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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

西田敏行、大山のぶ代、旭國、白井佳夫他ー2024年10月の訃報①

2024年11月05日 21時46分30秒 | 追悼

 2024年10月の訃報特集1回目。何とか一回で思ったけど、挙げていくと案外多くの人が亡くなっていた。まず芸能関係やテレビで見聞きした人を取り上げたい。俳優の西田敏行が10月17日に亡くなった。76歳。死因は「虚血性心疾患」と発表された。当日も仕事が入っていたので、本人にも全く予期せぬ死だった。この日は新潟県の栃尾又温泉に出掛けていた日で、多分テレビで大きく報道されたんだろうけど、全く見てない。もとは舞台出身で、1968年に青年座俳優養成所に入り、71年の『写楽考』で早くも主役を務めた。その当時は中高生で、もちろん全然知らない。では、いつ名前と顔を覚えたのか、全く記憶にないのである。

(西田敏行)

 テレビでは『池中玄大80キロ』や数多くの大河ドラマ、舞台では森繁久彌を継ぎ『屋根の上のバイオリン弾き』、映画では『釣りバカ日誌』シリーズなど数多くの出演歴があって、誰もが何かを見た記憶があるだろう。僕にとっては山田洋次監督『学校』の夜間中学の黒井先生役が一番思い出にある。製作スタッフはよほど念入りに取材したんだろうが、職員室のムードが実に本当らしかった。西田敏行もホンモノの教員っぽかった。とても良く出来た映画なので、僕は定時制高校に勤務していたとき、毎年のようにビデオを見せていたものだ。夜間中学と定時制高校は違うけれども、共通点も多い。生徒も食い入るように見ていた。だから西田敏行と言えば、まずはこの映画を思い出すのである。養護学校を舞台にした『学校Ⅱ』でも主演しているが、やはり第1作。

(映画『学校』)

 西田敏行は1947年に福島県郡山市に生まれた。そのことを強く意識したのは2011年のことだ。福島第一原発の事故に強く怒り、風評被害に抗議し、福島のために多くのテレビに出て発言した。紅白歌合戦にも21年ぶりに出演し、「あの街に生まれて」という曲を歌ったが涙なくして聴けぬ熱唱。大ヒットした「もしもピアノが弾けたなら」も、それまでは不器用な男のラブソングだと思っていたけど、今は大津波や原発事故で苦難の境遇にある人の叫びに聞こえてしまうのである。

 声優の大山のぶ代が9月29日に死去した(10月5日公表)。90歳。1979年から2005年まで『ドラえもん』のドラえもんの声を担当したことで知られる。俳優座養成所7期生で、当初は俳優を目指していたが、次第に声の特質を買われて初期テレビ放送の声優に採用されることが多くなった。それが『名犬ラッシー』とか人形劇『ブーフーウー』って言うんだから、僕は幼い頃に聞いていたはずである。夫は初代「たいそうのおにいさん」の砂川啓介。晩年はアルツハイマー病を公表していた。

(大山のぶ代)

 大相撲の元大関旭國、引退後は大島親方として部屋を起こした太田武雄が10月22日死去、77歳。芸能人じゃないけど、テレビで見ていたという意味で、ここで。174㎝、118㎏の小兵力士ながら、多彩な技を繰り出し、技能賞6回、敢闘賞1回受賞。「ピラニア」と呼ばれ、食いついたら離さない取り口で知られた。当時最高齢の28歳で大関に昇進し、21場所務めた。しかし、優勝が一度もないのは、当時の横綱輪島、北の湖に弱かったのである。1977年9月場所など、14勝1敗の好成績を挙げたが、全勝した横綱北の湖にただ1敗して準優勝に留まった。僕はこの技巧派大関が好きで応援していたんだけど、残念。親方としては、モンゴル人力士を受け入れたことで知られ、最初に来た中の一人旭天鵬が太田姓を名乗って日本国籍を取得し、大島部屋を継いでいる。

(旭國=前大島親方)

 映画評論家の白井佳夫が10月5日死去、92歳。この人は12チャンネル(テレ東)にあった「日本映画名作劇場」の解説を担当して「日本映画の本当の面白さをご存じですか?」という決めぜりふで知られていた。その前にキネマ旬報編集長を1968年から務めていて、高校時代からキネ旬を読んでいたのでよく知っていた。その時代のキネ旬は様々な筆者が登場して非常に面白かった。(前月書いた渡辺武信の日活アクション論も長期連載されていた。)ところが総会屋のオーナーが竹中労の連載などを問題視して、1977年に白井佳夫編集長解任事件が起こった。抗議の支援運動が起こり、北の丸公園のサイエンスホールで行われた集会に僕も参加した思い出がある。そんなこともあったなと思いだした訃報だった。

(白井佳夫)

 ファッション評論家で知られた「ピーコ」(杉浦克昭)が9月3日に死去していた。双子の弟「おすぎ」とともに、同性愛を公表した「おすぎとピーコ」としてテレビで幅広く活躍した。70年代、80年代には多くのテレビ番組に出演し、辛口ファッション批評などをしていたので、多くの人の思い出にあると思う。晩年には認知症などの報道があり、なかなか大変だったようだ。

(ピーコ)

 料理研究家の服部幸應が4日死去、78歳。服部栄養専門学校の校長を親から引き継ぎ、1981年服部学園理事長にも就任。「料理の鉄人」など多くのテレビ番組に出演、料理界のご意見番的存在だった。「食育」の重要性も説き、2005年の食育基本法制定に尽力した。フランスのレジオンドヌール勲章の他内外の受賞多数。

(服部幸應)

・俳優の稲垣美穂子が8月6日に死去していた。86歳。50年代日活映画を見ると、主役じゃないけど2番手みたいな格で出ている若い女優がいて、誰だろうと思ったことがある。それが稲垣美穂子という人だとやがて知ったけど、その後を知らなかった。61年に俳優座に移って本格的な舞台女優を目指し、その後1977年には「劇団目覚時計」を主宰して、親子の絆などをテーマにした家族向けミュージカルを全国で公演したという。60年代から90年代に掛けて多くのテレビも出演していた。

・ジャズドラマーの猪俣猛が4日死去、88歳。日本を代表するドラマーとして活躍し、若手育成にも尽力した。

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アルベルト・フジモリ、高木剛、園部逸夫、縫田曄子他、2024年9月の訃報③

2024年10月09日 22時33分31秒 | 追悼
 政治関係の物故者を内外まとめて。一応「追悼」というカテゴリーになるが、追悼する気持ちではない人も含まれる。まずは元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが9月11日に死去、86歳。現地では「フヒモリ」という発音になる。熊本から移民した両親のもとに首都リマで生まれ、大使館に「藤森謙也」と届け出たため日本の戸籍がある。(2007年の参院選で国民新党から立候補したことがある。そのことは『アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか』に書いた。)1957年にラ・モリーナ国立農科大学大学院農業工学専攻を首席で卒業。そのまま同大学で教員となり、1984年には総長となった。1990年の大統領選に「変革90」を結成して立候補し、当初は本命視されていなかったが、決選投票で後のノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=リョサを破って当選した。(なお実は日本生まれで幼児として移民したという説もある。それが事実だと憲法の規定で大統領になれない。)
(アルベルト・フジモリ)
 大統領時代(1990~2000、3選)の業績は、今なお評価が二分されている。当時のペルーはハイパーインフレと「極左ゲリラ」のテロで治安が悪化していた。フジモリは強権を振るって経済も治安も安定に向かったため、その強権を評価する人も多い。一方で議会と憲法を停止し、軍による治安回復を図ったやり方を「独裁」と批判する人もいる。30年以上経ってもペルー国内で評価は定着していない。日本では保守派を中心に「日系人大統領」というだけで高く評価した人がいて、人権無視の強権的手法が軽視されている。テロ対策や貧困対策に一定の成果があったのは間違いないが、憲法規定を無視して3選したのは問題だ。さらに2000年にブルネイでのAPEC首脳会議のため出国したまま、東京からファックスで大統領を辞任したのは非難されて当然だ。その後ペルーに戻り、2010年に禁錮25年の判決が確定した。(2023年12月に高齢のため釈放。)

 労働組合の中央組織「連合」の第5代会長(2005~2009)、高木剛(たかぎ・つよし)が9月2日死去、80歳。旭化成労組書記長から、1988年に上部組織ゼンセン同盟書記長、1996年に会長。日本の労働運動の中で、旧民社党系(旧「同盟」)のリーダー的存在で、94年には連合副会長となった。2003年の会長選では笹森清に敗れ、2005年は急きょ立候補した鴨桃代に323票対107票で勝った。対立候補が立ったのも「闘わない労働組合」への批判が根強かったことを物語る。民主党の小沢一郎代表(当時)と関係を深め、2007年参院選、09年衆院選で民主党を支援した。外務省に出向しタイ大使館一等書記官を務めたこともある。
(高木剛)
 元参議院議員(4期)、東海大学総長の松前達郎が9月8日死去、97歳。東海大学創立者松前重義の長男として生まれ、東北大学で工学博士となった。1963年に東海大教授、72年に学校法人東海大学副学長、91年から死ぬまで東海大学総長を務めた。その間、1977年に社会党から参議院議員に当選、その後民主党に移り、2001年まで務めた。日本学生野球協会会長など多くのスポーツ関係の役職も務めていた。結構有名人だったと思うが、高齢になりすぎて忘れられたか小さな訃報だった。
(松前達郎)
 元最高裁裁判官の園部逸夫(そのべ・いつお)が9月13日死去、95歳。89年から99年に最高裁裁判官を務めた。直近の前職は成蹊大学教授で、専門は行政法。しかし、それ以前に裁判官経験が長かった。1970年に京都大学助教授から東京地裁裁判官に転じたが、司法試験を経ずに裁判官になった珍しいケースである。退官後の2004年に小泉内閣で「皇室典範に関する有識者会議座長代理」に就任、皇室典範の女系・女帝容認の報告書を作成した。2012年には野田内閣で、『女性宮家』検討担当内閣官房参与に就任した。その内容の評価はともかく、退官後に「女性皇族問題」に関わったことで今後も議論される人だろう。
(園部逸夫)
 NHKで女性初の解説委員となり、その後東京都民生局長になった縫田曄子(ぬいだ・ようこ)が9月9日死去、102歳。1971年に美濃部都知事の要請に応えて東京都初の女性局長となった(75年まで)。77年に国立婦人会館初代館長、86年から93年まで市川房枝記念会理事長を務めた。その間、いちいち書かないが政府や民間の各種審議会などに参加している。このように戦後女性史の重要人物だが、この人も長寿のため知らない人が多くなったんだろう。小さな訃報に驚いた。
(縫田曄子)
 ここでどう書くべきか難しいが、レバノンのシーア派組織ヒズボラの最高指導者ナスララ師(ハサン・ナスララ)が、9月27日にイスラエル軍の爆撃で死亡した。1992年にヒズボラの第3代書記長となり、以後30年以上イスラエルと対峙してきた。イスラエルがレバノンを空爆するのは「主権侵害」だが、ヒズボラも事実上レバノン南部で「国家内国家」として存在していた。レバノン人の抵抗組織ではなく、イランの指示によって動く組織だったのも間違いない。イスラエルはハマスが支配したガザ地区に続き、ヒズボラ支配地区を徹底的に制圧するため地上侵攻を行っている。しかし、よくまあヒズボラ最高幹部の居場所をピンポイントで爆撃できたのか、イスラエルの諜報能力はすさまじいものがある。
(ナスララ)
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山藤章二、細江英公、渡辺武信、赤澤史朗他ー2024年9月の訃報③

2024年10月08日 21時52分05秒 | 追悼
 2024年9月の訃報、日本の文化関係にしぼって。イラストレーターの山藤章二が9月30日死去、87歳。何と言っても「週刊朝日」に1976年から2021年まで2260回連載した「ブラック・アングル」である。風刺とブラックユーモアを利かしたイラストが評判となり、「週刊朝日を後ろから開かせる男」と呼ばれた。ホントに傑作が多く、僕も同時代に見て爆笑したものだ。83年に菊池寛賞。「週刊朝日」も2023年5月で終わってしまった。傑作の数々は検索すればいっぱい出て来るので、ここには載せない。
(山藤章二)
 写真家の細江英公が9月16日死去、91歳。1963年に三島由紀夫をモデルに使った『薔薇刑』を発表して注目された。70年には舞踏家土方巽を秋田の農村で撮影した『鎌鼬』(かまいたち)で芸術選奨文部大臣賞。リアリズム写真とは違う芸術表現としての写真を追求した。2010年に文化功労者。ちゃんと見たことはないが、特に三島の姿など一度見たら忘れがたい写真だ。
(細江英公)(『薔薇刑』)
 詩人、建築家、映画評論家の渡辺武信が8日死去、86歳。1964年に鈴木志郞康、天沢退二郎などと詩誌「凶区」を創刊して活躍した。僕にとってはキネマ旬報に延々と連載した『日活アクションの華麗な世界』(1980ー81)の著者として忘れられない。日活アクションとは、50年代末から60年代前半にかけ石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子らが出演して作られた娯楽映画群(プログラム・ピクチャー)である。それらの映画は、「自己の誇り」のためにアイデンティティを賭けて闘う映画だったと分析した。僕にとって非常に大きな影響を与えられた本である。
(渡辺武信)
 日本近現代史専攻の歴史学者、立命館大学名誉教授の赤澤史朗が9月20日死去、76歳。この訃報には驚いた。若い頃に赤澤氏らの思想史研究会に参加していた思い出があるからだ。早稲田大学大学院の博士課程で学び、1988年から立命館大学法学部助教授、教授となった。一般に知られた著作としては、『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』(岩波現代文庫)がある。他に『近代日本の思想動員と宗教統制』『戦没者合祀と靖国神社』など。
(赤澤史朗)
 考古学者、歴史民俗学博物館教授の松木武彦が9月21日死去、62歳。大学時代にアーチェリー部に所属していたことをきっかけに、古代の弓を研究した。そこから戦争と平和の考古学研究に領域を広げ、さらに過去の遺物を通して当時の人々の心に迫る「認知考古学」で知られた。『列島創世記 旧石器・縄文・弥生・古墳時代』(2008)でサントリー学芸賞。『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』(2001)、『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』(2011)、『縄文とケルト 辺境の比較考古学』(2017)など一般向け著作も多かった。現職中の死去は残念すぎる。
(松木武彦)  
 作家の宇能鴻一郎が8月28日に死去、90歳。1962年に『鯨神』で芥川賞を受けたが、70年代に官能小説の第一人者となった。最近になって昔の異色小説が再評価されて、詳しくは『姫君を喰う話』(新潮文庫)を読んだときに書いたので参照。
(宇能鴻一郎)
 合唱指揮者の田中信昭が9月12日死去、96歳。東京混声合唱団の創設を主導し、多くの新作の初演して「独自の合唱文化を構築」したと出ている。全国のプロ、アマの合唱団の指導に積極的に取り組んだ。2016年に文化功労者。8月31日にも東混公演で指揮をしていたというが、僕はこの人の名前も知らなかった。
(田中信昭)
 歌謡グループ「敏いとうとハッピー&ブルー」のリーダー、敏いとうが9月10日死去、84歳。本名は伊藤敏。71年に結成し、「わたし祈ってます」が大ヒットした。「星降る街角」「よせばいいのに」などで「ムード歌謡の帝王」と呼ばれた。
 (敏いとう)
 文芸評論家、慶応大名誉教授の福田和也が9月20日死去、63歳。『日本の家郷』やエッセー『悪女の美食術』などが評価された。保守派の論客として知られ、『日本クーデター計画』などひんしゅくを買うような本をあえて出している。また『作家の値打ち』(2000)では100人の作家を点数で評価して話題となった。江藤淳の影響を受け、追悼・回想記『江藤淳という人』(2000)を書いた。ネット以前の「保守論壇誌」時代の文化人だったかも。
(福田和也)
 ノンフィクション作家の佐々淳子が9月1日死去、56歳。 災害現場や死をテーマにした作品で知られる。『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』で2012年開高健ノンフィクション賞。また東日本大震災で被災した製紙工場を描く『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』、週末期がん患者を追った『エンド・オブ・ライフ』などの著書がある。2022年末に脳腫瘍が見つかり闘病していた。僕は全然知らなかった人。
(佐々淳子)
 映画スクリプターの白鳥あかねが14日死去、92歳。1955年から日活のスクリプター(記録)として多くの作品に関わった。後にシナリオも書くようになり、日活ロマンポルノなどを手掛けた。著書に『スクリプターはストリッパーではありません』がある。僕は何度かトークを聞いたことがある。作家、エッセイスト、ポプリ研究家の熊井明子が9月21日死去、84歳。『シェイクスピアの香り』などで山本安英賞。ポプリブームの立役者で、ポプリ、猫、シェークスピア関係の本の多数の著書がある。映画監督の故熊井啓氏の夫人。
(白鳥あかね)(熊井明子)
・元共同テレビ会長の岡田太郎が3日死去、94歳。フジテレビでドラマ製作に関わった。吉永小百合の夫。
・音楽プロデューサーの川添象郎(かわぞえ・しょうろう)が8日死去。「ヘアー」の日本公演やYMOの世界進出に尽力した。
・洋画家で芸術院会員の中山忠彦が24日死去、89歳。
・書評家の茶木則雄が死去、67歳。27日に公表されたが死亡日は未発表。ミステリー専門書店「ブックスサカイ深夜プラス1」の店長をつとめ、その後フリーライターとしてミステリーなどの書評で活躍した。
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マギー・スミス、クリス・クリストファーソン、セルジオ・メンデス他ー2024年9月の訃報①

2024年10月07日 20時13分05秒 | 追悼
 2024年9月の訃報特集。3回になる予定。まず政治関係を除く、外国の文化、スポーツ関係から。イギリスの俳優マギー・スミスが9月27日死去、89歳。マスコミでは晩年の『ハリー・ポッター』シリーズや『ダウントン・アビー』が大きく扱われていた。もちろんその通りだけど、元々はイギリスの舞台俳優で50年代から近年までシェークスピアなど数多く演じてきた。映画も早くから出ていたが、『オセロ』(1965)で米アカデミー賞助演女優賞にノミネートされて注目された。その後、数多くの映画に出演し、『ミス・ブロディの青春』(1969)でアカデミー賞主演女優賞、『カリフォルニア・スイート』(1978)で助演女優賞。『天使にラブソングを』(1992)が世界的にヒットしたが、僕の一番の思い出は『眺めのいい部屋』(1986)。
 (マギー・スミス)
 アメリカのシンガーソングライター、俳優のクリス・クリストファーソンが9月28日死去、88歳。オックスフォード留学、陸軍士官学校の経歴を捨てて、カントリー歌手になる夢に賭けてナッシュヴィルに向い、コロンビア・レコードの清掃夫をしながら歌手をめざした。ジャニス・ジョプリンが歌って全米1位となった「ミー・アンド・ボビー・マギー」を作った人である。60年代末から俳優としても活躍し、特にサム・ペキンパー監督の『ビリー・ザ・キッドの生涯』『ガルシアの首』『コンボイ』で活躍した。バーブラ・ストライサンドと共演した『スター誕生』でゴールデングローブ賞を受賞。『アリスの恋』『午後の曳航』(三島由紀夫原作をアメリカで映画化)などでも重要な役を演じた。21世紀にも出演しているが、やはり70年代の印象が圧倒的。生涯で3回結婚し、2回目(73~80)の相手は歌手のリタ・クーリッジだった。
 (クリス・クリストファーソン)
 ブラジルの音楽家で、ボサノバ『マシュ・ケ・ナダ』が世界的にヒットしたセルジオ・メンデスが9月5日死去、83歳。もともとクラシックを学んだが、やがて当時人気だったボサノバに移行した。1965年からはアメリカで活動し、1966年に「セルジオ・メンデス&ブラジル'66」のファーストアルバムを発表。その中の『マシュ・ケ・ナダ』がシングルカットされ大ヒットした。確かにこれは若い頃にラジオでよく掛かっていた。何となく知ってる人が多いだろう。ちなみに「マシュ・ケ・ナダ」とは当時のサンパウロのすラングで「まさか」「なんてこった」というような意味だという。70年の大阪万博公園他、数多くの来日公演がある。
(セルジオ・メンデス)(「マシュ・ケ・ナダ」)
 「ジャクソン5」のメンバーで、次兄にあたるティト・ジャクソンが15日死去、70歳。つまり、マイケル・ジャクソンの兄になる。グループではギタリストとコーラスを担当した。アメリカの俳優ジェームズ・アール・ジョーンズが9日死去、93歳。『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダーや『ライオン・キング』のムファサの声優をやった人である。しかし、本当は舞台やテレビで活躍し、トニー賞3回、エミー賞2回の受賞歴がある俳優だった。映画では『ボクサー』(1970)で、黒人初のヘビー級チャンピオンになりながら白人女性と恋愛して排斥されるボクサーを演じてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
(ティト・ジャクソン)(ジェームズ・アール・ジョーンズ)
 アメリカのミステリー作家、ネルソン・デミルが17日死去、81歳。日本では報道されなかったが、かつてずいぶん翻訳されて読まれていた。長い作品が多く、文庫本だと2冊になることが多かった。『誓約』『チャーム・スクール』『将軍の娘』『ゴールド・コースト』『王者のゲーム』など、全部上下本。最初の3冊は「このミス」入選作で、僕も読んだはずだけど全然覚えてない。
(ネルソン・デミル)
 スポーツではアメリカの元プロ野球選手、監督のピート・ローズが30日死去、83歳。この人は良くも悪くも「伝説の人」だった。MLB最多安打(4256本)、最多出場試合(3562試合)、年間200本安打10回などの最高記録を持ち、大リーグ史上最高の選手と目された。しかし、引退後に監督をしていた1989年に野球賭博への関与が発覚し、球界を永久追放になった。完全にギャンブル依存で毎晩のように賭けていたというが、自チーム勝利に賭けていたという。90年には脱税で服役したこともある。記録の偉大さから何度も復権の動きがあったが、結局認められなかった。サッカー元イタリア代表サルバトーレ・スキラッチが18日死去、59歳。90年ワールドカップ・イタリア大会で得点王、最優秀選手に輝いた。94~97年には磐田でプレーした。
(ピート・ローズ)(スキラッチ)
・ドイツの現代美術家レベッカ・ホルンが6日死去、80歳。羽や角などで身体を拡張したパフォーマンスで知られた。2010年に世界文化賞。
・フランスの映画撮影監督のピエール=ウィリアム・グレンが24日死去、80歳。トリュフォー監督の『アメリカの夜』『トリュフォーの思春期』などを撮影した。ジョージ・ロイ・ヒル監督の『リトル・ロマンス』などアメリカ映画でも活躍した。
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田中美津、竹本信弘、荒井献、伊藤隆他ー2024年8月の訃報③

2024年09月08日 21時32分23秒 | 追悼
 1970年代前半の「ウーマンリブ」運動の中心だった女性運動家、鍼灸師の田中美津が7日死去、81歳。60年代末にベトナム反戦運動に関わるようになり、本郷三丁目の自宅が東大闘争活動家のアジト化した。活動家の男性を見て失望し、「女性解放」という問題意識を持ち、1970年8月、「女性解放連絡会準備会」を結成。10月21日の国際反戦デーで女性だけのデモを行い、「便所からの解放」というビラを配った。同年「ぐるーぷ闘うおんな」を結成。これらの活動は現代フェミニズム運動の出発点とされる。75年の「国際婦人年メキシコ会議」に出席するためメキシコに赴き、そのまま4年滞在した。帰国後、鍼灸学校に通い、82年から新宿で鍼灸師を続けた。そのことも含めて、同時代の女性の生き方に大きな影響を与えてきた。著書に『いのちの女たちへ』(1972)や『自分で治す冷え性』(1995)など。ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(2019)がある(追悼上映あり)。
(田中美津)(昔)
 1970年前後に新左翼の理論家滝田修のペンネームで「過激派の教祖」と呼ばれた竹本信弘が7月14日に死去、84歳。8月に報道された。京都大学で思想史を専攻し、1967年に京大経済学部助手となった。暴力革命論を展開し当時学生たちに影響を与えたと言われる。1971年8月に起こった「朝霞自衛官殺害事件」(「赤衛軍事件」)の首謀者とされ、1972年1月9日に指名手配されたが、竹本は不当な濡れ衣を晴らす義務はないとして、以後「潜行」生活に入った。この事件は川本三郎『マイ・バック・ページ』の事件だが、実行犯Kは「虚言癖」があり供述には問題があると言われていた。
(竹本信弘=滝田修)
 僕が知っているのはその「潜行」報道からで、1974年には潜行しながら本も出し「不在の存在感」があった。後になって土本典昭監督の記録映画『パルチザン前史』を見て、これが滝田修かと感慨があった。10年以上も潜行したが1982年8月8日に逮捕され、裁判では無罪を主張するも1989年に幇助罪で懲役5年の判決が出た。未決勾留の方が長いので直ちに釈放され、同年『滝田修解体』を出版して過去を否定した。調べてみると2018年に『今上天皇の祈りに学ぶ』という本を出していて、この人も結局「転向」したのかと思った。何故出頭して裁判闘争を行わなかったのか、僕は昔から疑問に思っている。
(映画『パルチザン前史』) 
 新約聖書研究の第一人者荒井献(あらい・ささぐ)が16日死去、94歳。原始キリスト教史や新約聖書学が専門で、聖書の歴史的研究を行った。東大名誉教授、学士院会員。イエスの実像を探る研究は多くの人に影響を与え、特に1973年の岩波新書『イエスとその時代』は僕も刺激を受けた。『原始キリスト教とグノーシス主義』(1971)で学士院賞。専門研究は奥深いが、イエスやユダを論じた一般書は現代思想として読まれた。なお、2010年に亡くなった夫人の荒井英子氏は『ハンセン病とキリスト教』(1996)などの著書があり、以前『小島の春』の映画上映と荒井英子さん講演会を企画した思い出がある。
(荒井献)
 歴史学者の伊藤隆が19日死去、91歳。日本近現代政治史専攻、東大名誉教授。保守系論客として知られ、「新しい歴史教科書をつくる会」理事となり、分裂後は「日本教育再生機構」に参加し育鵬社教科書の執筆代表者となった。この人に関しては、2015年に中公新書の書評『伊藤隆「歴史と私」を読む』を書いた。若い頃から立場が違うけど、史料発掘の業績は大きい。その本でもいかに昔の政治家の文書を見つけるかが大変に面白かった。また「オーラル・ヒストリー」の開拓者としての業績もある。70年代には戦前の日本政治史を「ファシズム」ととらえることに疑問を表明し論争となった。その問題については思うところもあるが、ここでは触れないことにする。伊藤史観が定説となったわけではないだろう。
(伊藤隆)
 7月29日に世界第2位の高峰K2(パキスタン、8611m)で山岳カメラマン、クライマーの平出和也(ひらいで・かずや、45歳)と中島健郎(なかじま・けんろう、39歳)が滑落した。この事故に関して、8月22日二人が所属する「石井スポーツ」が「生死を確認できない」ものの、「追悼の意を表する」と死亡と認識する報告を発表した。二人とも「世界最強」と言われるクライマーで、少人数で荷物を軽量化してスピーディーに行動する「アルパインスタイル」で、数々の未踏ルートを登ってきた。「登山界のアカデミー賞」と言われるフランスのピオレドールを平出は日本人最多の3回、中島も2回受賞している。
(左=平出和也、右=中島健郎)
・元プロ野球選手の宅和本司(たくわ・もとじ)が4日死去、89歳。1954年に何回に入団し26勝9敗、防御率1.58、275奪三振で、新人王と投手三冠に輝いた。翌年も24勝11敗で最多勝。その後近鉄を経て61年引退。通算成績は56勝26敗なので、ほぼ最初の2年だけの活躍だった。また元大相撲の小結千代天山が28日死去、48歳。99年に入幕し、連続3場所で三賞を受賞したことで知られる。99年名古屋場所で新小結となるがケガでその後は活躍出来なかった。
・在外被爆者救援に取り組んだ森田隆が12日死去、100歳。広島の被爆者だが、56年ブラジルに移住。日本では原爆手帳が支給されていると知り、84年に「在ブラジル原爆被爆者協会」を設立した。自伝『広島からの最後のメッセージ』(2017)がある。また広島の被爆者で原爆死没者名簿の記帳を約40年間続けた池亀和子が16日死去、82歳。
・沖縄戦研究で知られた元沖縄国際大教授、吉浜忍が23日(訃報発表日)までに死去、74歳。2戦争遺跡の文化財指定に取り組むとともに大学に「沖縄戦」の科目を新設した。2017年に『沖縄の戦争遺跡』を出版した。
・「シャトレーゼ」創設者の斉藤博が10日死去、90歳。1954年に山梨県甲府市で菓子販売業を始め、67年に合併してシャトレーゼとなった。
・前島根県知事での溝口善兵衛が20日死去。財務官時代は「ミスター・ドル」と呼ばれた。07年から3期島根県知事。
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桂米丸、新川和江、田名網敬一、松岡正剛他ー2024年8月の訃報②

2024年09月07日 21時54分46秒 | 追悼
 2024年8月の訃報。日本人は芸能、文学、アート関係などを最初に書き、学者や社会運動、その他の人を2回目に。僕には何と言っても高石ともやさんの訃報に大きな衝撃を受けた。

 落語家で元落語芸術協会会長の4代目桂米丸(かつら・よねまる)が1日に死去、99歳。この年齢には驚くが、引退していたわけではない。2019年9月が最後の高座(新宿末廣亭)で、90歳を過ぎても寄席に出ていた。しかも自作の新作落語で皆を笑わせていたのである。僕は何度も聴いていて元気な人だなと思っていたが、コロナを機に見なくなった。1961年から75年まで続いたテレビ番組「日曜演芸会」で司会をしていたので、多くの人に知られていた。また1976年に芸術協会会長となり、77年の法人化(落語芸術協会)後も99年まで23年間にわたって会長を務めた。1946年に古今亭今輔に入門して1949年に桂米丸を襲名。弟子の桂歌丸が先に亡くなったが、他の弟子に桂米助(ヨネスケ)や桂幸丸桂竹丸桂米福などがいる。新作を作り続けた情熱が凄い。
(桂米丸)
 詩人の新川和江が10日死去、95歳。僕はほとんど読んでなくて、茨城県結城市出身とも知らなかった。疎開してきた西条八十に詩を学んだというから創作歴が長い。1953年に第一詩集『睡り椅子』を発表以来、多数の詩集を刊行し現代詩人賞、歴程賞など多くの受賞歴がある。83年に吉原幸子とともに季刊雑誌「ラ・メール」を創刊して女性詩人を育てた。代表作としては「わたしを束ねないで」が知られている。「わたしを束(たば)ねないで/あらせいとうの花のように/白い葱(ねぎ)のように/束ねないでください わたしは稲穂(いなほ)/秋 大地が胸を焦がす/見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂」(中略)「わたしを名付けないで/娘という名 妻という名/重々しい母という名でしつらえた座に/座りきりにさせないでください わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風」と続く。全文はネット上でも読めるが、力強い言葉だ。
(新川和江)
  グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家の田名網敬一が9日死去。88歳。武蔵野美大在学中の1957年に日宣美で特選。卒業後に広告会社に勤めるが2年で退社に幅広い創作活動を展開した。極彩色のポップなデザインで知られたが、アメリカ大衆文化の影響だけでなく東京大空襲など戦時の記憶が反映していると言われる。僕は70年代に四谷三丁目にあったイメージフォーラムで、映像作品の特集上映を見た記憶がある。ちょうど現在国立新美術館で大回顧展を開催している。
 (田名網敬一)
 著述家、編集者で「編集工学」を提唱した松岡正剛(まつおか・せいごう)が12日死去、80歳。71年に出版社「工作舎」を設立して.雑誌「」を創刊した。そのことは記憶しているが、「遊」は買ったことがない。自分の方向性と少し違っていたのである。2000年からネット上で「千夜千冊」の連載を始め、一日一冊ずつ同じ著者は取り上げずに完走した。しかし、それも読んでなくて、僕は名前を知っていただけで読んだことがない人だった。文化横断的に日本文化を幅広く論じ、多くの人々に影響を与えた。
(松岡正剛)
 ノンフィクション作家の石川好(いしかわ・よしみ)が19日死去、77歳。伊豆大島に生まれ、大島高校卒業後に兄を頼って渡米し農園で働いた。1969年に帰国し慶応大を卒業、再び渡米し庭園業で働いた。1981年帰国後米国体験を基に作家となり、『カリフォルニア・ストーリー』(1983)でデビューした。1988年の『ストロベリー・ロード』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。これはものすごく面白い本で、カリフォルニアのイチゴ農園の体験を描いている。突然現れた大型新人という感じで、その後日米関係に関して多くの言論活動を行った。テレビにもよく出ていて、1995年の参院選に「新党さきがけ」から神奈川選挙区で出馬したこともあった。(3人当選のところ、5位で落選。)その後、あまり名前を聞かなかったが、今回調べると秋田公立美術工芸短期大学学長や酒田市美術館長などを務めていた。そう言えば忘れてたなあと思い出した訃報。
(石川好)
 作家の大崎善生(おおさき・よしお)が3日死去、66歳。日本将棋連盟に勤務し、雑誌「将棋世界」編集長時代に『聖(さとし)の青春』(新潮学芸賞)で作家デビュー。映画化もされた。『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞、『パイロットフィッシュ』で吉川英治新人賞を受けた。2001年から作家に専念し短い作家人生の中で多くの作品を残している。
(大崎善生)
・7月13日に児童文学者の矢玉四郎が死去、80歳。「はれときどきぶた」のシリーズで知られた。
・俳優の下村青が15日死去、60歳。劇団四季で『コーラスライン』『キャッツ』『ライオンキング』などに出演した。
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アラン・ドロンとジーナ・ローランズー2024年8月の訃報①

2024年09月06日 22時30分02秒 | 追悼
 2024年8月の訃報特集。8月には重要な訃報が相次いだが、国内のものが多かった。外国人で日本にも知名度が高い人はアラン・ドロンだけだろう。そこで今回は外国の訃報を最初に書き、日本人の訃報は2回に分けて書きたい。フランスの映画俳優アラン・ドロン(Alain Delon, 1935.11.8~2024.8.18)が8月18日に亡くなった。88歳。近年体調不良が伝えられていたので意外感はないが、訃報が大きかったのに驚いた。今でも「二枚目俳優」として知名度が高いのである。(「二枚目」は死語かもしれないが。)
 (アラン・ドロン若い頃)
 両親が離婚したため家庭的に恵まれず、若くして軍隊に入りインドシナ戦争に従軍した。休戦協定でフランスへ帰り、カンヌ映画祭でスカウトされた。美男子ぶりに自信を持って、カンヌを訪れたのである。そして「世紀の美男子」として世界で人気を得た。日本では1960年公開の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)で人気がブレイクし、今も代表作と呼ばれる。パトリシア・ハイスミスの原作にある毒や暗さを表現できる俳優だった。しかし、生い立ちも影響したかもしれない「影」が最後まで付きまとった。むしろ初期の代表作はヴィスコンティに愛された『若者のすべて』や『山猫』じゃないだろうか。さすがに巨匠の傑作である。
(『山猫』)
 人気的にも作品的にもピークは60年代後半から70年代前半だろう。数多くの映画に出ているが、ほとんどが犯罪者役。それは日本の高倉健などとも共通する。『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督)のようにロマンティックな映画もあるが、一番ハマっているのはジャン=ピエール・メルヴィル監督作品だと思う。刑事役の『リスボン特急』もあるが、『サムライ』『仁義』では孤独な犯罪者を見事に演じている。「サムライ」は原題通りで、「一匹狼の殺し屋」をやっている。もともと侍の原義はボディガードだが、いつのまにか外国では一匹狼的なイメージになったわけである。
(『サムライ』)
 アラン・ドロンは最初アメリカ映画にスカウトされた。まずフランス映画界で成功したが、ハリウッド進出を考えていた。60年代半ばにはハリウッドに移住しアメリカ映画に出ていた。また仏伊合作『さらば友よ』(チャールズ・ブロンソンと共演)、『ボルサリーノ』(ジャン=ポール・ベルモンドと共演)などがヒットした。そしてアメリカの西部劇『レッド・サン』でチャールズ・ブロンソン、三船敏郎を共演した。しかし米映画では余り成功せず、その後はフランスを中心に中級娯楽作が多くなった。1985年に『真夜中のミラージュ』でセザール賞男優賞を受けたが、どんな映画か覚えていない。作品的には初期以外は恵まれなかった。
(『レッド・サン』)
 私生活では僕の知った頃(70年代初期)には女優のミレーユ・ダルクと「同棲」していて、その前に女優ナタリー・ドロンと結婚していたが、さらにその前には女優ロミー・シュナイダーと婚約していた。これらの情報は日本の映画雑誌にも細かく紹介されていた。日本でも非常に人気があったが、殺人事件への関与疑惑などスキャンダルも絶えなかった。そのような点も含めて「暗い魅力」があったと言うべきか。1975年の『アラン・ドロンのゾロ』という映画があったが、とても楽しい映画で、こういう映画こそ本領発揮というべきだろう。テレビでは野沢那智が吹き替えをやっていたのも思い出。

 アメリカの女優ジーナ・ローランズ(Gena Rowlands)が8月14日に死去、94歳。アメリカ映画はカリフォルニア州のロサンゼルス郊外ハリウッドが中心となってきたが、それ以外でも映画は作られてきた。その代表が「ニューヨーク派」で、インディペンデンスで作家性の強い映画が作られてきた。1959年に『アメリカの影』を作ったジョン・カサヴェテスが代表。そのジョンと演劇学校時代に知り合い、1954年に結婚したのがジーナ・ローランズだった。二人の間に生まれたニック・カサヴェテスゾエ・カサヴェテスは映画監督になり、ニックの監督した『きみに読む物語』にはジーナ・ローランズも出演した。
(ジーナ・ローランズ)(ジョン・カサヴェテスと)
 テレビにもよく出ていたらしいが、代表作は夫であるジョン・カサヴェテス作品になる。特に『こわれゆく女』(1974)は情緒不安定な妻役でアカデミー賞主演女優賞ノミネート。さらに『オープニング・ナイト』(1877、ベルリン映画祭女優賞)、『グロリア』(1980、アカデミー賞主演女優賞ノミネート)、『ラヴ・ストリームズ』(1984)などで強烈な女性像を演じ続けた。アカデミー賞はどうしても大会社中心になるが、ジョン・カサヴェテス作品でノミネートされたのはそれほど無視できない迫力だったのである。日本でも80年代以後「ミニ・シアター」ブームで公開され、最近も上映されている。
(『グロリア』)
 その中で『グロリア』はジョン・カサヴェテスとしてもジーナ・ローランズとしても異色の作品。ギャングの殺人を目撃したことから追われている少年をたまたま匿って逃げることになる女性をものすごい迫力で描いている。この種の物語の原型となった。知名度はアラン・ドロンに及ばないだろうが、忘れがたい女優である。
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追悼・高石ともやー「フォークソング」の原点を歌い続けた人

2024年08月19日 22時32分09秒 | 追悼
 「フォークシンガー」の高石ともやさんが亡くなった。8月17日死去、82歳。スマホのニュースで見て驚いた。もちろん82歳の男性が亡くなっても驚くようなニュースじゃない。しかし、僕は2023年12月に行われた「年忘れコンサート」に行っていた。そこでは声量など特に衰えを感じさせなかった。この年忘れコンサートに僕は40年以上毎年夫婦で行っている。2022年だけは母親が入院中で危ないと言われていたので、チケットは持っていたが行けなかった。そのまま終わりだと嫌だなと思ってたら、2023年に行けた。そして元気なら2024年もあるのかなと思っていた。

 「高石ともや」という名前は、昔は受験期になると「受験生ブルース」がラジオで流れていたから覚えたんだと思う。大学に入ったらそこは高石ともやの卒業した大学で、当時はクリスマス行事で高石ともやとザ・ナターシャセブンのコンサートが行われていた。まあ、そういうことで同窓生なんだと知ったわけである。その後、いろいろ経緯があるのだが、妻もファンだということで東京で毎年末にあるコンサートに行くようになった。当初は有楽町の読売ホールでやってたが、その後亀戸のカメリアホールに変わった。時間も昔は平日の夜だったが、次第に土曜日の昼間になった。仕事をしてたときも、何とか都合を付けて毎年行ってきた。
(CD「高石友也ベストコレクション」)
 年忘れコンサートには、ある時期まで著名なゲストが出ていた。谷川俊太郎永六輔灰谷健次郎などは特に思い出にある。新内の岡本文弥もそこで聞いた。同じ「フォークシンガー」と言われる中川五郎遠藤賢司などもゲストで来たことがある。コンサートでは毎年のように歌われる「」「私の子どもたちへ」「想い出の赤いヤッケ」など定番の名曲も良いけれど、それ以上に一年を振り返る歌やトークが楽しみだった。東日本大震災の後で、被災地に行って感じたこと、それが心に響く。社会の移り変わり、世界の問題、著名人の訃報…いちいち感じ方に共感出来るのである。
(75歳でホノルルマラソン連続完走40年の日。2016年12月。)
 本当に凄いと思うのは、毎年12月上旬に行われるホノルルマラソンに参加していたことだ。走り終えて、戻ってすぐにコンサート。本当に丈夫そうで、80歳を超えても声量はしっかりしていた。ある時期からマラソンを始めて、市民ランナーとして有名になった。日本初のトライアスロン大会で優勝しているので、単なる「市民ランナー」を越えているし、「君はランナー」という曲も作っている。多くのマラソン大会に招かれ、走るとともに歌ってきた。有森裕子の言葉で知られる「自分をほめてあげたい」はもともと高石ともやさんの言葉だった。そして妻に先立たれてから10年以上も元気で活動を続けたのは本当にすごいと思う。
(CD「陽気に行こう」107ソングブックCD版)
 思い出はいっぱいあるが、少し音楽的に振り返っておきたい。高石ともや(当初は「高石友也」と表記していた)は「関西フォークの旗手」と呼ばれた。もともとは1941年12月9日(日米開戦翌日)に北海道雨竜町で生まれた。本名は「尻石」だから、これで歌手活動は出来ない。大学で東京に出たが、歌手活動は関西で始めた。その経過はなかなか波瀾万丈なのだが、ここでは省略する。「フォークソング」は要するに「民謡」だが、60年代にはアメリカのジョーン・バエズなどの「反戦フォーク」のイメージが強い。日本でも反戦集会などで歌う人が出てきて、その走りが高石友也岡林友康だった。
(CD「高石ともやのファミリー・フォーク12曲集」)
 ここで興味深いのは、高石友也の名前を使って「高石音楽事務所」が作られ、高石友也も岡林信康もそこに所属したのである。岡林が作って二人で歌った「友よ」は60年代の抵抗歌として金字塔だと思う。またザ・フォーク・クルセダーズや高田渡、五つの赤い風船など皆ここに所属して音楽活動を行ったのである。しかし、70年代になると高石ともやはアメリカに「フォークの原点」を求めて旅立つ。ピート・シーガーなどに学びつつ、さらにブルーグラスなどアメリカの「草の根」の音楽に触れて帰国した。そして福井県名田庄村(現おおい町)に住み、ザ・ナターシャー・セブンを結成した。(グループ名は住んでいた村から。)

 そしてアメリカの歌を原語でコピーするのではなく、きちんと日本語訳を付け日本の歌として歌ったのである。また日本の民謡も歌うなど、独特の歌作りを行った。107曲をレコードにした「107ソングブック」は高く評価され、1979年の日本レコード大賞企画賞を受賞した。しかし、1980年に木田高介(元ジャックス)が脱退、直後に事故死、1982年にはマネージャーの榊原詩朗がホテル・ニュージャパンの火事で亡くなる。それらをきっかけにしてグループ活動が難しくなっていった。以後はほぼ高石ともやはソロで活動する。普通の意味での歌手と言うより、ランナーや市民活動の中で歌い続けるスタイルを一貫させてきた。

 僕には歌手という以上に、個人的思い出がいっぱいあって語りきれない。授業で紹介した歌もあるし、辛いときに口ずさんでいる歌もある。何を書いて良いのかわからないが、取りあえず訃報を聞いて書いた次第。
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キム・ミンギ、ロバート・タウン、シェリー・デュヴァル他ー2024年7月の訃報②

2024年08月08日 22時24分55秒 | 追悼
 2024年7月の訃報特集。外国と1回目で書けなかった国内の訃報。まず韓国のシンガーソングライター、劇作家、俳優のキム・ミンギ(金敏基)が21日に死去、73歳。誰だと言われるかもしれないが、韓国現代史に大きな影響力を持った人である。70年代以後の韓国民主化運動を象徴する歌とされる「朝露」を作った人。「朝露」初め彼の歌は独裁政権下では禁止曲に指定されていた。2003年の金大中の葬儀では集まった人々が期せずして「朝露」の歌声が響いたと言われる。91年にソウル大学路に小劇場を開き、そこから多くの歌手や俳優を輩出した。特に94年初演のミュージカル『地下鉄1号線』は世界的にヒットした。僕は李政美(イ・ジョンミ)さんが「朝露」を原語と訳詞で歌ったCDを持っているけど、今回探し出せなかった。
(キム・ミンギ)
 アメリカの脚本家ロバート・タウンが1日死去、89歳。1974年の『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)でアカデミー脚本賞を受賞した。この映画で身勝手な父を演じていたのが映画監督のジョン・ヒューストンである。他にも『さらば冬のかもめ』『シャンプー』『グレイストーク』でアカデミー賞にノミネートされた。テレビで『ナポレオン・ソロ』などを書いた後で、ロジャー・コーマンの低予算映画の脚本を書くようになり、クレジットされていないものの『ゴッドファーザー』にも参加したという。その後監督にも進出したが成功しなかった。他に『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』(1989、ジャック・ニコルソン監督)や『ミッション・インポッシブル』などがある。
(ロバート・タウン)
 アメリカの女優シェリー・デュヴァルが7月11日死去、73歳。アルトマン監督の『三人の女』(77)でカンヌ映画祭女優賞を受けた。初期にはアルトマン監督作品の出演が多く、独特の風貌が作風に合ってすぐに名前を覚えてしまった。『BIRD★SHT』『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』などである。その後スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(80)で夫に恐怖して絶叫する妻役で知られた。同年のアルトマン監督『ポパイ』のオリーブ役など大作にも出た。90年代以後はテレビドラマの出演が多くなり、2002年に引退。僕は初期のアルトマン作品が好きなので忘れられない女優である。
(シェリー・デュヴァル)
 小説家ではアルバニアのイスマイル・カダレが1日死去、88歳。日本では知名度が低いが、第1回ブッカー国際賞やエルサレム賞などを受けていて、ノーベル文学賞候補と言われていた。アルバニア労働党一党独裁時代には発禁とされ、弾圧を受けた。そのような不条理な体験を原体験にした作品で知られている。日本では『夢宮殿』『砕かれた四月』『死者の軍隊の将軍』などが邦訳されている。またアイルランドの作家エドナ・オブライエンが27日死去、93歳。女性を主題にした作品が評価され、日本でも『カントリー・ガール』『みどりの瞳』『八月はいじわるな月』『愛に傷ついて』などが翻訳されている。
(イスマイル・カダレ)(エドナ・オブライエン)
 アメリカの映画プロデューサー、ジョン・ランドー(5日死去、63歳)は、『タイタニック』の製作者だった。アメリカのビデオ・アートの第一人者、ビル・ヴィオラ(12日死去、73歳)は日本に滞在して禅などの影響も受けた。世界文化賞受賞。アメリカの女優シャナン・ドハーティ(13日死去、53歳)は『大草原の小さな家』の子役で活躍、その後『ビバリーヒルズ白書』のブレンダ役で人気を得た。ベトナムの最高指導者、ベトナム共産党書記長グエン・フー・チョンが19日死去した。80歳。2011年に書記長となり、15年に初の訪米、日本との関係強化を図った。国内では統制を強化し、国家主席2人、国会議長を解任している。それだけの実力者であっても、もう僕はベトナム指導者の名前を覚えていなかった。31日にハマスの最高指導者、イスマイル・ハニヤがイランで殺害された。62歳。これは「イスラエルの国家テロ」というべきだが、ここで書く対象とは異なるだろう。
(グエン・フー・チョン)
 日本ではフリーアナウンサーの押阪忍(6月29日死去、89歳)、陶造形作家で笠間に工房を構えた伊藤公象(いとう・こうしょう、6日死去、92歳)、漫才師「大瀬ゆめじ・うたじ」で活躍し、13年に解散後はピン芸人で活動した大瀬うたじ(6日死去、76歳)、浪曲師で故国本武春の母だった国本晴美(6日死去、86歳)、劇作家、演出家で劇団「少年王者館」主宰の天野天涯(7日死去、64歳)、プロゴルファーで上田桃子や古閑美保らを育てるとともに、マンガの原作者として『風の大地』などが人気となった坂田信弘(22日死去、76歳)、特定のたんぱく質分解酵素「プロテアソーム」の発見者で文化功労者、田中啓二(23日死去、75歳)、91年から1期大阪府知事を務めた中川和雄(29日死去、97歳)、政治家で衆議院議員6期、参議院議員2期、郵政相を務めた渡辺秀央(31日死去、90歳)。この人は自民党、新進党、自由党、民主党、改革クラブ(新党改革)と移った。それよりミャンマー軍部と深いつながりがあることで知られ、日本ミャンマー協会を設立し会長となった。軍事クーデター以後も関わりを持ち続け政界引退後も影響力を持っていた。
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徳田虎雄、湯浅譲二、小原乃梨子、原田奈翁雄、山田宗睦他ー2024年7月の訃報①

2024年08月07日 23時02分58秒 | 追悼

 2024年7月の訃報1回目は国内の訃報。最初は徳田虎雄。7月10日死去、86歳。医療法人徳洲会を一代にして築き、衆議院議員を4期務めた。奄美諸島の徳之島出身で、弟が緊急治療を受けられず急死したことから医師を志した。大阪大学医学部を卒業後、1975年に「命だけは平等だ」の理念を掲げて徳洲会を設立。全国に70以上の病院があり、関連施設400を誇る日本最大の医療法人に発展させた。政界を志すが医師会と対立していたため自民党に入党できず、1983年、1986年に奄美群島区から無所属で落選。当時奄美は全国唯一の「一人区」だった。1990年に初当選。93年は一人区が解消され鹿児島1区、96年からは鹿児島2区で2回当選。しかし、21世紀初頭に筋萎縮性側索硬化症 (ALS)を患い、2005年の選挙に出ず次男毅が地盤を継いだ。2012年の選挙後に徳田陣営の選挙違反事件が発覚し、家族も逮捕された。虎雄は病気のため逮捕されず、事実上その後は社会的活動を引退していた。
(徳田虎雄)
 作曲家の湯浅譲二が7月21日死去、94歳。51年に慶大医学部を退学して音楽に専念、芸術家集団「実験工房」に参加した。音楽を「音響エネルギーの運動」ととらえてスケールの大きな作品を数多く発表し世界的に知られた。現代音楽のことはよく知らないけど、朝ドラや大河ドラマの作曲も手掛けている。『藍より青く』(73)のテーマ曲「耳をすませてごらん」(歌・本田路津子)を作曲した人。また映画音楽では『薔薇の葬列』『お葬式』などの傑作を手掛けた。文化功労者。現代音楽の賞として権威がある尾高賞を5度受賞した。最初が1973年で、最後が2024年だった。まさに半世紀に及ぶ活躍だった。
(湯浅譲二)
 声優の小原乃梨子(おはら・のりこ)が7月12日に死去、88歳。ラジオドラマの子役として活動を始め、やがて洋画の吹き替えやアニメの声優として活躍した。テレビや映画で「ドラえもん」ののび太役を1979年から2005年まで担当したことで知られる。アニメでは「アルプスの少女ハイジ」のペーター、「未来少年コナン」のコナンなど。洋画ではクラウディア・カルディナーレ、ブジッド・バルドー、ジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーンなどを担当することが多かった。役柄に何となく共通性がある。
(小原乃梨子)
 芸能界の訃報が多かったが、漫才トリオ「かしまし娘」の次女、正司照枝が8日死去、91歳。長女歌江は今年1月に死去、三女花江は存命。賑やかな歌謡漫才で人気を得て、66年に第1回上方漫才大賞。歌手の園まりが26日死去、80歳。60年代半ばに中尾ミエ、伊東ゆかりと「三人娘」を結成して人気を得た。ソロで「愛は惜しみなく」「夢は夜ひらく」がヒットした。63年から68年まで紅白歌合戦に出場。映画『夢は夜ひらく』などに主演している。
(正司照枝)(園まり)
 俳優では浜畑賢吉が2日死去、81歳。若い頃からテレビの大河ドラマなどで活躍していたので早くから名前と顔は覚えた。しかし、この人は劇団四季で多くのミュージカルに出た人である。特に『コーラスライン』では79年以来800回主演を演じた。94年に退団後は『ラ・マンチャの男』『マイ・フェア・レディ』などに出た他、2004年に大阪芸術大学教授となり舞台芸術学科長を務めた。また中村靖日が10日死去、51歳。90年代から市川準監督の映画に出演し、2005年の内田けんじ監督『運命じゃない人』に主演して注目された。テレビでも活躍し『ゲゲゲの女房』などに出演した。また50年代、60年代に東映時代劇でお姫様役で人気があった丘さとみが4月24日に死去した。88歳。片岡千恵蔵、中村錦之助などの相手役だった。その後はテレビでも活躍した。
(浜畑賢吉)(中村靖日)(丘さとみ)
 元広島カープ監督の阿南準郎(あなん・じゅんろう)が30日死去、86歳。プロ野球の広島、近鉄でプレーし70年に引退。好守備の内野手だったが、通算本塁打34本と選手成績は大したことがない。その後近鉄コーチを経て、広島のコーチとして75年の初優勝に貢献。86年に監督となり優勝した。88年まで3年間すべてAクラスで、山本浩二監督につないだ。監督通算203勝163敗24分け。監督退任後は球団本部長などを務めた。
(阿南準郎)
 径(こみち)書房を創業した原田奈翁雄(はらだ・なおお)が6日死去、96歳。筑摩書房の伝説的編集者で、「展望」「終末から」の編集長を務めた。78年の倒産を機に退職して、80年に径書房を創業し、山代巴、上野英信らの本を出版した。ここから出た本としては、山代巴『囚われの女たち』(全10巻)、『長崎市長への7300通の手紙』、石牟礼道子『十六夜橋』、吉岡紗千子『ロックよ、静かに流れよ』などがある。原田はやがて退社して雑誌「ひとりから」を創刊したが、今も径書房は残っている。顔写真が見つからないので、著書を代わりに。忘れられない出版社だが、訃報は小さかった。
(原田奈翁雄)
 哲学者の山田宗睦(やまだ・むねむつ)が6月17日に死去していた。99歳。ここまで長寿だと、正直存在を忘れられてしまう。ある時期、「敗戦」を忘却しないためとして鶴見俊輔、安田武と三人で8月に丸刈りにすることを続けていた。それで名前を知ったのが、この人が一番知られているのは、65年のベストセラー『危険な思想家』だろう。訃報でも触れられているが、要するに60年代半ばに起こった「保守回帰」を批判し、老大家を初めとして三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳などを批判したのである。江藤淳などは「安全な思想家」など不要だと言い放ったらしいが。僕はその時代は知らないので読んでもいない。70年以後は古代史や神話研究の本が多く、『道の思想史』『日本神話の研究』などを著した。また「日本書紀」の翻訳も出している。
(山田宗睦)

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梁石日、槇文彦、遠藤章、野口武彦、白石かずこ他ー2024年6月の訃報②

2024年07月07日 19時45分37秒 | 追悼
 2024年6月の訃報2回目。日本の作家、学者などを中心に。まず最初に作家の梁石日(ヤン・ソギル)が6月28日に死去、87歳。僕はこの人の本をあるときいっぱい読んでた。80年代にタクシー運転手の体験を軽妙に描く本を何冊か読んで注目した。それが崔洋一監督『月はどっちに出ている』の原作になったわけである。そして『夜を賭けて』(94)、『血と骨』(98)という二つの超大作を発表した。どっちも直木賞候補になったが、深刻な歴史的背景がありつつも骨太なエンタメ作品である。「在日朝鮮人文学」の中に、そういう人が出てきた。読んでて波乱万丈で面白いのである。特に『夜を賭けて』は大阪砲兵工廠跡の鉄くず窃盗団、つまり開高健『日本三文オペラ』、小松左京『日本アパッチ族』と同じ話を描いている。それが実の話だったのかと驚いた。しかし、あまりにも似たような傾向で多作なので、21世紀になったら読まなくなってしまった。
(梁石日)
 建築家の槇文彦が6月6日死去、95歳。まあ建築のことはよく知らないが、「モダニズムを基本にした知的な作品」だそうである。東大で丹下健三に師事し、磯崎新、黒川紀章と三羽ガラスと呼ばれた。60年代から数多くの設計を手掛けているが、代々木の東京都体育館を改築した東京体育館(90)や69年から98年にかけ作られた「代官山ヒルサイドテラス」などが代表作と言われる。プリツカー賞など内外の多くの賞を受賞している。他の作品に京都国立近代美術館、幕張メッセ、テレビ朝日本社、ニューヨーク世界貿易センター跡地のビルなど。僕の身近なところでは足立区北千住にある東京電機大学千住キャンパスがある。
(槇文彦)(代官山ヒルサイドテラス)
 詩人の白石かずこが6月14日死去、93歳。多くの詩人が70年前後に小説を書いて評価された(富岡多恵子や三木卓など)が、白石かずこは一貫して詩とエッセイ、翻訳しか手掛けなかった。そのため実際に読んでる人は少ないと思う。僕も読んでないが、70年代頃には「前衛的女性芸術家」の代表のように思われていた。 『聖なる淫者の季節』(70)でH氏賞、『砂族』(84)で歴程賞、『現れるものたちをして』(96)で高見順賞、読売文学賞、『詩の風景、詩人の肖像』(09)で読売文学賞など、主要な詩の賞を受け長く活躍した。世界各地の詩人祭などのイベントで朗読を行い世界的に評価されている。一時映画監督篠田正浩と結婚していた。三島由紀夫、寺山修司などと交友してきたことでも知られる。
(白石かずこ)
 江戸時代を中心に多くの著作がある文芸評論家、日本文学者の野口武彦が6月9日死去、86歳。東京出身だが長く神戸大学教授を務めた。70年代から『谷崎潤一郎論』(73)で亀井勝一郎賞を受賞するなど文芸評論で活躍したが、専攻は近世文学、近世思想史。『江戸の歴史家』(80)でサントリー学芸賞、『「源氏物語」を江戸から読む』(85)で芸術選奨文部大臣賞、『幕末気分』(09)で読売文学賞など一般向け著作で多くの賞を受けてきた。95年には阪神淡路大震災で被災し、その後『安政江戸地震 災害と政治権力』(97)を書いている。他に『荻生徂徠―江戸のドン・キホーテ』(93)、『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(94)、『江戸は燃えているか』(06)など多数。余りにも多いので、とても全部は読めないけれど、こうしてみると何冊かは読んできた。この人がすごいと思うのは、2010年に脳梗塞を患いながら片手でも執筆を続け10冊以上の本を出したことである。
(野口武彦)
 フランス文学者、女性学者の西川祐子が6月12日死去、86歳。フランスに留学し、パリ大学で文学博士号取得。近代日本文学を女性学の立場から研究した多くの著作がある。『森の家の巫女高群逸枝』(82)、『私語り樋口一葉』(92)、『借家と持ち家の文学史 「私」のうつわの物語』(98)、『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』(2017)など。共著に西川祐子、上野千鶴子、荻野美穂『フェミニズムの時代を生きて』(2011)など。夫はフランス文学者の西川長夫。
(西川祐子)
 コレステロール低下薬スタチン」の発見者として知られた東京農工大学特別栄誉教授の遠藤章が6月5日死去、90歳。ここ10年以上毎年ノーベル賞候補と騒がれてきたが受賞はならなかった。日本国際賞、米ラスカー賞など数多くの賞を受けている。幼い頃からカビや菌類に関心があり、東北大から三共に入社、アメリカ留学でコレステロールの重要性を認識した。帰国後に6千種もの微生物を調べ、米の青カビから有望物質を発見した。発がん性の問題で困難にぶつかりながら、米メルク社と三共が開発に成功。世界で一日に4千万人が服薬する「奇跡の薬」と呼ばれている。一般的な知名度は高くなかったので、人間ドックで高コレステロールを指摘され「最近いい薬があるので心配ないですよ」と言われたというエピソードがある。
(遠藤章)
坂根厳夫(さかね・いつお)、4月28日死去、94歳。朝日新聞記者を経て、慶応大教授、情報科学芸術大学院大学学長を務めた。芸術と科学の境界領域に関心を寄せ、多くの展覧会を企画した。『遊びの博物誌』『イメージの回廊』など多くの著作がある。僕は70年代頃に朝日新聞でよく坂根記者の記事を読んでいて大きな影響を受けた。
鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)、5月27日死去、93歳。俳人。山口誓子、秋元不死男に師事し、78年に俳句誌『狩』を創刊し主宰した。以後半世紀にわたって俳句界を牽引した。2002年俳人協会会長。2015年に芸術院会員。「摩天楼より新緑がパセリほど」「人の世に花を絶やさず返り花」「秋天の一滴となり鷺下りる」などの秀句がある。
武田国男、9日死去、84歳。93年から武田薬品社長。創業家の三男として生まれ、長男の死後に社長候補となった。成果主義を取り入れるなど脱創業家を進め、日本の製薬会社として初の売上高一兆円越えを達成した。
関淳一、9日没、88歳。2003年~2007年に大阪市長を務めた。医学博士だが大阪市立病院から保健部長を経て、95年から大阪市助役。戦前に20年間大阪市長を務めた関一の孫。
伴英幸、10日死去、72歳。原子力資料情報室共同代表。国の原発事故対応や原子力政策を批判した。
斎藤栄、15日死去、91歳。作家。横浜市に勤務しながら、66年に『殺意の棋譜』で江戸川乱歩賞を受賞した。72年に作家専業となり、多くのベストセラーを書いた。『奥の細道殺人事件』などの他、『タロット日美子』シリーズ、トラベルミステリーの『江戸川警部』シリーズなどで知られる。将棋ファンとして関連の本も多く、第4回大山康晴賞を受賞している。
三島喜美代、19日死去、91歳。美術家。空き缶や新聞、雑誌などを陶で表現した作品で知られる。
川満信一(かわみつ・しんいち)、29日死去、92歳。詩人。元沖縄タイムス取締役。沖縄タイムス文化事業部長などを務めた。雑誌「カオスの貌(かお)」を主宰しながら、独自の立場から『沖縄・根からの問い』『琉球協和社会憲法の潜勢力』などの著書を書いた。
ルース・スタイルズ・ガネット、11日死去、100歳。アメリカの児童文学者で『エルマーのぼうけん』で知られた。
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久我美子、アヌーク・エーメ、D・サザーランド他ー2024年6月の訃報①

2024年07月06日 21時37分18秒 | 追悼
 2024年6月の訃報特集。今回は内外合わせて、俳優など芸能界の訃報を取り上げる。外国の訃報は少なかったので、今回にまとめる。まず女優の久我美子。6月9日に誤嚥性肺炎で死去、93歳。読み方は「くが・よしこ」だが、本名は同字ながら「こが・はるこ」である。侯爵の久我(こが)家当主の長女として生まれた。村上源氏の系統で、五摂家に次ぐ清華家筆頭の家柄である。戦前ならとても映画女優になれなかったに違いない。経済的困窮もあったらしいが、1946年に東宝ニューフェースに応募して合格。

 最近黒澤明監督の『酔いどれ天使』(1948)を見直したが、久我美子はまさに年齢と同じ17歳の女子高生を清楚に演じていた。結核患者だが明日を信じて医師の指示に従っている。「掃きだめ」のようなスラム街を舞台にした映画だが、久我美子が出て来るシーンだけ清らかな風が吹きすぎる感じ。76年も前の映画に出ていた人が今まで生きていたのは不思議な感じだが、女優にはそういうことがあるのだ。そして1950年に今井正監督『また逢う日まで』に出演した。出征する恋人岡田英次とガラス窓越しに接吻する切ないシーンは、戦争の悲劇を象徴する場面として未だに語り継がれる。
(『また逢う日まで』)
 代表作は木下恵介監督の『女の園』(1954)だと思う。京都女子大の学生運動をモデルにして、闘争に積極的な学生を演じた。京都府学連委員長として運動を支援していた大島渚に大きな影響を与えた映画。共演した岸恵子有馬稲子を加えて女優による初のプロダクション「にんじんくらぶ」を設立した。50年代の小津、溝口、木下など巨匠作品の名作に数多く出演している。またベストセラー『挽歌』の初映像化(1957)では主演した。大島渚『青春残酷物語』の主人公の姉は「前の世代の過ち」を演じた。その後も映画やテレビで活躍したが、やはり50年代が一番だろう。1961年に俳優の平田昭彦と結婚。

 フランスの女優、アヌーク・エーメ(Anouk Aimée)が6月18日に死去、92歳。久我美子とほぼ同世代で、巨匠作品に出たことも似ている。50年代から60年代にかけて世界的に活躍した。特にクロード・ルルーシュ監督のカンヌ映画祭最高賞『男と女』の主演で知られる。僕はこの映画を見て、世界にはこんな美しい人がいるのかと思った記憶がある。『モンパルナスの夜』(1958)のモディリアーニの妻役で有名になり、フェリーニ『甘い生活』(1959)、『8 1/2』(1963)やジャック・ドゥミ『ローラ』(1961)などで、忘れがたい役柄を演じた。ルルーシュ監督が2019年に作った続編『男と女 人生最良の日々』でも主演した。
(アヌーク・エーメ)(『甘い生活』)(『男と女』)
 カナダ出身の俳優ドナルド・サザーランドが6月20日に死去、88歳。60年代にアメリカ映画で活躍するようになり、ロバート・アルトマン監督の反軍映画『M★A★S★H マッシュ』(1970)で主演して世界に知られた。僕もこの映画で名前を知った思い出がある。その後も世界的に活躍し、フェリーニ監督『カサノバ』やベルトルッチ監督『1900』などヨーロッパ映画でも活躍した。アカデミー賞作品賞の『普通の人々』でも主演しているが、演技賞には縁が薄く一度もアカデミー賞にノミネートされなかった。晩年になっても『ハンガー・ゲーム』シリーズなどに出演している。
(ドナルド・サザーランド)
 上方落語の桂ざこば(2代目)が6月12日に死去、76歳。1963年に桂米朝に入門し、桂朝丸を名乗った。88年に桂ざこばを襲名した。70年代には一時東京のテレビにも出ていたが、その後大阪で活動するようになった。上方落語なので僕は一度も聴いていない。米朝没後(2015年)は米朝事務所専務として一門を支えた。芸術選奨文部科学大臣賞(2017年)など受賞多数。
(桂ざこば)
 沖縄アクターズスタジオ創設者のマキノ正幸が6月28日に死去、83歳。マキノ雅弘監督と女優轟由起子の間に生まれた。芸能界周辺で仕事をしていたが、72年頃に沖縄に移住し83年にスタジオを開設した。ここから安室奈美恵SPEEDなどが出て来たわけで、非常に重要な意味があった。しかし、21世紀になって経営が傾くなどいろいろと困難があったようである。そういう学校があったことは知っていたが、マキノ家が関わっていたとは今回初めて知った。
(マキノ正幸)
 メジャーリーグで史上最高の万能選手と言われたウィリー・メイズが6月18日に死去、93歳。黒人リーグから出発し、1951年にニューヨーク・ジャイアンツ(58年にサンフランシスコに移転)に入団した。54年には打率3割4分5厘、41本塁打、110打点で、MVPを獲得した。通算成績は3293安打、660本塁打、1903打点、打率3割2厘、339盗塁を記録している。ホームラン王4回、盗塁王4回など走攻守に秀でた成績を残した。大リーグ史上唯一の「3000本安打、300ホームラン、打率3割、300盗塁」を達成した選手である。「コンプリート・プレーヤー」と呼ばれた。
(ウィリー・メイズ)
・元NHKのディレクター、映画監督の佐々木昭一郎が18日死去、88歳。芸術選奨新人賞の『さすらい』(1971)、つげ義春原作でエミー賞優秀作品賞の『紅い花』(1976)、ギャラクシー賞、エミー賞優秀作品賞の『四季・ユートピアノ』(1980)、「川3部作」(『川の流れはバイオリンの音』(81)、 『アンダルシアの虹 川』(83)、芸術選奨文部大臣賞の『春・音の光 川(リバー)』(84))など多くの作品がある。2014年には映画『ミンヨン 倍音の法則』が公開された。「映像の詩人」と呼ばれた。
山田昌(やまだ・まさ)、16日死去、94歳。名古屋弁で活躍した俳優で、「おしん」「真田丸」などのテレビにも出演した。
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A・マンロー、R・コーマン、武田花、吉田ルイ子他ー2024年5月の訃報②

2024年06月09日 19時47分22秒 | 追悼
 2024年5月の訃報2回目。外国人の訃報から。カナダの作家アリス・マンローが5月13日没、93歳。2013年ノーベル文学賞受賞者である。短編小説のみ書いたことで知られるが、それは育児をしながら創作できるジャンルだったからである。カナダ東部のオンタリオ州に生まれ育ち、一地方に住む人々を描き続けた。特にエディンバラから移住した自らの一家のルーツを描いたことで知られる。日本では21世紀になってから、「新潮クレストブックス」で『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』と次々に翻訳され評判になった。クレストブックスはほとんど文庫化されないので、僕はアンソロジー収録作しか読んでない。人生の真実を一瞬の中に追求する鋭さに定評があった。
(アリス・マンロー)
 アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
 アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
 アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
 5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領アブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
 他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。

 写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
 フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
 元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
 元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
 大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
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唐十郎、中尾彬、小山内美江子他ー2024年5月の訃報①

2024年06月07日 22時29分53秒 | 追悼
 2024年5月の訃報特集。今回も芸能関係の訃報をまず書いて、その他及び外国人の訃報を2回目に書きたい。一番大きく取り上げられたのは、唐十郎だった。肩書きは劇作家、演出家、俳優、作家などである。5月4日没、84歳。1983年に47歳で亡くなった寺山修司と命日が同じだった。生年は寺山が5年ほど早いが、60年代末の「アングラ演劇」の旗手として当時から並び称せられる存在だった。1969年12月12日には、唐十郎主宰の「状況劇場」と寺山修司主宰の「天井桟敷」が役者どうしの乱闘事件を起こしてお互いに現行犯で逮捕された事件もあった。狂乱の60年代末期を文化面で象徴する一人だった。
(唐十郎)
 1867年に新宿の花園神社境内で紅テントを建てて公演を始めた。評判になったというが、その時点では僕は小学生なので全然知らない。天井桟敷もそうだが、街頭やテントで「演劇」と称して怪しげな見世物を行う連中と見られていただろう。しかし、1970年に『少女仮面』が岸田国士戯曲賞(劇作家の新人賞として有名)を受け、その頃から演劇的な評価も高くなっていった。70年代初めに『少女仮面』が角川文庫から出た時に読んだ記憶がある。詩的なセリフが飛び交い、読んだだけでも熱気が伝わるような戯曲だった。実際に見たのは大学時代だと思うが、実は紅テントはあまり見てなくて、佐藤信の黒テントの方が合っていた。
(若い頃)
 紅テントは何回か見てるけど、正直よく覚えていない。最後に見たのは2003年に高く評価された『泥人魚』。腰痛持ちなので、もうテント芝居は辛いなと痛感した記憶がある。作家では『佐川君からの手紙』で1983年に芥川賞を受けた。映画では1976年にATGで『任侠外伝・玄界灘』を監督した。正直どっちもあまり面白くなかった。僕は唐十郎とは相性が良くないのだが、状況劇場から多くの異才を輩出した功績は大きい。妻だった李麗仙(88年に離婚)、麿赤児四谷シモン根津甚八小林薫佐野史郎らである。つげ義春夫人の藤原マキもそう。大島渚監督『新宿泥棒日記』(1968)が当時の様子を伝えている。
(紅テント)
 俳優、タレントの中尾彬が5月16日に死去、81歳。元々武蔵野美大在学中に日活ニューフェイスに合格したが、絵を諦めきれず退社してフランスに留学した。その後も絵は描き続け認められている。帰国後、劇団民藝に所属(71年退団)しながら、映画にも出演した。中平康監督『月曜日のユカ』(1964)が実質的デビューで印象に残る存在感を発揮していた。『本陣殺人事件』(1975)では主役を務め、何人目かの金田一耕助を演じた。テレビドラマでは多くの大河ドラマや『暴れん坊将軍』(徳川宗春役)などで活躍した。晩年はヴァラエティ番組やCMが記憶に残る。池波志乃(10代目金原亭馬生の娘で、古今亭志ん生の孫)と「おしどり夫婦」の印象が強いが、実は再婚で前妻との間に子どもがいる。
(中尾彬)
 脚本家の小山内美江子が5月2日死去、94歳。当初は映画監督になりたかったが、女性では無理と言われスクリプター(記録)を務めた。長男(俳優、映画監督の利重剛)出産後、家でできる仕事として脚本を書き始めた。数多くのテレビドラマを執筆したが、特に1979年に始まり何シリーズも作られた『3年B組金八先生』が大きな評判を呼んだ。時の社会問題も取り入れ、教育界にも影響を与えた(と書かれることが多いが、「一人の教師の頑張りで学校を変えられる」と誤解させた面もあると思う。)他には朝ドラ『マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』、大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。晩年になっても国際的な教育支援活動を行い、カンボジアを中心に400を越える学校を建てた。カンボジアからは叙勲されている。
(小山内美江子)
 漫才師の今くるよが5月27日死去、76歳。高校時代にソフトボール部で一緒だった相方今いくよ(2015年に67歳で没)とコンビを組み、80年代に女性漫才コンビとして大活躍した。なかなか売れなかったが、80年代になって認められた。84年に上方漫才大賞、88年に花王名人大賞受賞。80年代の「漫才ブーム」を支えたコンビだが、「夫婦漫才」ではない女性どうしのコンビとして先駆的だった。大柄な体格に派手な衣装のくるよと、反対に痩せたいくよの容姿をネタにした掛け合いが爆笑を呼んだ。吉本の後輩女性芸人の面倒見が良かったと言われている。
(今くるよ)
 作曲家のキダタローが5月14日死去、94歳。全く知らなかったが、案外大きな訃報で驚いた。何でも「浪花のモーツァルト」と言われていたとか。今いくよ・くるよは東京のテレビにもいっぱい出ていたから知っているが、関西圏のテレビCMは全く知らないのである。まあ「バラエティ生活笑百科」や「プロポーズ大作戦」のテーマ曲と言われると、聞いたことはある。でも「かに道楽」や「日清出前一丁」のCMは関西人は誰でも知っているそうだが、東京では思い浮かばない。そういう地域性がある。
(キダタロー)
井川徳道、16日没、95歳。映画の美術監督で、東映映画の任侠映画の多数を担当した。テレビでも『暴れん坊将軍』『水戸黄門』などを担当している。加藤泰監督の『明治侠客伝 三代目襲名』『沓掛時次郎 遊侠一匹』『緋牡丹博徒 お竜参上』などの名作の美術担当である。他にも深作欣二監督の『仁義なき戦い 頂上作戦』『北陸代理戦争』『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などがある。日本映画アカデミー賞、毎日映画コンクールなど受賞多数。
増山江威子が20日死去、88歳。声優。『ルパン三世』の峰不二子役で知られた。60年代の『鉄腕アトム』から『アタックNo.1』『天才バカボン』など長年テレビアニメで活躍したほか、劇場アニメや洋画の吹き替えなどでも活躍した。
真島茂樹、22日没、77歳。ダンサー、振付師、大ヒットした『マツケンサンバII』の振付を行った人である。紅白歌合戦で美川憲一『さそり座の女』でも振付を担当した。
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曙、笠谷幸生、O・J・シンプソン、ヒッグス他ー2024年4月の訃報②

2024年05月07日 19時26分54秒 | 追悼
 スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
 として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
 1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
 (笠谷幸生)
 アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
 物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
 元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
 歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
 ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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