ポール・セロー(Paul Theroux、1941~)というアメリカ出身の作家がいる。僕が学生の頃、ユーラシア大陸の鉄道を乗りまわった「鉄道大バザール」(THE GREAT RAILWAY BAZAAR、1975)という本が大評判になった。鉄道ファンでもある作家の阿川弘之訳で1977年に出版され、新人作家の長大な紀行ものにも関わらず(日本が登場することもあって)、ずいぶん話題になった。でも、厚くて高い本だったから当時は読まず、文庫本も出たのだが買わなかった。今度講談社文芸文庫で再刊されたので、上下で1600円×2=3200円と単行本より高いくらいなんだけど、思い切って買ってしまった。合わせて650頁くらいになる。(ポール・セル―という名前で出されている。しかし、この人の本は「セロー」と書かれることの方が多いので、セローと書く。)
ところで、このポールさんは21世紀になって、ほぼ同じ旅程を再訪することを思い立ち「センチメンタル・ジャーニー」に旅立った。最初の旅の時はベトナム戦争の影を旅していたが、2回目の旅はイラク戦争を背負う旅となった。日本も再訪している。この本が「ゴースト・トレインは東の星へ」(Ghost Train to the Eastern Star、2008)として出版され、2011年に西田英恵訳で翻訳された。上下2段組で560頁、3600円もする厚くて高い本。図書館で借りて読んだけど、読んでるうちに最初の方の国は忘れていってしまう。間に1冊別の本(「ふがいない僕は空を見た」)をはさんで、ここ2週間くらいずっと読み続けた。鉄道本だと思っては間違いで、鉄道を使って各国の民衆とも触れ合う本。鉄道から見た国際関係論みたいな感じで、2冊を読み比べると、この30年という月日を考えることになる。この素晴らしい読書体験は、是非アジアと鉄道と旅と文学が好きな人にお勧めしたい。(僕が思うに、今書いた順番でおススメで、アジアや鉄道ファンの方が、単なる文学好きより興味深いと思う。)
この数年、セローの新刊本は一冊しか出ていないと思う。村上春樹訳で「村上春樹翻訳ライブラリー」に入っている「ワールズ・エンド(世界の果て)」という短編集である。どんな話かと思うと、ワールズ・エンドというのはロンドン郊外のバス停の名前なのである。この短編集はすごく面白くて、他にセローの本はないか探した。1986年にハリソン・フォード、リバー・フェニックス主演で映画化された「モスキート・コースト」の原作者がセローだったけれど、もう絶版になっていた。その他、アメリカ大陸や中国や地中海、アフリカなどを旅した本がいろいろあるようだけど、未翻訳が多い。だから最近の日本では、鉄道ファンよりも村上春樹ファンに知られていただろう。2回目の旅では、その村上春樹と会って「トーキョー・アンダーグラウンド」を回っている。この部分は必読である。
アメリカ人で鉄道好きというのもなんか不思議な感じもするけど、ボストンの生まれで60年代に青春を送った世代なのである。大学を出た後、「平和部隊」に参加してアフリカのマラウイに行き、その後シンガポールの大学で英文学を教える仕事を見つけた。しかし、シンガポールの抑圧的な体制にそぐわず再任を拒否され、ロンドンで細々と作家をしていた。妻子を抱えた無名作家として追いつめられていたセローは、鉄道でロンドンからアジアを回ってみようと思いついたのである。
最初の旅のルート。ロンドンを15時30分に起ってパリへ。オリエント急行で、スイス、イタリア、ユーゴスラビア、ブルガリアを経てトルコへ。続いてイランへ行って東北部のマシャド(メシェッド)まで鉄道で。飛行機でアフガニスタンへ行き、カイバル峠を鉄道で。パキスタン、インド、スリランカの大旅行。カルカッタからビルマのラングーンへ。ビルマ北東部まで鉄道へ。戻ってバンコクへ飛行機で。タイからラオス、マレーシア、シンガポールへ。南ベトナムへ飛行機で行き、ユエの鉄道へ。サイゴンから飛行機で東京へ行き、札幌、京都まで。横浜からナホトカへ船で行き、シベリア鉄道でソ連を横断、モスクワ、ワルシャワ、ベルリンを経てロンドンへ戻る。
ちょっと細かく書いたので、世界地理に詳しくないと判りにくいと思うから、後で地図を載せておく。この30年でずいぶん変わってしまった。まずなくなってしまった国が、ユーゴスラビア、南ベトナム、ソ連と3つもある。政治体制がガラッと変わってしまったのが、旧ユーゴ諸国、ブルガリア、イラン、アフガニスタン、ラオス、ベトナムである。1979年のイスラム革命以後、アメリカはイランと断交したままだから、もはやセローはイランに入国できない。アフガニスタン、パキスタンもアメリカ国籍の人が旅行するのは危険な感じだから避けて通らざるを得ない。
代わりに中央アジア諸国に鉄道で行けそうだ。ということで、二度目の旅は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを経てトルコへ。そこからグルジア、アゼルバイジャン。カスピ海を横断してトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、飛行機でインドへ。スリランカ、ミャンマー、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、中国(昆明だけ)を経て、日本へ。そしてロシアをシベリア鉄道で横断して帰る。それが今回のルートで、カンボジアが初めて。ベトナムはアメリカと戦争した国を訪ねることになる。戦争や歴史を考えるという点では、年齢を重ねたということもあり、今回の方が深い感じ。でも、最初の旅は「青春の旅」の勢いと「昔の匂い」がある。どっちがどっちとも言えないが、同じところを訪ねているところもあるので、「鉄道大バザール」を読んでから「ゴースト・トレイン」を読む方がいい。
(左が1回目の旅)
2回目の旅行は、セローが有名作家になったからか、いろいろな人に会っている。トルコでオルハン・パムク(ノーベル文学賞作家)、スリランカでA・C・クラーク、日本で村上春樹である。村上春樹の章は、合羽橋に行き、浅草の並木薮で蕎麦を食べ、ポルノショップに行く。東京大空襲や地下鉄サリン事件を論じながら。そしてメイド喫茶に行って、日本の男の性的欲望の構造を考察する。マンガその他を通して見えてくるものは日本男性として恥かしい感じがするが、一読の価値ある部分である。村上春樹がテレビにも出ずあまり顔を知られていないことで、こういうことができるのを知るのも面白い。しかし、それ以上に火星人みたいなアーサー・C・クラークの姿こそ忘れがたい。この「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるSF作家は、後半生をスリランカで送ったことで有名だった。
最初、オリエント急行のあまりのひどさに絶句する。今はパリへもトンネルで行けるし、津軽海峡もトンネル。(最初の旅は青函連絡船だった。)トルコの発展ぶりは目覚ましい。インドも大発展してバンガロールも訪れるが、人が多すぎる。タイやマレーシアも安定して発展している。ベトナムはアメリカ人が旅行して戦争の話もするが、実に印象的。一回目の旅は73年で「停戦協定」は結ばれたが、内戦が続いていた。もう大変な中を旅しながら国土の美しさに感動している。こういう美しい国だから、フランスが植民地化し、アメリカも出てきたのかと書いている。2度目の旅では素晴らしい経済発展ぶりで、人々の向上心に感心しながら旅している。一方、前回はとても入れなかったカンボジアでは、何年たってもポル・ポト時代の負の遺産が大きい。今も苦しむ様子が印象的である。
変わっていないのはビルマで、国名だけミャンマーに変わったが、抑圧体制は不変。2005年当時の話である。会う人々皆が軍を嫌い、アウンサンスーチーを待ち望んでいる。北部のマンダレーから少し行った英国が開発した避暑地で、懐かしい再会がある。このビルマ、ミャンマーの章が一番感動的である。この本の出版後に劇的に変化したことがうれしい、一方、「中央アジアの北朝鮮」と言われていた、ニヤゾフ独裁下のトルクメニスタンの、バカバカしいほどの個人崇拝と独裁ぶりも描かれている。よく入国できたものだが、そんな作家という情報も持ってなかったんだろう。独裁者ニヤゾフはその後急死したので、貴重なドキュメントになった。
日本では北海道を訪れ、稚内まで行って「稚内温泉童夢」に行っている。ここは僕も行ったけど、日本一の温泉という訳では全くない。他の温泉に是非連れて行きたくなった。マレーシアを鉄道で旅したこともあり、クアラ・ルンプール駅の素晴らしさは僕も知っている。行きたくなったのはスリランカ。最近は車で行ってしまうけど、寝台列車の旅もしたくなってきた。アジアの香辛料の匂い、日本の蕎麦も含めたヌードルの旅でもある。このスパイス臭がダメな人にはこの本は無理だが、全体に漂うアジアの香辛料のムードが懐かしいという人には、この本は忘れられない読書になるはずだ。
ところで、このポールさんは21世紀になって、ほぼ同じ旅程を再訪することを思い立ち「センチメンタル・ジャーニー」に旅立った。最初の旅の時はベトナム戦争の影を旅していたが、2回目の旅はイラク戦争を背負う旅となった。日本も再訪している。この本が「ゴースト・トレインは東の星へ」(Ghost Train to the Eastern Star、2008)として出版され、2011年に西田英恵訳で翻訳された。上下2段組で560頁、3600円もする厚くて高い本。図書館で借りて読んだけど、読んでるうちに最初の方の国は忘れていってしまう。間に1冊別の本(「ふがいない僕は空を見た」)をはさんで、ここ2週間くらいずっと読み続けた。鉄道本だと思っては間違いで、鉄道を使って各国の民衆とも触れ合う本。鉄道から見た国際関係論みたいな感じで、2冊を読み比べると、この30年という月日を考えることになる。この素晴らしい読書体験は、是非アジアと鉄道と旅と文学が好きな人にお勧めしたい。(僕が思うに、今書いた順番でおススメで、アジアや鉄道ファンの方が、単なる文学好きより興味深いと思う。)
この数年、セローの新刊本は一冊しか出ていないと思う。村上春樹訳で「村上春樹翻訳ライブラリー」に入っている「ワールズ・エンド(世界の果て)」という短編集である。どんな話かと思うと、ワールズ・エンドというのはロンドン郊外のバス停の名前なのである。この短編集はすごく面白くて、他にセローの本はないか探した。1986年にハリソン・フォード、リバー・フェニックス主演で映画化された「モスキート・コースト」の原作者がセローだったけれど、もう絶版になっていた。その他、アメリカ大陸や中国や地中海、アフリカなどを旅した本がいろいろあるようだけど、未翻訳が多い。だから最近の日本では、鉄道ファンよりも村上春樹ファンに知られていただろう。2回目の旅では、その村上春樹と会って「トーキョー・アンダーグラウンド」を回っている。この部分は必読である。
アメリカ人で鉄道好きというのもなんか不思議な感じもするけど、ボストンの生まれで60年代に青春を送った世代なのである。大学を出た後、「平和部隊」に参加してアフリカのマラウイに行き、その後シンガポールの大学で英文学を教える仕事を見つけた。しかし、シンガポールの抑圧的な体制にそぐわず再任を拒否され、ロンドンで細々と作家をしていた。妻子を抱えた無名作家として追いつめられていたセローは、鉄道でロンドンからアジアを回ってみようと思いついたのである。
最初の旅のルート。ロンドンを15時30分に起ってパリへ。オリエント急行で、スイス、イタリア、ユーゴスラビア、ブルガリアを経てトルコへ。続いてイランへ行って東北部のマシャド(メシェッド)まで鉄道で。飛行機でアフガニスタンへ行き、カイバル峠を鉄道で。パキスタン、インド、スリランカの大旅行。カルカッタからビルマのラングーンへ。ビルマ北東部まで鉄道へ。戻ってバンコクへ飛行機で。タイからラオス、マレーシア、シンガポールへ。南ベトナムへ飛行機で行き、ユエの鉄道へ。サイゴンから飛行機で東京へ行き、札幌、京都まで。横浜からナホトカへ船で行き、シベリア鉄道でソ連を横断、モスクワ、ワルシャワ、ベルリンを経てロンドンへ戻る。
ちょっと細かく書いたので、世界地理に詳しくないと判りにくいと思うから、後で地図を載せておく。この30年でずいぶん変わってしまった。まずなくなってしまった国が、ユーゴスラビア、南ベトナム、ソ連と3つもある。政治体制がガラッと変わってしまったのが、旧ユーゴ諸国、ブルガリア、イラン、アフガニスタン、ラオス、ベトナムである。1979年のイスラム革命以後、アメリカはイランと断交したままだから、もはやセローはイランに入国できない。アフガニスタン、パキスタンもアメリカ国籍の人が旅行するのは危険な感じだから避けて通らざるを得ない。
代わりに中央アジア諸国に鉄道で行けそうだ。ということで、二度目の旅は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを経てトルコへ。そこからグルジア、アゼルバイジャン。カスピ海を横断してトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、飛行機でインドへ。スリランカ、ミャンマー、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、中国(昆明だけ)を経て、日本へ。そしてロシアをシベリア鉄道で横断して帰る。それが今回のルートで、カンボジアが初めて。ベトナムはアメリカと戦争した国を訪ねることになる。戦争や歴史を考えるという点では、年齢を重ねたということもあり、今回の方が深い感じ。でも、最初の旅は「青春の旅」の勢いと「昔の匂い」がある。どっちがどっちとも言えないが、同じところを訪ねているところもあるので、「鉄道大バザール」を読んでから「ゴースト・トレイン」を読む方がいい。
(左が1回目の旅)
2回目の旅行は、セローが有名作家になったからか、いろいろな人に会っている。トルコでオルハン・パムク(ノーベル文学賞作家)、スリランカでA・C・クラーク、日本で村上春樹である。村上春樹の章は、合羽橋に行き、浅草の並木薮で蕎麦を食べ、ポルノショップに行く。東京大空襲や地下鉄サリン事件を論じながら。そしてメイド喫茶に行って、日本の男の性的欲望の構造を考察する。マンガその他を通して見えてくるものは日本男性として恥かしい感じがするが、一読の価値ある部分である。村上春樹がテレビにも出ずあまり顔を知られていないことで、こういうことができるのを知るのも面白い。しかし、それ以上に火星人みたいなアーサー・C・クラークの姿こそ忘れがたい。この「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるSF作家は、後半生をスリランカで送ったことで有名だった。
最初、オリエント急行のあまりのひどさに絶句する。今はパリへもトンネルで行けるし、津軽海峡もトンネル。(最初の旅は青函連絡船だった。)トルコの発展ぶりは目覚ましい。インドも大発展してバンガロールも訪れるが、人が多すぎる。タイやマレーシアも安定して発展している。ベトナムはアメリカ人が旅行して戦争の話もするが、実に印象的。一回目の旅は73年で「停戦協定」は結ばれたが、内戦が続いていた。もう大変な中を旅しながら国土の美しさに感動している。こういう美しい国だから、フランスが植民地化し、アメリカも出てきたのかと書いている。2度目の旅では素晴らしい経済発展ぶりで、人々の向上心に感心しながら旅している。一方、前回はとても入れなかったカンボジアでは、何年たってもポル・ポト時代の負の遺産が大きい。今も苦しむ様子が印象的である。
変わっていないのはビルマで、国名だけミャンマーに変わったが、抑圧体制は不変。2005年当時の話である。会う人々皆が軍を嫌い、アウンサンスーチーを待ち望んでいる。北部のマンダレーから少し行った英国が開発した避暑地で、懐かしい再会がある。このビルマ、ミャンマーの章が一番感動的である。この本の出版後に劇的に変化したことがうれしい、一方、「中央アジアの北朝鮮」と言われていた、ニヤゾフ独裁下のトルクメニスタンの、バカバカしいほどの個人崇拝と独裁ぶりも描かれている。よく入国できたものだが、そんな作家という情報も持ってなかったんだろう。独裁者ニヤゾフはその後急死したので、貴重なドキュメントになった。
日本では北海道を訪れ、稚内まで行って「稚内温泉童夢」に行っている。ここは僕も行ったけど、日本一の温泉という訳では全くない。他の温泉に是非連れて行きたくなった。マレーシアを鉄道で旅したこともあり、クアラ・ルンプール駅の素晴らしさは僕も知っている。行きたくなったのはスリランカ。最近は車で行ってしまうけど、寝台列車の旅もしたくなってきた。アジアの香辛料の匂い、日本の蕎麦も含めたヌードルの旅でもある。このスパイス臭がダメな人にはこの本は無理だが、全体に漂うアジアの香辛料のムードが懐かしいという人には、この本は忘れられない読書になるはずだ。
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