尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「アイダよ、何処へ?」、スレブレニツァ虐殺事件に挑む力作

2021年09月25日 22時36分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年米アカデミー賞長編国際映画賞にノミネートされた「アイダよ、何処へ?」(Quo Vadis, Aida?)が公開された。ボスニア・ヘルツェゴビナの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチが、1995年に起こったスレブレニツァの虐殺事件に真っ正面から挑戦した力作だ。臨場感にあふれていて、見ていて心が苦しくなる。90年代のボスニア内戦のことはよく知らない、覚えてないという人が日本では多いんだろうと思う。でも世界に大きな衝撃を与えた出来事で、それ以後に与えた影響が多い。知らない人にこそ是非見て欲しい映画だ。

 映画の内容を書く前に、ボスニア戦争の解説を先に。バルカン半島西南部のスラブ系諸民族が連合した「ユーゴスラビア」という国がかつてあった。第二次大戦時にドイツに占領されたが、チトーを中心にしたパルチザンが自力で解放した。戦後に社会主義連邦となりソ連から離れた独自の「自主管理社会主義」を唱えたが、1980年にチトーが亡くなり、90年に一党独裁が崩れると民族対立が激しくなる。「スロベニアクロアチアが独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の動きが始まった。(結局「6つの共和国」の連邦は完全に崩壊して、7つの国家に分解した。他にセルビア、モンテネグロ、北マケドニア、コソヴォである。)

 この地域はオスマン帝国とハプスブルク帝国の境界で、正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人の他、オスマン帝国治下にイスラム教に改宗したボシュニャク人(昔はモスレム人と呼んだ)が混住していた。(民族は分かれているが、言語は共通。)独立するとボシュニャク人が多数派になるため、セルビア人勢力は独立を問う国民投票をボイコットした。1992年の独立宣言後に、セルビア人地区はスルプスカ共和国の分離独立を宣言した。クロアチア人地区も含めて、民族間の陣取り合戦のような戦争が発生し、民族浄化強制収容強制追放レイプ虐殺等が頻発して世界に衝撃を与えた。1995年10月に停戦協定(デモイン合意)が結ばれるまで戦争が続いた。
 (ボスニアとその周辺)
 ボスニアの首都サラエヴォは1984年に冬季五輪を開催した都市だった。監督のヤスミラ・ジュバニッチ(1974~)はサラエヴォ生まれで戦争の最中に青春を送った。戦争の傷を見つめる「サラエボの花」(2006、ベルリン映画祭金熊賞)、「サラエボ、希望の街角」(2010)で評価され、どちらも岩波ホールで公開された。

 今回の「アイダよ、何処へ?」はボスニアだけでは製作費がまかなえず、オーストリア、ドイツ、フランス、オランダなど合計9ヶ国の合作で製作された。1995年7月5日に起こった東部の都市スレブレニツァの大虐殺事件を描く問題作である。主人公のアイダはもとは教師をしていたが、国連平和維持軍として駐屯しているオランダ軍の通訳(英語)として活動している。現実を背景にしながら人物は創作だと言うが、この国連軍通訳を主人公にしたことで、セルビア人勢力やオランダ軍の内情を自然に描くことに成功した。
(通訳として活動するアイダ)
 以上のような背景事情を知らなくても、この映画のド迫力の緊迫感は伝わると思う。国連はスレブレニツァを「安全地帯」に指定したものの、「スルプスカ共和国軍」は進撃を止めなかった。国連平和維持軍としてオランダ軍が配備されていたが、400人ほどで装備も不足し補給も途絶えていた。世界中で今まで数多くの残虐な事件が起こったが、この虐殺は現地に国連軍がいたのだから本来防げなければおかしい。それが実際には強硬な武装勢力が要求すれば、ズルズルと妥協してしまう様子が生々しく描かれている。その責任がどこにあったか、オランダでは大問題となり最終的に政府が責任を認めた。

 セルビア勢力が攻めてくると、人々は国連軍基地に逃げ込もうとする。受け入れに限界があるから軍はゲートを閉めてしまう。アイダは何とか家族だけでも救いたい。セルビア勢力が現地の代表を出せと言うから、高校の校長をしている夫を代表に選んでしまい、無理やり夫と2人の子どもを基地に入れることに成功する。その後も何とか国連軍の仕事をしていることにして救出して欲しいと頼むが、国連軍側は一部だけ優遇できないと断る。通訳をしながら家族救出こそ一大事である。一体どうなるのか、一時も気を緩められない。
(セルビア人武装組織のムラディッチ)
 そこに進軍してくるセルビア人勢力のムラディッチ将軍。半端ない存在感で強烈なインパクトである。女と子どもは避難を認めるが、男だけは別にする。日本軍侵攻時の南京などと同じく、軍人は男の中に敵対した軍人が潜んでいると思っている。この恐ろしさは言葉では伝えられない。結局スレブレニツァでは8737人の犠牲者が出たとされる。ヨーロッパで戦後に起きた最悪の事件である。1993年に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷がオランダのハーグに設置され、ムラディッチも起訴された。しかし、ムラディッチは逃走を続け長く行方がつかめなかった。ようやく2011年になって逮捕され、その後無期懲役が確定した。

 ところで驚くべきことに監督はキャスティングを民族で制限しなかった。アイダ役のヤスナ・ジュリチッチはセルビアで活躍する女優で、ムラディッチ役のボリス・イサコヴィッチもセルビア人。それどころか2人は夫婦だと言うから、全く驚いてしまう。2人とも映画出演に関してセルビアで非難されているという。「自国をおとしめる」などと攻撃する輩がいるのは日本や中国だけではないのである。原題のQuo Vadisとは、有名なシェンキェヴィッチ(ポーランドのノーベル文学賞受賞作家)の小説だが、本来はラテン語で「どこに行くのか?」の意味。ヨハネ福音書の言葉である。心揺さぶられる問題作だ。
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