尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

笠原十九司『憲法九条論争』を読むー九条の幣原提唱説を「証明」

2024年04月12日 22時56分53秒 |  〃 (歴史・地理)
 積んであった新書本を片付けている。「新書」は専門外の最新知識を学べて重宝するけど、つい読み忘れて長年放ってしまった「古新書」がいっぱいある。その幾つかの感想を書きたい。最初に書く笠原十九司憲法九条論争』(平凡社新書、2023)は、去年の4月に出た本だからまだ「新」の範囲かなと思う。笠原氏は大著『日中戦争全史』(2017年12月に2回にわたって感想を書いた)など、ずいぶん読んできたから買ってみた。1年読まなかったのは、450頁という新書と思えない厚さに理由がある。読み出したら案外スラスラ読める本だったが、史料がいっぱいあって現代史に詳しくない人には取っつきにくいかもしれない。

 「憲法九条論争」と言えば、普通は「護憲か改憲か」の論争である。あるいは「安保法制」のような「集団的自衛権の一部解禁」が解釈上認められるかどうかという論争もある。しかし、この本で「証明」しようとするのは、そういう「九条をどう考えるか」じゃない。そもそも条文を発案したのは誰かという問題である。そこに特化した大著なのである。簡単に言えば、「幣原喜重郎(首相)説」と「マッカーサー(連合国軍最高司令官)説」のどっちが正しいのかである。影響を与えたとか、容認したというレベルでは他にもあり得るが、重大問題だから発案はトップに限られるだろう。
(笠原十九司氏)
 副題が「幣原喜重郎発案の証明」とあるように、本書は最近ちょっと影が薄かった「幣原説」を全面展開している。一応解説しておくと、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951)は1945年10月に東久邇宮王内閣が崩壊した後、1946年5月まで半年ちょっと総理大臣を務めた。大日本帝国憲法下で最後から二人目の首相である。外交官出身で、1924年~27年、29年~31年に外務大臣を務めたことで知られる。その時は英米と協調的な外交を展開し、軍部・右翼からは「軟弱外交」と攻撃され、戦時中は事実上の引退に追い込まれていた。幣原は高齢(73歳)のため固辞したが、昭和天皇から直接説得され引き受けることとなった。
(幣原喜重郎)
 当時の情勢を細かく説明していると終わらないので省略する。今までは「永遠の謎」などとも言われていた。これまでの論争史は、この本の後半で数多くの研究書を批判しているので大体理解できる。もう80年近い昔の話になって、今になるとどっちでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。だが戦後史では「マッカーサーの押しつけだから改正するべきだ」という右派の主張をめぐって、「平和憲法」は「押しつけ」だったのかが大きな政治問題になってきた経過がある。
(マッカーサー)
 マッカーサー(1880~1964)の回想記では、幣原首相が言い出したことになっている。それを信じれば論争は即終了だが、そうもいかない事情が多い。そもそも回想記は死の直前の1964年にアメリカで刊行されたもので、80歳を越えた老人の「回想」である。回想記は長年経ってからの記憶で書かれるため、直接史料が示されない場合は厳密な史料批判が欠かせない。マッカーサーは大言壮語で知られた人物だし、日本占領は成功したと評価されたい動機がある。自分が日本に押しつけたと本人が言うわけもないから、史料価値は低くなる。当時の直接史料がないので信憑性に疑問が付くわけだ。

 幣原喜重郎は首相退任後、1949年2月から51年3月10日に死亡するまで、衆議院議長を務めていた。52年4月まで占領が続いていたので、役目上からも憲法制定の「秘話」は封印したまま亡くなった。直接史料はだから日本側にもないのである。しかし、笠原氏は「傍証」を積み重ねることで真相に迫れるとして、今まで史料価値が低いとされてきた(らしい)「平野文書」の価値を高く評価している。一方で史料価値が高く評価されてきた「芦田均日記」には問題があるとしている。

 細かな論点になるけれど、芦田日記には幣原本人も九条に疑問を持っていたような記述がある。しかし、「日記」は同時代の記録という優れた史料価値があるものの、要するに記録者の主観を書くものだから史料批判が必要だとする。幣原がマッカーサーの言葉を紹介した言辞を、芦田本人が九条条文に疑問を持っていたために、幣原本人が反対意見を述べたように聞いてしまったというのである。これは一般論としてはあり得る話で、今まで芦田は衆議院で「芦田修正」(今は説明を省略)をした人物だから日記の記述も信じた人が多いが、再検討する必要があると思った。

 ところで本書で高い評価を与えられた「平野文書」とは何か。それは衆議院議員で幣原の側近だった平野三郎(1912~1994)が、衆議院落選中の1963年に国会の憲法調査会に提出した報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」のことである。平野は1949年から1960年まで衆議院議員に5回当選した。一期生の時に幣原議長の「秘書」になったと言うが、議員が正式の秘書になるわけもなく、要するに幣原に私淑して秘書のように仕事をしていたということらしい。直接は事情を公に語らなかった幣原も、自宅が近く折々に話を聞きに行った平野には心許して真相を語ったというのである。
(平野文書)
 平野三郎という人物は、片山内閣の農相を務めた(罷免された)平野力三の甥だという。平野力三は戦前の農民運動家として知られるが、無産運動の中の最右派というべき人だった。戦前戦後で衆院議員を8期務め、近代史ではある程度知名度がある人物である。甥の平野三郎は1966年に岐阜県知事選に立候補して現職を破って当選、3期務めた。ただ笠原著では部下の汚職の責任を取って辞任したとあるが、実は本人が1976年に収賄罪で逮捕、起訴され、裁判でも有罪が確定している。1976年には福島県の木村守江知事も収賄で起訴され、当時は両事件が大問題になった。(平野は議会で不信任決議が可決され、これは公選知事初だった。)
(平野知事当選の新聞記事)
 「平野文書」の史料価値には直接関わらないけど、平野三郎という人物の人生最大の汚点に触れないのは疑問だ。この本で読む限り、「平野文書」には一定の史料価値を認めても良い感じだが、自分には最終的な判断は付かない。それより、「昭和天皇実録」の公刊によって、問題の時期に昭和天皇と幣原首相が長時間会っていることが確認された。帝国憲法下だから当然のことだが、時間的には不自然なぐらい長い。幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を行き来しながら、「天皇制を存続させるためには如何なる方策を取るべきか」を模索していたことが推測される。その「解」が「憲法九条」であると理解すべきではないかと思う。

 問題が問題だけに、端折りつつも長くなってしまった。この本の核心は「幣原首相は本心を閣僚たちにも隠しながら芝居をしていた」という理解にある。芝居に気付かなかった吉田茂や芦田均の史料を探っても真相に達することは出来ないという。そう言われてしまっては身もふたもない気がする。要するに「憲法九条」を占領軍に「押しつけて貰う」ことなしに、象徴天皇制という形で天皇を存置することは難しいと幣原は考えた。幣原には戦前の「不戦条約」的な理想主義的平和主義があったのも間違いないだろうが、結局は「象徴天皇制」を「押しつけて貰う」のが幣原の目論みではないか。

 ただ「傍証」を積み重ねて事実認定するのは最高裁も認めた手法だと論じるのは疑問がある。直接証拠がないのに有罪認定され、冤罪を主張して再審請求を行う事件も数多い。それは別にしても、「傍証」しかなければ「謎」でも良いのではないか。
コメント (2)
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