとんど上映の機会もないんだと思う。ロッセリーニ監督は「無防備都市」「戦火のかなた」が世界的に評価された。それを見て、ハリウッドの人気女優だったイングリッド・バーグマンがロッセリーニのもとを訪れ、お互いに配偶者と子どもがあったのに恋愛関係になった。しかし、その時期の映画は「世界一の美女を妻にしながら、なぜこんな判らない映画に主演させるのか」と当時は思われたらしい。その時期のことはロベルト・ロッセリーニのバーグマン時代(2016.11.30)にまとめた。

 僕も50年代には評価されなかった「ストロンボリ」「ヨーロッパ、一九五一年」「イタリア旅行」などの不安と不条理の世界を生き抜くバーグマン主演映画が、今になるとロッセリーニの真骨頂だと思う。「ローマで夜だった」は公式的なレジスタンス映画の枠内で作られた「良心的映画」を脱していないように感じた。だからこそ、60年前の日本でベストテンに入選したのだと思う。もうすでにフランスではヌーベルバーグが始まっていた。フランスでは「ヌーベルバーグの父」と尊敬されたロッセリーニが作ったヌーベルバーグ以前の映画だが、戦争末期のイタリアの状況を教えてくれるという意味はある。
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