尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

伊集院静、山田太一、三木卓、KAN他ー2023年11月の訃報②

2023年12月06日 22時32分44秒 | 追悼
 2023年11月の訃報、2回目。11月は作家の訃報が多かったので最初に。最初に報じられたのが伊集院静だった。11月24日死去、73歳。様々な伝説に彩られた人だったが、取りあえずは1992年に『受け月』で直木賞を受賞した作家である。まずCMディレクターとして知られ、また1984年に女優夏目雅子と結婚した人として知ったわけだが、夏目雅子は1年後の85年に白血病で亡くなった。1992年に女優の篠ひろ子と再々婚し、96年から篠の出身地・仙台に住んでいた。代表作に『機関車先生』『いねむり先生』『琥珀の夢』などがあるが、読んでない。近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』『愚か者』など作詞でも活躍した。競輪、麻雀などギャンブル好きで知られ「最後の無頼派」と呼ばれていた。
(伊集院静)
 続いて脚本家、小説家の山田太一が11月29日に死去、89歳。僕は今まで書いているようにほぼテレビドラマを見てないので、書くことが出来ない。しかし、代表作として朝ドラ『藍より青く』(1972)、『男たちの旅路』(86)『岸辺のアルバム』(77)、大河ドラマ『獅子の時代』(80)、『ふぞろいの林檎たち』(1983)などがあり評判は聞いていた。小説では『異人たちとの夏』(1987)で山本周五郎賞。他に『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1985)など多数があり、脚本集も多い。映画では自作の映画化『異人たちとの夏』の他、『キネマの天地』『少年時代』など。テレビ関係の賞を数多く受賞していて、業績の大きさがわかる。早稲田大学教育学部卒で、寺山修司と同窓の友人だった。病気で入院中の寺山と交わした書簡集も出ている。
(山田太一)
 芥川賞作家の三木卓が11月18日に死去、88歳。「満州」からの引き揚げ体験を基にした『』(1972年)で芥川賞。『砲撃のあとで』(73)など戦争体験を書いて注目されたが、それ以前に詩集『わがキディ・ランド』(70)などで詩人として知られていた。破傷風にかかった娘を描いた『震える舌』は映画化され注目された。僕は若い頃にかなり読んでいて、『かれらが走りぬけた日』(78)や『野いばらの衣』(79)の素晴らしさは忘れがたい。しかし、後の作品『路地』や『K』を読んでない。また児童文学も多く、『真夏の旗』(71)は素晴らしかった。翻訳やエッセイも含めて、もっと高い評価が必要な作家だと思う。
(三木卓)
 SF作家の豊田有恒(とよた・ありつね)が11月28日に死去、85歳。初期SF作家としてテレビアニメ『エイトマン』の脚本を担当、認められて虫プロで『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』の脚本を書いた。作家としては『モンゴルの残光』(67)に始まるシリーズなど多数の作品がある。邪馬台国論争など古代日本を舞台にした作品も多い。原発支持など反左派的な論客だった。
(豊田有恒)
・他にも第1回ファンタジーノベル大賞を『後宮小説』(89)で受賞した酒見賢一が7日に死去、59歳。他に『墨攻』(91)『陋巷に在り』シリーズなど中国を舞台にした作品を書き続けた。
・外国ではイギリスの作家A・S・バイアットが16日に死去、87歳。『抱擁』(90)でブッカー賞を受けた。映画化され日本でも公開されたが、映画はともかく原作は非常に面白い傑作だった。

 谷村新司以来歌手の訃報が続いているが、11月12日にKANが61歳で死去したニュースには驚いた人が多いだろう。死因がメッケル憩室ガンという珍しいものだったことも話題となった。なんと言っても90年の『愛は勝つ』の大ヒットで知られるが、この歌は震災後にも歌われた。シンプルな歌詞が力強く、皆で歌える元気ソングとして永遠に残るだろう。公表が逆になったが、大橋純子が9日に死去、75歳。『たそがれマイ・ラブ』『シルエット・ロマンス』(81、レコード大賞最優秀歌唱賞)などで知られた。
(KAN)(大橋純子)
・音楽関係では作詞家の三浦徳子が6日死去、75歳。松田聖子の『青い珊瑚礁』を作詞した人である。他に『みずいろの雨』(八神純子)、『お嫁サンバ』(郷ひろみ)などがある。80年代アイドルの歌詞を多数手がけたことで知られる。
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キッシンジャー、池田大作、細田博之他ー2023年11月の訃報①

2023年12月05日 22時46分04秒 | 追悼
 2023年11月の訃報特集。11月は1回で済むかと思っていたのだが、月末に重要な訃報が集中した。外国人の訃報は少なかったので、内外ではなく「政財界」と「芸術・スポーツ」で分けたいと思う。1回目は誰から書くべきか迷ったが、世界的視野で見ればキッシンジャーだろうなと思った。まあ、若い人だと知らないかもしれないけど。アメリカの元国務長官元大統領補佐官の国際政治学者、ヘンリー・キッシンジャーが11月29日に死去。なんと100歳という長寿だった。1969年から1975年まで国家安全保障問題担当大統領補佐官、1973年から77年にかけて国務長官を務めた。共和党のニクソン、フォード両政権の時代である。
 (キッシンジャーとニクソン大統領)
 もう半世紀前のことになるが、キッシンジャーは確かに世界を変えた。そのことで今に至るも伝説的な存在になってきた。その最大の「業績」は1971年7月の中国秘密訪問である。冷戦下で長く対立していた中国を秘密裏に訪れ、72年のニクソン訪中を決めた。ベトナム戦争解決のため中ソの対立を利用する政治的リアリズムである。この方針は日本など「同盟国」に事前に知らされず、発表されたときには当時の佐藤栄作政権に激震が走った。その当時のことはよく記憶している。1973年にはベトナム戦争終結のための「パリ和平協定」を締結。北ベトナムのレ・ドク・トとともに同年のノーベル平和賞を受けた。
(周恩来と)
 1923年、ドイツに生まれたが、ユダヤ系だったためナチスを逃れて1938年に一家でアメリカに逃れた。ハーバード大学で国際政治学を学び同大学で教えていたが、60年代に政界と関わり始めた。77年の国務長官退任後も外交を論じることが多かったが、一貫して大国同士のパワーバランスを重視した。小国を軽視する「人権」軽視外交であり、批判的に振り返る必要がある。ただ中国は「老朋友」として重視して、2023年に100歳で訪中したときも習近平が会談した。毛沢東、習近平の双方に会っているのである。
(習近平と)
 創価学会名誉会長池田大作が11月15日に死去、95歳。日本人なら誰でも知ってる名前だが、ではどう評価するべきかは難しい。創価学会員には非常に重大な魂を揺るがす訃報だろうが、非会員にはそれほどの意味はない。ただ「公明党」を結成したことで、立場はともかく多くの人に影響がある人物だった。創価学会は日本で公称世帯数827万、海外で280万人を組織していると言われる。近年の公明党の得票数から見ても、これは過大な数字だろう。それでも戦後日本で最大の宗教団体を組織したのは間違いなく、その原動力が1960年に39歳で第3代会長になった池田大作にあったのは確かだ。
(池田大作)
 大勢力となって政界進出を図り、1961年に公明政治連盟、1964年に公明党を結成した。しかし、1970年の「出版妨害事件」を機に政教分離を表明した。その後の様々なことを書いていると長くなるから省略する。聖教新聞に小説『人間革命』『新・人間革命』を1965年から2018年まで断続的に連載、日本最長の新聞小説とされる。2018年段階で、合わせて5400万部刊行とWikipediaに出ている。司馬遼太郎『竜馬がゆく』(2450万部)を大きく越えて、日本で一番売れた「小説」なんじゃないかと思う。世界的な著名人と対談していて、その中にはキッシンジャーとの写真もあった。
(池田大作とキッシンジャー)
 なお、教義面には深入りしないが(よく理解していない)、「日蓮宗」と「日蓮正宗」(にちれんしょうしゅう)が違うことを認識していない人がいるので一言書いておきたい。日蓮宗は仏教の一派だが、日蓮正宗は日蓮を本仏とする「仏教系」宗教である。日蓮の高弟日興に始まるが、日蓮宗は認めていない。創価学会は日蓮正宗の在家信徒集団だが、宗門との関係が悪化して、1991年に宗門から破門処分になった。そのため、学会員の葬儀に僧侶を呼べなくなり「友人葬」を行っている。

 第78代衆議院議長の細田博之が11月10日に死去、79歳。官房長官や自民党幹事長も務めた大物だけに、2021年に衆議院議長に就任したときは期待されていた。それが旧統一協会問題やセクハラなどにちゃんと答えることをせず、「晩節を汚した」印象が残ってしまった。死去直前に議長を辞任したときも、選挙には出ると言って驚かされた。健康にこれほど大きな問題があるとは自分でも思ってなかったのかもしれない。しかし、今「安倍派」と呼ばれている派閥はちょっと前まで「細田派」だったのである。いろんなものを墓場に持って行ってしまったなと思う。
(細田博之)
 元衆議院議員で文部大臣、自治大臣を務めた保利耕輔が11月4日死去、89歳。衆議院議長や官房長官を務めた保利茂の死去により、1979年の衆院選に出馬して当選し、以後12回連続当選した。2005年に郵政民営化に反対して無所属で当選し、自民党を離党した。しかし、国民新党には加わらず、2006年に復党を申請、認められた。福田康夫、麻生内閣では政調会長に就任し、民営化法案反対派の中でも一番「復活」した人だろう。
(保利耕輔)
 財界人から。野村證券元社長の田淵義久が11月8日に死去、91歳。バブル期に業績を大きく伸ばしたが、91年に大口顧客への損失補填や暴力団幹部との取引が発覚して辞任した。初代郵政公社総裁を務めた生田正治が11月13日に死去、88歳。商船三井会長から2003年に郵政公社総裁に就任。小泉首相から請われて、民営化直前の困難な時期に総裁を務めた。三井住友フィナンシャルグループ社長の太田純が11月25日に死去、65歳。金融界のデジタル化を推進したという。
(田淵義久)(生田正治)(太田純)
鶴羽肇、11月12日死去、91歳。ツルハホールディングズ初代会長。北海道旭川の薬局から始まり、ツルハドラッグを日本一のドラッグストアチェーンに育てた人である。
若林正俊、11月11日死去、89歳。元衆議院、参議院議員で、環境相、農林水産相を務めた。この人は3つの珍しいエピソードを持っている。まず、2006年に農林水産相を臨時で「3ヶ月に3回」務めた。たまたま閣僚の死亡、辞任などが重なり環境相ながら農水相臨時代理を務めた。また、2009年の「政権交代選挙」後の首班指名で、麻生首相が敗北して辞意を表明していたため、参議院議員会長だった若林が自民党の首班候補となった。そんな有力議員だった若林が、2010年に席を外していた隣席の青木幹雄のボタンを採決時に押してしまった。一人二票を行使した「前代未聞の不祥事」で、これで議員辞職することになったのである。

 元アメリカ大統領ジミー・カーターの妻、ロザリン・カーターが11月19日に死去、96歳。1946年に海軍軍人だったジミー・カーターと結婚。退役後にジョージア州で家業(ピーナツ栽培)を営みながら、州議会議員、州知事となった夫の政治活動を支えた。その間に福祉政策の助言者として大きな役割を果たしている。ファーストレディ時代(1977から1981)にも閣僚会議に参加するなど大きな存在感を発揮した。1980年にカーターがレーガンに敗れた後も、女性運動家、人権運動家として活動を続けていた。
 (ロザリン・カーター)
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李克強、パイパー・ローリー、ボビー・チャールトン他ー2023年10月の訃報③

2023年11月09日 20時27分35秒 | 追悼
 2023年10月の訃報、外国人編。まずは中国前首相の李克強が27日に死去、68歳。これには驚いた。今年の3月まで首相(国務院総理)を務めていたのだから。水泳中に心臓発作を起こしたと報道されている。昨年の党大会で党の役職から退任していたが、その時点では内規の68歳定年に達していなかった。そこで政治局常務委員に残留し全人代常務委員長などに就任するという観測もあった。完全に引退したのは習近平との権力争いに敗北したと思われているが、体調面の問題もあったのか。76年の周恩来、89年の胡耀邦と同じように、追悼から反指導部運動が起きることを当局は警戒したようだが、そこまでは起きなかった。1993年から98年に共青団第一書記を務めていたので、本来なら胡錦濤の後継候補ナンバー1のはずである。2007年に中央委員から二段飛びで政治局常務委員に昇格したが、同時に昇進した習近平に遅れを取り最高指導者にはなれなかった。
(李克強)(追悼する人々)
 アメリカの女優、パイパー・ローリーが14日死去、91歳。17歳で映画デビューし、ロナルド・レーガンやトニー・カーティスらの相手役で人気となった。しかし、本人は決まり切った役柄に嫌気がさしてニューヨークへ行ってアクターズ・スタジオで演技を学んだ。生涯で3回アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたが受賞は出来なかった。最初が『ハスラー』(1961)のポール・ニューマンの相手役、次いで『キャリー』(1976)、『愛は静けさの中に』(1986)である。またテレビ出演も多く、『ツイン・ピークス』でゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞した。こう見てくると脇役として存在感があった俳優だった。
(『ハスラー』のパイパー・ローリー)
 フィンランドの元大統領、マルッティ・アハティサーリが16日死去、86歳。2008年のノーベル平和賞受賞者である。外交官出身で国連事務次長などを経て、1994年から2000年まで大統領を務めた。(フィンランドは議院内閣制で、大統領は名誉職である。)大統領時代から国際紛争の調停に関わり、国連特使としてコソボ問題やインドネシアのアチェ和平合意などに尽力した。
(アハティサーリ)
 元イングランド代表のサッカー選手、ボビー・チャールトンが21日死去、86歳。イングランド史上最高のサッカー選手と言われる。66年の自国開催ワールドカップではイングランドに初の優勝をもたらし、同年のバロンドールに選ばれた。テクニックとパワーを兼ね備えた選手と言われている。54年に17歳でマンチェスター・ユナイテッドに入団、56年にレギュラーに定着した。しかし、1958年2月8日、欧州チャンピオンズカップの帰路、ミュンヘン空港で主力選手の多くを失う飛行機事故「ミュンヘンの悲劇」に見舞われた。ボビー・チャールトンはシートベルトをした座席ごと機外に放り出されたが、奇跡的にケガもなく助かった。その時の精神的ショックを乗り越え、2ヶ月後に代表戦でデビューし初得点を挙げた。生涯で49得点を挙げ歴代3位となっている。常に冷静沈着なプレー、私生活でも模範的な紳士として知られ、94年には「サー」の称号を得た。日本との関わりも深く、Jリーグ発足やワールドカップ招致に協力し、福島県の施設「Jヴィレッジ」を命名した人でもある。
(ボビー・チャールトン)
 アメリカの詩人、ルイーズ・グリュックが13日死去、80歳。2020年にノーベル文学賞受賞。1992年の『野生のアイリス』がピュリッツァー賞を受賞して評価された。日本では詩の翻訳は少なく、ノーベル賞受賞時にグリュックを知っていた人は少ないだろう。その後、翻訳も出ているが読んでいない。作風なども全然知らないので、何も書けない。
(ルイーズ・グリュック)
モーリス・ブルグ、6日没、83歳。オーボエ奏者、指揮者。67年からパリ交響楽団の初代首席オーボエ奏者を12年務め、その後ソロや室内楽で活躍した。来日公演も多く、日本人の弟子も多い。日本で開催されている国際オーボエコンクールでは審査員を務めた。
バート・ヤング、8日死去、83歳。アメリカの俳優。『ロッキー』で主人公の親友で、恋人エイドリアンの兄ポーリーを演じてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。他に『カリフォルニア・ドールズ』など。
カーラ・ブレイ、17日没、87歳。アメリカの女性ジャズピアニスト、作曲家。独学でジャズを学び多くの曲を作った。71年の『エスカレーター・オーヴァー・ザ・ヒル』はLP3枚組のジャズ・オペラの大作で実験的色合いが強く評判となった。
ズデニェク・マーツァル、25日没、87歳。チェコの指揮者。ソ連のチェコ侵攻を受けて亡命、世界約170の楽団を指揮し、2003年にチェコフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。06年には日本のテレビドラマ「のだめカンタービレ」で「有名な指揮者」役で出演した。
マシュー・ペリー、28日没、54歳。アメリカの俳優。テレビドラマ『フレンズ』で人気となった。
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中塚明、坂中英徳、中利夫、岩国哲人他-2023年10月の訃報②

2023年11月08日 22時47分27秒 | 追悼
 内外の訃報をまとめて書くつもりだったが、やはり2回に分けたい。芸能界以外で知名度がある訃報は少なかったけど、書くことに意味があると思う。最初に日朝関係史研究で知られた中塚明が29日死去、94歳。奈良女子大名誉教授。日本より韓国で訃報が大きく報道されて話題となった。岩波文庫の陸奥宗光蹇蹇録』(けんけんろく=日清戦争時代の外務大臣陸奥宗光の日記)の改訂を担当した人で、昔から名前は知っていた。だが大学を離れた後に、多くの一般向け著作を刊行したことこそ特筆される。
(中塚明)
 『歴史の偽造をただす 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』(1997)を皮切りに、『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』(2002)、『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』(2010)、『日本人の明治観をただす』(2019)などである。最初の本は日清戦争公刊戦史の草稿を発見し、日本軍の蛮行を隠すため戦史が偽造されたことを証明した本である。これらはいずれも「高文研」から出版された。もと「高校生文化研究会」で雑誌「考える高校生」を出していた出版社である。高文研のHPに「歴史家・中塚 明先生の足跡をしのんで」という梅田正己(高文研前代表)氏の追悼文が掲載されている。「文化の日」(旧明治節=明治天皇誕生日)に「明治」を加えようとする復古の動きがある今、必読の業績だろう。

 元法務官僚で入管行政を担当し、退官後「外国人政策研究所」(現・移民政策研究所)や「脱北帰国者支援機構」を立ち上げた坂中英徳が20日死去、78歳。最後は東京入国管理局長を務め、日本の入管行政に責任もあるが、1975年に「坂中論文」を書いた人である。募集に応じて書いた「今後の出入国管理行政のあり方について」で在日韓国・朝鮮人の法的地位の安定を唱え優秀賞を受けた。その後「坂中論文」は法制化され具現化されていった。晩年は「移民1000万人政策」を唱えて、移民なき「小さな日本」ではなく移民を受け入れた「大きな日本」を目指すべきと主張した。入手しやすい一般書を書いていないので、関心がある人以外に知名度が低いだろうが、毀誉褒貶あっても重要な人だと思う。
(坂中英徳)
 元中日ドラゴンズ外野手で、中日監督も務めた中利夫(なか・としお)が10日死去、87歳。1955年に前橋商業から中日に入団。60年に盗塁王、67年には3割4分3厘で首位打者。通算81三塁打はセリーグ記録になっている。高木守道との1,2番コンビで活躍した。72年に引退後は中日でコーチを務め、78年~80年に監督となった。しかし、成績は5位、3位、6位と低迷した。活躍したのが主に60年代なので、僕も名前を忘れていた。
 (中利夫)
 元出雲市長、民主党副代表などを務めた岩國哲人(いわくに・てつんど)が6日死去、87歳。日興證券パリ支店長、メリルリンチ社日本法人社長、同社アメリカ本社副社長などを経て、1989年に故郷の島根県出雲市長に当選した。「行政は最大のサービス産業」をモットーに、出雲ドーム建設、出雲駅伝誘致などで全国的に注目された。2期目の途中で、95年4月の都知事選に立候補して落選。96年に新進党から衆院選に当選、新進党解党後は太陽党を経て民主党に所属し、計4回当選した。09年選挙に立候補せず引退。豊かな国際、経済知識をもとに日本政界で活躍することを期待されたが、思ったほど活躍は出来なかった感がある。晩年は親族のいるシカゴに移住し、同地で死去した。そのこともあって忘れられた感がある。
(岩國哲人)
 厚生相を2度務めた元衆議院議員津島雄二が25日没、93歳。一高から東大へ入学、在学中に司法試験に合格した。しかし、卒業後は大蔵省に入省し、米留学を経て63~67年にフランス大使館書記官を務めた。その間にフランスにいた津島美知子と結婚、津島姓を名乗った。妻は作家太宰治の長女である。76年に太宰の故郷青森県から衆議院議員に当選し、11期連続当選した。94年に村山内閣に反対して離党したが、新進党に加わらず自民党に復党。2005年から09年まで平成研究会(旧竹下派)会長を務め、その間は「津島派」と呼ばれた。引退後は長男の津島淳が後継となった。
(津島雄二)
・他に政治家の訃報として、淵上貞雄(13日没、86歳。元社民党幹事長、副代表。参議院議員4回当選)、東順治(ひがし・じゅんじ、17日没、77歳。元公明党副代表。衆議院議員7回当選)、一井淳治(いちい・じゅんじ、31日没、87歳。社会党から岡山選挙区で参議院議員に2回当選)、山本公一(31日没、76歳、愛媛県から衆議院議員に9回当選。2014年に環境相)など。
北沢方邦(きたざわ・まさくに)、9月29日没、93歳。構造人類学者、信州大学名誉教授。レヴィ=ストロースの影響で構造主義を学び、講談社現代新書『構造主義』(1968)を著した。これは自分も読んだ記憶がある。その後文明批判を強め、日本やアメリカ先住民の神話を研究した。妻は「エコフェミ」で知られた青木やよひで、両者にホピ族に関する本が何冊かある。
興膳宏(こうぜん・ひろし)、16日死去、80歳。中国文学者、京都大学名誉教授。六朝文学が専門で、学士院会員、2019年に文化功労者。
大樋陶冶斎(おおひ・とうやさい)、17日没、95歳。金沢で続く大樋焼の10代目大樋長左衛門として活躍し、2004年に文化功労者、2011年に文化勲章。芸術院会員。
池央耿(いけ・ひろあき)、27日没、83歳。アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』、ホーガン『星を継ぐもの』などの他、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』以後のプロヴァンスものを訳し、日本でもブームとなった。
泉昭二、29日没、91歳。漫画家。朝日小学生新聞に連載した4コマ漫画『ジャンケンポン』は、1969年9月30日から2023年3月31日まで続き、16,383回続いた。1万5千回到達時に最長の4コマ漫画としてギネス記録に認定された。
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谷村新司、犬塚弘、財津一郎他ー2023年10月の訃報①

2023年11月07日 22時11分10秒 | 追悼
 2023年10月の訃報特集。日本の芸能界に訃報が相次いだので、それで1回、その他内外の訃報をまとめて次回に書きたい。どういう順番で書くべきか、人により異見もあるだろう。最初に谷村新司を書くが、これは好きだったという意味ではない。8日死去、74歳。日本だけでなく中国でも大きな影響力を持ち、重要な楽曲を作った人である。1971年12月25日に堀内孝雄と「アリス」を結成。(72年5月に矢沢透が加入。)しかし、長いこと売れなかった。ヒットしたのは「今はもうだれも」(75年)を皮切りに、70年代後半の「冬の稲妻」「チャンピオン」の頃である。その頃、自分は大学時代でラジオやテレビから遠くなっていた。と同時に「アリス」が歌謡曲に近すぎると思っていたのではないかと思う。だからあまり関心がなかったのである。
(谷村新司)
 好きじゃなくても認めざるを得ないのは、78年に山口百恵に提供した「いい日旅立ち」と80年のソロシングル「」。難しい字だが、この歌があるため皆読めるだろう。この2曲は知らずに口ずさんでいることがある。では好きなのかというと、好きじゃないというより、こういう情緒を否定したいと思わせる。何か「日本的情緒」に引きずり込まれる気がしてしまう。「昴」は「我は行く」というんだから、自立的精神を歌い上げる曲にも見える。だが詞全体に大時代な表現が続き、どうもなじめない。それにしても、この曲が何故アジア各国で受けたのか、比較研究が必要だろう。間違いなく名曲なのである。戒名は「天昴院音薫法楽日新居士」だった。「昴」は「ぼう」と音読みすると初めて知った。
(アリス時代の3人)
 「クレージーキャッツ」最後の生存者だった俳優、ベーシストの犬塚弘が26日死去、94歳。僕はこの人の話を聞いている。天国のメンバーに語りかけて涙していた。僕は若い頃「クレージーキャッツ」をバカにして全然見なかった。ドリフターズも飽きてきて、中学生には新進の「コント55号」の面白さが圧倒的だった。だがクレージーキャッツこそヴァラエティ、軽音楽の元祖であり、今では再評価が定着している。犬塚弘はクレージー映画はもちろん、俳優志向が強く多くの映画に出た。植木等、ハナ肇、谷啓に続く「第四の男」として主演映画も作られたが、それよりハナ肇主演の「馬鹿シリーズ」「一発シリーズ」などの助演の方が面白い。山田洋次監督に重用され、15本に出演した。『男はつらいよ奮闘篇』の沼津の警官役が特に記憶にある。
(犬塚弘)
 俳優、コメディアンの財津一郎が14日死去、89歳。ニュースでは「ピアノのCMで知られた」と出ていて、今じゃそういう紹介になるのかと嘆いた。まあ、確かに晩年まで「タケモトピアノ」の「ピアノ売ってチョーダイ!」というコマーシャルが流れていたのも確かだ。まだ存命だったかと確認するCMでもあった。他の紹介は「てなもんや三度笠」。「〜してチョーダィ!」などのギャグで一世を風靡した。62年に吉本興業に入り、64年から吉本新喜劇で活躍したが、69年には退社して東京に活動拠点を移した。喜劇に止まらず多くのテレビ、映画に出たが、では何が代表作かと言われると困るところがある。この前見た『虹をわたって』にも出ていたが、どうしても大げさな演技を期待されてしまい損をした感じ。健康面で2011年以後は活動していなかった。
(財津一郎)
 歌手、俳優のもんたよしのりが18日死去、72歳。本名は「門田頼命」で、読みは「かどた・よしのり」である。1980年に「もんた&ブラザーズ」で歌った「ダンシング・オールナイト」が大ヒット。累計200万枚売れて、これは80年代最大のヒットらしい。その後も歌手、俳優として活動していたが、もう僕は全然知らないのである。だけど、あの曲だけは当時の人は全員知ってるだろう。
(もんたよしのり)
 ロックバンドBUCK-TICKのボーカル、櫻井敦司が19日死去、57歳。公演中に体調が悪化し、病院に運ばれたが「脳幹出血」のためそのまま死去した。僕はこの人に関しては、そういうグループがあったな程度しか知らない。活躍した時代がズレていて、聞いていないのである。長男が芥川賞作家の遠野遙で、僕はこの人の受賞作『破局』をついこの前読んだばかり。
(櫻井敦司)
鶴橋康夫、7日死去、83歳。ドラマ演出家、映画監督。1962年に読売テレビに入社し、半世紀以上にわたりドラマ演出を手がけた。『かげろうの死』(82、芸術選奨文部大臣新人賞)、『刑事たちの夏』(00,ギャラクシー賞大賞)、『砦なき者』(05、芸術選奨文部科学大臣賞)などが評価され「賞男」と呼ばれた。映画でも『愛の流刑地』『後妻業の女』などを監督した。
古今亭志ん橋、8日死去、79歳。落語家。志ん朝に入門し、82年に真打に昇進した。
有働誠次郎(うどう・せいじろう)、15日死去、92歳。音楽プロデューサー。ウド-音楽事務所創設者。エリック・クラプトン、ボブ・ディランなど数多くの海外アーティストを招へいし、1万回以上の公演を実施した。
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市川猿翁、加藤秀俊、ボテロ他ー2023年9月の訃報

2023年10月07日 22時28分48秒 | 追悼
 2023年9月の訃報特集。9月も8月に続き、比較的大きな訃報が少なかった。誰でも知っているような「有名人」は、2代目市川猿翁だけかもしれない。13日没、83歳。4代目市川猿之助の「不祥事」直後に、この訃報を聞くのは意外ではない。やはりショックだったんだと思う。マスコミの訃報は「猿翁」とだけ言ってたが、この人の活躍は「猿之助」時代のものである。1962年に慶大を卒業し、翌年3代目猿之助を襲名した。しかし、その直後に祖父初代猿翁、父3代目段四郎を相次いで亡くし、梨園の孤児となった。その中で、猿之助は68年に『義経千本桜』で「宙乗り」を披露、歌舞伎界では批判もあったが、以後も大衆受けするエンタテインメントとして歌舞伎人気を支えるまでに成長させた。「宙乗り」5000回達成時にはギネス記録になっている。

 1986年には梅原猛の台本『ヤマトタケル』で、現代風演出の「スーパー歌舞伎」を始めた。これは大評判となり、『オグリ』『八犬伝』『新・三国志』などと続いていった。2010年に文化功労者に選ばれたのも、スーパー歌舞伎の成功が大きいだろう。しかし、僕は一度も見てない。僕が演劇に求める方向と少し違うのである。一方、1965年に女優浜木綿子(はま・ゆうこ)と結婚、子どもの香川照之(市川中車)が生まれたが、1968年に離婚。その前から日本舞踊家で女優の藤間紫と同棲していたが、16歳年上の藤間紫には夫も子もあった。藤間の離婚成立(1985年)後も同棲を続けたが、2000年に結婚した。有名なスキャンダルだが、今では藤間紫(2009年死去)も浜木綿子も忘れられたか。スマホを見たら「香川照之の母がコメント」などと出ていた。
(スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』1998年10月大阪松竹座)
 社会学者の加藤秀俊が20日死去、93歳。ものすごくたくさんの一般書を書いて多くの人に知られていた。54年にハーバード大学に留学してリースマンに師事した。リースマン『孤独な群衆』の訳者である。1957年の『中間文化』は戦後日本で高級でも低俗でもない「中間文化」が広がっていると分析した。63年の『整理学』は現代社会を生きるには整理能力が決め手になると説き、先駆的な指摘となった。70年大阪万博では小松左京、梅竿忠夫らと理念の検討を行い、「未来学」を提唱した。『空間の社会学』(1976)以後、○○の社会学という一般書を何冊も書いた。『隠居学』(2005)は母親の部屋を整理してたら出て来たので驚いた。
(加藤秀俊)
 科学史家の伊東俊太郎が20日死去、93歳。東大、麗澤大、国際日本文化研究センターなどの教授を務めた。近代科学と社会の関係を比較文明学的に研究した。『近代科学の源流』(1978)、『比較文明』(1985)など多くの著書がある。文化功労者。
(伊東俊太郎)
 現代音楽の作曲家、西村朗が7日死去、69歳。東京音大教授。NHKの「N響アワー」(09~12)の司会者としても知られた。現代音楽の賞として知られる尾高賞を6度受賞(三善晃、一柳慧とともに最多)。サントリー音楽賞、毎日芸術賞など受賞多数。管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲の他、オペラ『紫苑物語』(2019)や数多くの合唱曲など様々なジャンルで多数の作曲を行った。
(西村朗)
 4人組男声コーラスグループ「ダークダックス」の最後のメンバーだった「ぞうさん」こと遠山一が22日死去、93歳。幅広いジャンルの歌を歌ったが、「ともしび」「カチューシャ」「雪山賛歌」「北上夜曲」「山男の歌」などロシア民謡、各地で発掘した名曲などで知られる。60年代には本当に誰でも知っている存在だった。
(遠山一)
 コロンビアの画家、フェルナンド・ボテロが15日死去、91歳。ふくよかな体格の肖像画で知られ、「南米のピカソ」と呼ばれた。コロンビア内戦やイラクのアブグレイブ収容所での米兵による拷問事件などを題材にした作品もある。日本では2022年に大規模な作品展が開催され、同時にドキュメンタリー映画も公開されたが、どっちも見なかった。
(フェルナンド・ボテロ)(ボテロ展のチラシ)
 元イタリア大統領のジョルジョ・ナポリターノが22日死去、98歳。1945年にイタリア共産党に入党、1953年に下院議員に当選した。やがて、党内で頭角を現し、ユーロコミュニズムの有力な推進者となった。イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームとの対談『イタリア共産党との対話』の翻訳が76年に岩波新書から刊行され、僕も読んで刺激を受けた。イタリア共産党はやがて「左翼民主党」と改称し、ナポリターノも92年から94年に下院議長、94年にはプロディ政権で内相を務めた。2006年には大統領に選出、イタリアでは大統領は議会が選出し実権を持たないが、旧共産党出身で初めてだった。通常1期で終わるが、後継がもめて87歳のナポリターノが初の2期目に当選した。(3年間で辞任。)
(ジョルジョ・ナポリターノ)
・アメリカの有力政治家が二人亡くなった。一人はダイアン・ファインスタインで、29日没、90歳。現職の連邦上院議員だった。1972年から88年まで、女性初のサンフランシスコ市長となり、1992年から亡くなるまで上院議員を務めた。これはユダヤ系女性として初めてだった。議会では「女性初」の役職を多く務めている。なお、市長になったのはゲイの市政委員として知られたハーヴェイ・ミルクが市長とともに銃撃された後である。市政委員長として市長代理となり、その後正式な市長に就任した。
・もう一人はビル・リチャードソンで、1日死去、75歳。民主党の連邦下院議員、クリントン政権の国連大使、エネルギー長官を務めた後、2003年から11年に掛けてニューメキシコ州知事を務めた。ヒスパニック系有力政治家として大統領候補とみなされ、2008年大統領選に出馬したが、オバマ、ヒラリー・クリントンの争いに埋没して撤退した。北朝鮮との独自のパイプを持つことで知られ、2013年には拘束されていた韓国系米国人の解放のため平壌を訪れた。他にもイラクなどで拘束された米国人解放のため交渉に当たったことで知られてきた。
小池邦夫、8月31日死去、82歳。絵手紙の創始者として知られる。「下手でいい、下手がいい」を合言葉に絵手紙の普及に務めた。
蔡焜霖(さい・こんりん)、3日死去、92歳。50年に国民党政権下の台湾で政治弾圧を受け懲役10年となる。60年まで服役し、66年に児童雑誌「王子」を創刊し、日本の漫画の翻訳を掲載した。自身の経験を基にしたコミック『台湾の少年』は岩波書店から刊行されている。
門田守人(もんでん・もりと)、7日死去、78歳。医学者。阪大名誉教授。日本医学会会長の他、日本癌学会、日本外科学会などで会長を務めた。また日本臓器ネットワーク理事長も務めた。
寺沢武一、8日死去、68歳。漫画家。代表作『コブラ』(78~85)は、全世界で5千万部発行されている。
江沢洋、10日没、91歳。物理学者。量子力学の研究で知られ、一般向けの本も数多く書いた。
藤崎陸安(みちやす)、14日没、80歳。全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長。52年に青森の松丘保養園に入所した。
土田よしこ、15日死去、75歳。漫画家。赤塚不二夫のアシスタントを経てデビュー。代表作は『つる姫じゃ〜っ!』(73~79)。
又市征治、18日死去、79歳。元社民党党首。富山県出身で、01年から19年まで参議院議員。
棚橋静雄、19日死去、85歳。ロス・インディオスの元リーダー。79年に「別れても好きな人」が大ヒットした。
ヨネヤマママコ、20日没、88歳。パントマイマー。舞踏家大野一雄らに師事、54年に初のパントマイム「雪の夜に猫を捨てる」で評価された。60年に渡米し、72年に帰国するまでに独自のメソッドを身に付けた。帰国後は日本を代表するパントマイマーとして活躍した。92年に蘆原英了賞。
伊藤礼、22日没、90歳。英文学者、エッセイスト。『狸ビール』(91)で講談社エッセイ賞。作家伊藤整の子で、父の訳した『チャタレー夫人の恋人』の補役を行った他、父の関する著作も多い。60代になって自転車ファンとなり、自転車に関するエッセイを数多く書いた。
デヴィッド・マッカラム、25日死去、90歳。イギリスの俳優。テレビドラマ「0011ナポレオン・ソロ」のソ連スパイ、イリヤ・クリアキンで人気を得た。
宮田節子、27日死去、87歳。歴史学者、朝鮮史が専門で、日本の植民地時代の創氏改名などについて研究し、社会的発言も行った。
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フリードキン、福原義春、亀井俊介他ー2023年8月の訃報

2023年09月06日 21時45分53秒 | 追悼
 2023年8月の訃報特集。「布川事件」冤罪被害者だった桜井昌司さんを別に書いた。その布川事件の共同被告人二人を追った記録映画『ショージとタカオ』を作った映画監督、井出洋子も13日に亡くなった。68歳。その映画は2010年の記録映画賞を独占し、本にもなった。もとは羽田澄子の助監督だった人で、その後の作品に『ゆうやけ子どもクラブ!』(2019)がある。

 8月はあまり大きな訃報がなかったので内外を1回で。映画監督のウィリアム・フリードキンが7日死去、87歳。僕の若い頃は有名な監督だった。『フレンチ・コネクション』(1971)でアカデミー賞作品賞、監督賞などを受賞して、その次が世界的メガヒットになったホラー『エクソシスト』(1973)である。ところでこの両作品はキネ旬ベストテンでともに10位だが、72年に6位になったのが『真夜中のパーティ』(1970)だった。これはヒットした舞台劇の映画化で、ゲイ・パーティを舞台に、「同性愛者の苦悩」をテーマにしていた。全編を強い緊張感が漂う映画だったが、その後見る機会が無いのが残念。この問題に初めて気付かされた映画だった。77年に作った『恐怖の報酬』のリメイクがコケて、その後はエンタメ系に徹した普通の監督になった感じがある。
(ウィリアム・フリードキン)
 書く直前に飛び込んできたのが、資生堂名誉会長福原義春の訃報。30日没、92歳。資生堂創業家に生まれ、1987年に社長、97年会長、2001年から名誉会長を務めた。財界きっての文化人として知られ、「メセナ」(企業による文化・芸術支援活動)という言葉を日本に定着させた功績は大きい。企業メセナ協議会に深く関わり、その関係の著書も多い。2000年から2016年まで東京都写真美術館館長として、「写美」を支えたことで知られている。文化功労者に選定。
(福原義春)
 アメリカ文学者の亀井俊介が18日死去、91歳。東大名誉教授でホイットマンなどアメリカ文学研究が本業だが、アメリカ大衆文化全般に詳しく、何冊もの一般書を書いた。読書家にはよく知られていた人だが訃報が小さかったのが残念。『サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書』(1976)で、エッセイストクラブ賞。書評で読んで買ったが、ものすごく面白かった。その後も岩波新書『マリリン・モンロー』(1987)、大佛次郎賞受賞の『アメリカン・ヒーローの系譜』(1993)、ミネルヴァ評伝選『有島武郎』(2013、和辻哲郎文化賞)など、著書多数。こういう人がいてくれて、外国文化の奥深さを学べたのである。
(亀井俊介)
 指揮者の飯守泰次郎(いいもり・たいじろう)が15日死去、82歳。文化功労者だけど、僕はこの人を知らなかった。ワーグナーの指揮者として有名で、バイロイト音楽祭で音楽助手を長く務めた。日本のワーグナー演奏史に大きな足跡を残し、多くの賞を受けている。日本芸術院会員。ただ僕はワーグナーの音楽、オペラをCDやテレビでも聞いたことがないのである。ところで、この人をウィキペディアで見てみると、飯守重任(しげとう)元裁判官の息子として、「満州国・新京」で生まれたと出ていた。その人こそ知らないと言われるだろうが。
(飯守泰次郎)
 劇作家の岡部耕大(こうだい)が、25日死去、78歳。長崎県松浦市出身で、長崎を舞台にした作品が多い。1970年に劇団「空間演技」を立ち上げ、演出も行った。1979年『肥前松浦兄妹心中』で岸田国士戯曲賞を受賞した。今村昌平監督の映画『女衒』(ぜげん)の脚本も担当。最近も東京で『精霊流し』が上演されたが、風土を反映した作品で評価された劇作家だった。
(岡部耕大)
 アニメーション美術監督の山本二三(にぞう)が19日死去、70歳。宮崎駿監督のテレビアニメ『未来少年コナン』で初めて美術監督を務めた。その後『ルパン三世 カリオストロの城』の背景などを担当した後、1985年にスタジオジブリに移って『天空の城ラピュタ』の美術監督を務めた。他に『火垂るの墓』『もののけ姫』『時をかける少女』などの美術監督を務めた。迫力のある雲の描写が特に「二三雲」とファンから呼ばれていたという。故郷である長崎県の五島列島福江島に山本二三美術館がある。
 (山本二三)
・作家の森内俊雄が5日死去、86歳。代表作に『幼きものは驢馬に乗って』(芥川賞候補)、『翔ぶ影』(泉鏡花賞)、『氷河が来るまでに』(読売文学賞)など。芥川賞候補に5回なったが受賞出来なかった。SF作家で評論でも知られた石川喬司が7月9日に死去していた。92歳。評論『SFの時代』で1978年に日本推理作家協会賞。 
・吉本新喜劇座員の桑原和男が10日死去、87歳。新喜劇では「和子ばあちゃん」役で親しまれた。奇術師の松旭斎すみえが12日死去、85歳。日本を代表する女性奇術師と呼ばれた。古今亭志ん生の娘として一家を描く著書も書いた美濃部美津子が26日死去、99歳。金原亭馬生、古今亭志ん朝の姉にあたる。
・元検事総長の土肥孝治が1日死去、90歳。大阪地検検事正時代にイトマン事件を担当し、検事総長時代には薬害エイズ事件や旧大蔵省汚職事件などを担当した。元衆議院議員の畑英次郎が4日死去、94歳。1979年に旧大分1区から衆院議員に当選し、7期務めた。最初は自民党だが、93年に離党して新生党に参加、以後新進党、太陽党、民政党、民主党と移った。細川内閣で農水相、羽田内閣で通産相を務めた。発音が同じ羽田元首相の側近だった。
・戦時中の言論弾圧事件である「横浜事件」で、元被告木村亨の妻として再審請求を引き継いだ木村まきが14日に死去、74歳。
・「ダイヤモンドサッカー」の実況アナを20年間担当して世界のサッカー事情を伝えた金子勝彦が20日死去、88歳。日本サッカー殿堂入り。 

・アメリカの歌手シクスト・ロドリゲスが8日死去、81歳。記録映画『シュガーマン』の題材となった歌手で、南アフリカで大ヒットしながら自国でヒットせず引退。死亡説が流れていたが、インターネット時代に「発見」された。ザ・バンドのギタリスト、ロビー・ロバートソンが9日死去、80歳。『レイジング・ブル』などの映画音楽も担当した。

・フランスの歴史家エレーヌ・カレール=ダンコースが5日死去、94歳。ソ連・ロシア史の世界的権威で、『崩壊した帝国』(1978、邦訳1990)で、諸民族の反乱でソ連が解体すると「予言」したことで知られる。
・そのロシアでは、民間軍事会社ワグネルのリーダー、エフゲニー・プリゴジンドミトリー・ウトキンが乗ったビジネスジェット機が23日にモスクワ北西部トベリ州で墜落した。プリゴジン死亡かと世界的にトップ記事となった。その後DNA鑑定で死亡が確認されたとロシア側は言っているが、それでも生存説も絶えない。プリゴジンは62歳、ウトキンは53歳。「ワグネル反乱」は許されたことになっていたが、遠からずこういうニュースが聞かれることは世界の誰もが予測していただろう。その意味ではプーチンによる「公開処刑」説に説得力がある。だが、それでも身代わり説、替え玉説が流れるところにロシア政治の闇がある。特にウトキンは紛れもないネオナチで、こういう組織が政府に代わってアフリカで利権漁りをしていたことに唖然とする。
(プリゴジン)
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ミラン・クンデラ、ジェーン・バーキン他ー2023年7月の訃報③

2023年08月09日 22時52分37秒 | 追悼
 2023年7月の訃報(続き)。国外の訃報をまとめて。あまり多くなかったので、頑張れば前回と一緒に書けたんだが…。

 チェコ及びフランスの作家、ミラン・クンデラ(Milan Kundera)が7月11日死去、94歳。先月亡くなったアメリカのコーマック・マッカーシーとともに、毎年のようにノーベル文学賞候補に名が挙っていた。1929年、チェコスロヴァキア(当時)のブルノで生まれ、「社会主義」時代に創作を開始した。1967年の『冗談』(岩波文庫)は共産党支配下の閉塞した社会を描いている。翌年の「プラハの春」(自由化運動)にも関わったが、ソ連侵攻後に発禁となった。
(ミラン・クンデラ)
 1975年にフランスのレンヌ大学に招へいされ、渡仏。1979年には国籍をはく奪され、1981年にフランス市民権を取得し、創作もフランス語で行うようになった。1984年に『存在の耐えられない軽さ』を発表して世界的に評価され、映画化された。その他『不滅』『笑いと忘却の書』など主要な作品は集英社文庫に収録されている。文学評論も多く、ヨーロッパ文学の伝統を継承する作家だった。持ってるので、今後読みたいと思っている。

 英仏で活躍した俳優、歌手のジェーン・バーキンが7月16日死去、76歳。折しも娘のシャルロット・ゲンズブールが監督した映画『ジェーンとシャルロット』が公開を控えていた(8月4日公開)時点で、大変驚いた。ジェーン・バーキンと言えば、エルメスのバッグ「バーキン」だという人が多かったけど、僕は知らない。本当は歌手や俳優としての活躍もほとんど知らない。セルジュ・ゲンズブールと歌った『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1969)が大ヒットし、過激な性描写が話題となってヒットした。セルジュが監督した同名の映画(1976)でも主演している。
(ジェーン・バーキン)
 ロンドンで生まれ、女優を目指していた。18歳で映画『ナック』の端役に採用されたが、同作の音楽を担当したジョン・バリー(アカデミー賞音楽賞を4回受賞した大作曲家で、007のテーマ曲を編曲した)と結婚した。長女を産むが、68年に離婚。フランスにわたって、セルジュ・ゲンズブールと出会い、事実婚で次女シャルロットを産んだ。80年に関係が破綻するが、その後映画監督ジャック・ドワイヨンと結婚し、三女を産んだ。このような時代に先駆けた自由な生き方で支持されてきた。東日本大震災直後の4月6日に早くも来日し、チャリティ・コンサートを行ったことでも知られる。
(若い頃)
 アメリカの歌手トニー・ベネットが7月21日死去、96歳。第二次大戦後を代表するポピュラー歌手の一人で、グラミー賞を20回受賞した。主なヒット曲に「ブルー・ヴェルヴェット」「ストレンジャー・イン・パラダイス」「霧のサンフランシスコ」などがある。70年代後、ロック音楽台頭に押され人気が低迷したが、クラシックやジャズ、ロックなど多くの歌手とコラボして人気が復活した。近年もレディー・ガガとの親交で知られた。最近はアルツハイマー病を患っていたが、2021年にも史上最高齢の95歳で新作アルバムを発表し、ギネス世界記録に認定された。
(トニー・ベネット)
アンドレ・ワッツ、12日死去、77歳。クラシックピアニスト。ドイツ出身で、バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルと16歳で共演して知られた。
ボー・ゴールドマン、25日死去、90歳。アメリカの脚本家。『カッコーの巣の上で』『メルビンとハワード』でアカデミー賞を2度受賞した。他にも『ローズ』『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』などを手がけた。
ランディ・マイズナー、26日死去、77歳。「イーグルス」結成メンバー。「ホテル・カリフォルニア」などに関わったが、77年に離脱しソロで活動した。
シンニード・オコナー、26日死去、56歳。アイルランド出身の歌手で、宗教や性に関して政治的なメッセージを述べることで知られた。1990年には「Nothing Compares 2 U」がビルボード誌で世界1位のヒット曲となった。2018年にはイスラム教への改宗を公表していた。
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高史明、無着成恭、PANTA、外山雄三他-2023年7月の訃報②

2023年08月08日 22時31分49秒 | 追悼
 2023年7月の訃報。作家の高史明(コ・サミョン)が15日死去、91歳。1974年に「ちくま少年図書館」から刊行された『生きることの意味 ある少年のおいたち』が大きな評判を呼び、日本児童文学者協会賞を受賞した。この本は僕が今までに読んだ本の中でも、もっとも感動した本に入る。在日朝鮮人2世として下関に生まれ、幼くして母と死別した。その後の厳しい暮らしを生き抜く中で感じたことが感動的に語られている。戦後は政治運動を志し、その体験を描いた小説『夜がときの歩みを暗くするとき』(1971)で作家デビューした。その後、一人息子に悲劇が起こったことは、『中山千夏「ぼくは12歳」-レアCDの話④』に書いた。以後の魂の彷徨の中で、親鸞と『歎異抄』に出会い、浄土真宗に関する著作が多くなった。仏教伝道賞も受賞している。結局作家人生を総括すれば、仏教関連が圧倒的に多いことに驚くのである。
(高史明)
 教育者、僧侶の無着成恭(むちゃく・せいきょう)が21日死去、96歳。山形県に生まれ、1948年に現・上山市の山元小学校教師になった。その時に実践した「生活綴り方」の作文を『山びこ学校』として刊行し、大ベストセラーになった。しかし、村から追われるように上京し、駒沢大学を卒業後、1956年から1983年まで明星学園に教諭、教頭として勤めた。また、1964年からラジオの「全国こども電話相談室」の回答者を28年間担当した。独自のユーモラスな回答で人気があり、一時は誰でも知っている人だったが、長命すぎて忘れられたか。退職後は千葉県(87~)、大分県(03~11)で住職を務めた。24歳の若い頃に作った生徒の作文集が一生を決めた人生だった。その『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。
 (無着成恭)
 日本のロック音楽草創期の伝説的バンド「頭脳警察」のボーカル、PANTA(本名中村治雄)が7日死去、73歳。1970年から75年まで「頭脳警察」で活動、過激な反体制的な歌詞で注目された。その後、ソロになったり再結成したりを繰り返しながら、音楽活動を続けた。沢田研二などの歌手に楽曲を提供したり、多くの映画で俳優もしていた。近年は闘病しながら活動していた。
(PNNTA)
 NHK交響楽団正指揮者の外山雄三(とやま・ゆうぞう)が11日死去、92歳。東京芸大を卒業後、N響に打楽器練習員として入団した。その後、ヨーロッパ留学を経て、大阪フィルハーモニー管弦楽団で常任指揮者となり、京都、名古屋、仙台、神奈川など日本各地で活動した。79年から死去まで、N響正指揮者を務めていた。作曲者としても知られた他、テレビ出演も多かった。
(外山雄三)
夏まゆみ、6月21日死去、61歳。ダンスプロデューサー。「モーニング娘。」や「AKB48」などのダンスを手がけた。
高田衛、5日死去、93歳。国文学者、近世文学専門で、『八犬伝の世界』で注目された。
那須田稔、11日死去、92歳。児童文学者。『シラカバと少女』(1965)で日本児童文学者協会賞。「忍者サノスケじいさん」シリーズなどがある。
木滑良久(きなみ・よしひさ)、13日死去、93歳。マガジンハウス最高顧問。平凡パンチ、ananなどの編集長を経て、76年に「POPEYE」、80年に「BRUTUS」を創刊した。その後マガジンハウス社長、会長を務めた。
西川扇蔵、14日死去、95歳。日本舞踊の西川流宗家、文化功労者、人間国宝。
鈴鹿景子、18日死去、67歳。女優、演出家。76年にNHK朝ドラ「火の国に」でデビューした。
浦雅春、19日死去、74歳。ロシア文学者、翻訳家。東大名誉教授。チェーホフ、ゴーゴリなどの研究、翻訳で知られた。
那智わたる、21日死去、87歳。元宝塚トップスター。53年から68年に男役として活躍した。佐藤文生元郵政相と結婚して話題となった。
平良啓子、29日没、88歳。沖縄からの疎開船が米潜水艦に攻撃された「対馬丸」事件のサバイバーで、語り部として活動した。
奥村彪生(あやお)、31日死去、85歳。伝承料理研究家。テレビで活躍しながら、民俗学を学び各地に伝わる食文化の研究に取り組んだ。『日本めん文化の一三〇〇年」で第1回辻静雄食文化賞。
立岩真也、31日死去、62歳。社会学者。障害者問題を研究し、病者、障害者とともにある社会をめざし、「弱くある自由」を唱えた。
☆ところで、7月に大きく報道された訃報に、タレントの「ryuchell」の突然の悲報があった。12日没、27歳。テレビで見る限り、なかなか「まとも」な感性の人だなと思っていたが、沖縄での生い立ちや性自認などの背景があったようだ。「自殺」とみなされている。最近芸能界の「自殺」が多すぎないか。ここでもあえて画像を載せたりしないことにする。
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森村誠一と常石敬一、「731部隊」をめぐって-2023年7月の訃報①

2023年08月07日 22時06分07秒 | 追悼
 2023年7月の訃報特集。猛暑で書く方も(多分読む方も)エネルギーが落ちていると思うから、ちょっとゆっくりと3回に分けて書きたい。まず1回目は森村誠一常石敬一。「731部隊」関連でつながるのだが、判る人の方が少ないか。
(森村誠一)
 ミステリー作家の森村誠一が7月24日に死去、90歳。訃報は大きく報道されたが、大部分は『人間の証明』をめぐるものだった。1975年に角川書店の「野性時代」に発表され、76年に刊行された小説である。77年に角川映画で映画化され、大々的な宣伝が行われて大ヒットした。角川映画は1976年に横溝正史の『犬神家の一族』(市川崑監督)を映画化して大ヒットしていた。横溝作品を軒並み文庫化し、テレビでCMを繰り返して「メディアミックス」と呼ばれた。それをさらに大々的に展開したのが、角川映画第二弾の『人間の証明』だった。ジョー山中が歌うテーマ曲も大ヒットした。
(映画ポスター)
 もうマスコミ関係者も現役では知らないはずだが、幼少期のテレビCMの印象が強烈に残っているかもしれない。僕は原作も映画もスルーしてしまった。昔から大ヒットしているような映画や小説を避けて通っちゃうのである。ミステリーは昔から読んでるが、森村誠一だけでなく日本の作家はあまり読まなかった。僕の若い頃は英米と日本のミステリーには、まだまだ差があると思われていて、僕も「日本」の湿った風土を舞台にしたミステリーが好きじゃなかった。

 だから森村誠一は2冊しか読んでない。一冊はデビュー作の『高層の死角』(1969)で、公募の江戸川乱歩賞に応募して受賞した。あるとき乱歩賞受賞作を全部読もうと思って、その時に初めて読んだのだが、あまりの出来の良さに驚いた。それまで森村誠一はホテルマンとして働いていて、その経験を生かしている。トリック、動機、文体が渾然一体となって新人離れしている。西村京太郎、東野圭吾、池井戸潤などの受賞作よりもずっと完成度が高いと思う。もちろん新人賞なんだから、受賞作がこれほど完成されてなくても問題ないが、とにかく傑作なのである。

 もう一冊が『悪魔の飽食』で、731部隊の所業を本格的に追求した「ノンフィクション」である。1981年に「赤旗」に連載され、大反響を呼んで、光文社から出版されベストセラーになったのである。すでに現代史研究者には知られていたが、広く一般的に旧日本軍の生物兵器研究の恐ろしさを知らしめたのは、この本だったと言える。森村は初め小説の材料として取材を始め、後にドキュメンタリーとして発表することになった。共同取材を担当したのは下里正樹だったが、当時共産党員だった下里は後に除名されている。この本は第3部まで書かれたが、第2部の写真誤用事件をきっかけに光文社と揉めて、角川書店から再刊された。
 
 実はこの本も読まなかったのだが、授業で取り上げた時に「家にこの本があった」と持ってきた生徒があった。貸してくれるというから、その機会に読むことにした。この本をめぐってはいろんな話題があり、ウィキペディアに詳しく載っている。僕がそれまで読まなかったのは、「歴史研究」としてはどうなんだろうと勝手に思ってたからである。読んでみて、読む価値はあると思ったけれど、内容は別にして文体などはやはり「研究」を越えた部分はあるかなと思った。その後読んでないし、全3部を読んでないので最終的な評価は控えたい。ただ、多くの人に問題を提起したのは、この本なのである。
(『悪魔の飽食』)
 科学史研究者の常石敬一が4月24日に死去していた。79歳。訃報は7月に公表された。長崎大学を経て、神奈川大学教授。歴史学者ではなく、物理学を学んで科学史研究に進んだ。早くから「731部隊」の実態を研究し、最初の著作は『消えた細菌戦部隊 関東軍第731部隊』(1981)だった。化学兵器や核兵器、医療史なども研究したが、やはり日本の細菌戦研究がライフワークだった。一般書として、講談社現代新書『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(1995)がある。昨年には『731部隊全史』(2022)を出しているが、あまりに大部で読んでいない。科学史に関する翻訳も多い。僕は常石氏の本はいくつか読んでいるが、信頼出来る研究者だと思う。
(常石敬一)(常石著『731部隊全史』)
 1993年に「731部隊展」が行われた。90年代初期は、そういう企画が市民運動として大きな広がりを持つ時代だったのである。僕は地元でこの運動に関わったが、(結婚で離れた)足立区に(父親の死去で)戻った少し後である。もともと地元のアムネスティグループに参加したりしていたが、転居してつながりが薄くなった。新しいつながりを求めていた頃だったのである。僕が「731部隊」に一番関心を持っていたのがその頃で、その後きちんとフォローしていないから、あまり語る資格がない。

 ただ日本軍は中国戦線で細菌戦を実行したことが、その後証明されている。研究しただけの機関ではないのである。「731部隊」は関東軍防疫給水部の秘匿名であり、人体実験も行っていた。そのことを公言したわけではないが、研究成果の論文を見れば明らかである。最近、部隊の構成メンバーや階級を記した文書が発見されたと報道された。近年になって、残された文書の発見が続いている。敗戦時に完全に焼却したはずが、少しは残るものなのである。今後さらに研究が進み、日本軍の生物兵器研究、使用状況が解明されるだろう。とにかく旧軍には恐るべき実態があったことを忘れてはいけない。
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北別府学、杉下茂、川口由一、青木幹雄等ー2023年6月の訃報③

2023年07月06日 22時24分29秒 | 追悼
 2023年6月は大きく報道された訃報が多かった。「大きく報道された」とは、訃報とは別に「追悼記事」や「評伝」が掲載される人だと思う。文化関係を2回目に書いたので、3回目は残りの人々を。(小田中教授とベニシアさんは一度2回目に書いたのだが、こちらに移した。)偉大な野球選手が同じ日に大きく報道された。杉下茂は別記事もで紹介したので、ここでは北別府から。

 広島東洋カープ一筋で通算勝利213勝を上げた北別府学が16日死去、65歳。1975年にドラフト1位でプロ入り。「精密機械」と呼ばれた制球力で知られ、最多勝2回(82、86年)、最優秀防御率1回(96年)、最高勝率3回(85、86、91年)を記録し、沢村賞を82年、86年に2回受賞した。広島の5回の優勝に貢献したが、日本シリーズでは一度も勝利投手になれなかった。通算213勝は歴代18位で、広島カープ史上最多勝利投手だった。94年限りで引退し、その後は広島ホームテレビ解説者やカープの投手コーチを務めた。2020年に2年前から成人T細胞白血病で闘病していることを公表していた。近年には珍しく一つの球団で活躍した生涯だった。
 (北別府学)
 中日ドラゴンズの元投手、杉下茂が12日死去、97歳。北別府と同じ日の新聞で訃報が大きく報道されたが、年齢的には30歳以上離れていて活躍したのは50年代になる。プロで活動したのは1949年から1961年までの合計11シーズンだった。何より「フォークボール」で有名になったが、今の投手のようにフォークボールを多投せず、試合の切り札的に5、6球投げる程度だったという。最多勝利2回(51、54年)、最優秀防御率1回(54年)、最高勝率1回(54年)。沢村賞3回(51。52。54年)。中日が初優勝した54年は投手として32勝12敗で、優勝の原動力となった。通算勝利数215勝は歴代17位。1954年は(中日ドラゴンズの最多勝利投手は歴代16位で219勝の山本昌。)兄が沖縄戦で戦死していて、平和を守ることの大切さを伝えていた。
 (杉下茂)
 自然農の実践家として知られた川口由一(かわぐち・よしかず)が9日死去、84歳。農薬、化学肥料の農業を続ける中で体調不良となり、70年代から独自の自然農を始めた。不耕起、不施肥、無農薬の「自然農」は、耕起、施肥、病害虫防除を否定し、周辺の草(雑草)の生命も全うさせるというものである。自ら実践するとともに、全国各地で自然農の指導にもあたった。著書も多く、虫や草を敵としない「思想」は一部に強い影響を与えてきた。新聞、テレビ、ネットメディア等では訃報が報じられかった。
(川口由一)
 元内閣官房長官、元参議院議員の青木幹雄が11日死去、89歳。島根県に生まれ同郷の竹下登の秘書となり、67年から86年まで島根県議会議員として「城代家老」と呼ばれた。86年に参議院議員となり、2010年まで4期当選。92年の竹下派分裂騒動では、38人中30人を小渕派にまとめて参議院の有力者と目されるようになった。98年に小渕恵三内閣が発足すると、1年後の99年に内閣官房長官に就任した。その結果、2000年4月に小渕首相が倒れた時に、後継首相に森喜朗を「密室」で決定した「五人組」として批判された。その後は自民党参議院議員会長として「参院のドン」と呼ばれて長く影響力を保った。2010年に体調不良で議員を引退し、長男の一彦が後継となった。その後も一定の影響力を持ち続けていた。
(青木幹雄)
 元青森県知事、元衆議院議員の木村守男が25日死去、85歳。1980年に新自由クラブから衆院議員に当選、81年には離党して自民党に入党した。83年は落選したものの、86年、90年と当選。93年には宮沢内閣不信任案に賛成して離党、新生党に参加して当選した。95年に無所属で青森県知事に立候補し、現職を破って当選、3回当選した。しかし、93年の三選直後に「週刊新潮」がセクハラ問題を掲載し、議会と対立して辞職勧告決議が可決された。揉めた挙げ句、県議選後の5月に辞職した。長男の木村太郎も衆院議員となって7回当選したものの、2017年に52歳で死去。その後は次男の木村次郎が後を継いで2回当選している。
(木村守男)
 ウシオ電機設立者で、元経済同友会代表幹事の牛尾治朗が13日死去、92歳。姫路出身で、1964年に家業をもとにウシオ電機を設立した。早くから財界活動も行い、規制緩和、株主重視を主張していた。しかし、89年のリクルートコスモスの未公開株を取得していたことから、公職を一時離れたこともある。小泉内閣では経済財政諮問会議の民間議員となって、積極的に発言した。安倍晋太郎と親しく、娘が安倍晋太郎の長男と結婚している。そのため安倍晋三内閣でも相談を受けていたと言われる。
(牛尾治朗)
 元産経新聞社社長の羽佐間重彰(はざま・しげあき)が19日死去、95歳。元々ニッポン放送に入社し、編成部長時代に「オールナイト・ニッポン」の放送を開始した。ポニー・キャニオンレコード社長を経て、85年にフジテレビ社長。88年にフジサンケイグループ議長の鹿内春雄が急死して、父の鹿内信隆が復帰し、ニッポン放送社長に飛ばされた。90年に信隆が死去し、92年6月に産経新聞社社長に就任。7月に信隆の女婿鹿内宏明議長を解任するクーデターが起こった。97年から2003年までフジサンケイグループ代表。この反鹿内家クーデターは日枝久フジテレビ社長が首謀者と言われる。産経が「つくる会」の中学歴史教科書を発行し始めた時期の最高責任者がこの人だったことを忘れてはいけない。
(羽佐間重彰)
 刑事法学者の小田中聰樹(おだなか・としき)が9日死去、87歳。東北大名誉教授。刑事訴訟法研究の第一人者だったが、研究に止まらず誤判、冤罪救援に尽力したことで知られる。講談社現代新書の『冤罪はこうして作られる』(1993)のような一般書も書いた。裁判員制度などの「司法改革」への批判でも知られた。護憲論者として「九条科学者の会」呼びかけ人も務めた。
(小田中聰樹)
 肩書きが「ハーブ研究家」となったベニシア・スタンリー・スミスが21日死去、72歳。イギリス人だが、離婚した母とともに世界各地を移りながら育った。1971年に日本に来て、1978年から京都で英語学校を経営。1992年に登山家梶山正と再婚し、96年に京都・大原に住むようになり、ハーブ作りを始めて、ハーブ研究家となった。『ベニシアのハーブ便り 京都・大原の古民家暮らし』(2007)などエッセイも出版。その暮らしぶりをNHKが撮影し『猫のしっぽ カエルの手 京都 大原 ベニシアの手づくり暮らし』として放送した。これは日曜日夕方6時にEテレで放映されて、母親が見ていたので僕はこの人のことを身近に感じるようになった。
(ベニシア・スタンリー・スミス)
27代木村庄之助、22日死去、97歳。1977年から90年まで大相撲の行司最高位の木村庄之助として活動した。
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中島貞夫、野見山暁治、平岩弓枝他ー2023年6月の訃報②

2023年07月05日 22時54分55秒 | 追悼
 2023年6月の訃報、2回目は日本人の中で、文化的ジャンルで活躍した人を中心に。まず映画監督の中島貞夫が11日死去、88歳。東映に入社し、1964年に『くノ一忍法』で監督デビュー。以後70年代の実録映画、80年代の大作路線など、東映娯楽映画を支えた職人監督だった。同時代に活躍した深作欣二と違って娯楽に徹した印象が強い。1987年から大阪芸術大学教授に就任し、大阪芸大から続々と優秀な新人監督を輩出させた。1967年『893愚連隊』で「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」のセリフが注目された。チンピラたちの生き様を描いた70年代前後の作品が一番面白いと思う。『日本暗殺秘録』(1969)『現代やくざ 血桜三兄弟』(1971)『鉄砲玉の美学』(1973)『脱獄広島殺人囚』(1974)『狂った野獣』(1976)『沖縄やくざ戦争』(1976)などが代表作か。2019年に20年ぶりに長編映画『多十郎殉愛記』を監督して話題となった。
(中島貞夫)
 洋画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)が22日死去、102歳。筑豊の炭鉱経営者の子どもとして生まれた。戦後に12年間パリで暮らし、画風が抽象画に変化した。帰国後、1968年から東京芸術大学で教え、東京芸大名誉教授。名エッセイストとしても知られ、『四百字のデッサン』(1972)でエッセイストクラブ賞を受賞した。窪島誠一郎と協力して戦没画家の絵を収集し、長野県上田市に「無言館」を設立した。2014年に文化勲章受章。僕は絵をちゃんと見たことがないんだけど、実妹が作家の田中小実昌と結婚して、パリ在住時代は世田谷の家に田中夫婦が住んでいた。そのことが田中小実昌のエッセイによく出て来る。
(野見山暁治)
 作家の平岩弓枝が9日死去、91歳。1959年に『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞。僕はそれしか読んでいない。その後、1974年から『御宿かわせみ』シリーズを発表し始め、2017年の41巻まで続いた。僕の若い頃はテレビドラマの『女と味噌汁』『肝っ玉かあさん』『ありがとう』などが人気でよく知られていた。大河ドラマ『新・平家物語』の脚本も担当。2016年に文化勲章受章。東京・渋谷区の代々木八幡宮の宮司の一人娘で、そういう人もいるんだなあと思った。
(平岩弓枝)
 彫刻家の澄川喜一が4月9日に死去していた。91歳。元東京芸大学長。木の造形にひかれ、木の反りを生かした抽象的な「そりのある形」シリーズで評価された。その造形性を生かして、東京スカイツリーなどを監修した。文化勲章受章。
(澄川喜一)
 演出家、オペラ演出家の栗山昌良が23日死去、97歳。演劇作品も多く手掛けたが、それ以上に戦後日本のオペラ演出で知られた。『椿姫』『蝶々夫人』などの他、特に日本の團伊玖磨『夕鶴』、黛敏郎『金閣寺』などを演出した。文化功労者。
(栗山昌良)
 俳優の柳澤愼一が2022年3月24日に死去していた。もともとジャズ歌手として人気を得て、日劇で500日連続出演したという。多くのテレビ、映画に出ていたが、各社で貴重な脇役として活躍していた。当時の出演映画には『西銀座駅前』『鷲と鷹』『紀ノ川』などがある。最近の映画では『メゾン・ド・ヒミコ』に出ていた。一時池内淳子と結婚していたこともある。軽妙洒脱な語りでも知られ、最近までトークショーなどに出ていた。僕もラピュタ阿佐ヶ谷で聞いたことがある。
(柳沢慎一)
 フランス文学者、評論家の栗田勇が5月5日に死去していた。93歳。50年代に日本で初のロートレアモン個人訳全集を翻訳した。文学、演劇、美術など幅広い分野で評論家として活躍。次第に仏教関係の著作が多くなり、1977年に『一遍上人』で芸術選奨を受賞。他にも道元、良寛、最澄などの本も書いた。また『わがガウディ 劇的なる空間』などガウディを70年代から紹介していた。
(栗田勇)
春日三球(かすが・さんきゅう)、5月17日死去、89歳。漫才師。妻と組んだ「春日三球・照代」を組んで活躍した。「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね。それを考えると夜も眠れない」の地下鉄漫才で人気を得た。87年に妻が死去し、後別の女性と再婚した。確かに地下鉄銀座線などを思うと、先の疑問も成り立つだろう。でも僕は自宅徒歩1分のところに地下鉄車庫があるので、特に疑問を持ったことがなかった。
高山由起子、脚本家。2日死去、83歳。70年代から活躍し、村野鐵太郎監督の名作『月山』『遠野物語』の脚本を書いた人である。テレビでも『フランダースの犬』『必殺仕掛人』などを手掛けた。福永武彦原作の『風のかたみ』では監督も務めた。映画化された『源氏物語 千年の謎』の原作など、著作も多い。日本画家高山辰雄の娘で、父に関する著作もある。
亀井忠雄、3日死去、81歳。能楽師。人間国宝で、芸術院会員だった。
小桜京子、15日死去、90歳。女優、喜劇役者。柳家金語楼の姪で、金語楼劇団の子役でデビューした。50年代にテレビ、映画の「おトラさん」シリーズで人気を得た。一時、奇術師の引田天功と結婚していた。
坂見誠二、16日死去、65歳。日本にストリートダンスを伝えた一人で「ダンスの神様」と呼ばれた。多くの舞台、テレビ、映画などで振付師として活躍した。
佐藤剛、20日死去、71歳。音楽プロデューサー、ノンフィクション作家。甲斐バンドを担当していたが、独立してTHE BOOMなど多くの歌手をプロデュースした。21世紀になって、『上を向いて歩こう』(2011)、『「黄昏のビギン」の物語』(2014)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」』(2017)など、戦後大衆音楽史を扱うノンフィクションを著した。
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C・マッカーシー、エルズバーグ、ベルルスコーニ他ー2023年6月の訃報①

2023年07月04日 22時32分52秒 | 追悼
 2023年6月の訃報特集。北半球では暑くなるにつれ、訃報が多くなってきた。今回は3回になる予定。海外は比較的すぐに訃報が発表されるようで、まず外国人から。

 アメリカの小説家、コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy)が13日に死去、89歳。ノーベル文学賞候補とも言われた現代アメリカを代表する作家の一人。軍に入ったり、各地を放浪して、作家として認められたのは遅かった。1992年の『すべての美しい馬』が全米図書賞を受賞したときは、もう60歳に近かった。2003年の『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』はコーエン兄弟が映画化してアカデミー作品賞を受賞。2006年の『ザ・ロード』はピュリッツァー賞を受賞してベストセラーになった。会話を引用符なしで書いたり、暴力的、哲学的な独自の作風で知られた。日本では早川書房から主要作品が文庫化されていて、大型書店に行ったら追悼コーナーがあった。僕はほとんどもってるけど読んでないので近々読む予定。
(コーマック・マッカーシー)
 アメリカで1971年にヴェトナム戦争の戦争過程を分析した、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴露したことで知られるダニエル・エルズバーグが16日死去、92歳。海兵隊を経て、国務省、国防省に勤務したが、やがてアメリカの戦争政策に批判的になっていった。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストにリークした様子は映画『ペンタゴン・ペーパーズ』に描かれた。国家機密漏洩罪に問われたが、ロサンゼルス連邦地裁で公訴棄却となった。その後は平和運動家、軍縮研究家として活動した。
(ダニエル・エルズバーグ)
 イギリスの俳優、元政治家のグレンダ・ジャクソンが15日死去、87歳。日本では知る人が少ないが、アカデミー賞主演女優賞を2回受賞した大女優である。シェークスピアの舞台から、コメディ映画、テレビではエリザベス1世を演じるなど、確かな演技力で大活躍した。ケン・ラッセル監督『恋する女たち』(1969)とメルヴィン・フランク監督『ウィークエンド・ラブ』(1973)でアカデミー賞。後者は中年男女の不倫コメディで、面白かったけど時代を超えて残ることが出来なかった。1992年に女優を引退して労働党から国会議員となり、2015年まで務めた。政界引退後は女優に復帰して、トニー賞を受賞するなど活躍した。映画『帰らない日曜日』(2021)で晩年の様子を見られる。実に見事な老後を演じて感銘深かった。
(グレンダ・ジャクソン)
 アメリカの俳優、アラン・アーキンが29日死去、89歳。地方の舞台からスタートし、ブロードウェイに進出。1966年の映画デビュー作『アメリカ上陸作戦』でアカデミー賞主演男優賞ノミネートされ、一気にスターとなった。『愛すれど心さびしく』(1968、マッカラーズ『心はさびしい狩人』の映画化)で再びアカデミー賞主演男優賞にノミネート。次第に渋い脇役に回るようになり、21世紀になって『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
(アラン・アーキン)
 イギリスの俳優ジュリアン・サンズの死亡が6月27日に確認された。65歳。1986年の『眺めのいい部屋』が評判となり、日本でも人気となった。その後も『裸のランチ』『リービング・ラスベガス』などで順調に活躍した。登山愛好家で、1月にカリフォルニア州の山にハイキングに行って、13日を最後に消息を絶っていた。6月24日に遺体が発見され、27日に身元が確認された。
(ジュリアン・サンズ)
 フランスの映画監督、ジャック・ロジエが2日死去、96歳。フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を代表する映画監督の一人だが、非商業的、自由で即興的な作風で、日本で公開されたのは近年のことだった。『アデュー・フィリッピーヌ』(1962)、『オルエットの方に』(1973)、『メーヌ・オセアン』(1986)などの長編の他、ゴダール『軽蔑』のメイキング『バルドー/ゴダール』(1963)などもある。こういう映画もあるんだという自由な映像が魅力。今夏ユーロスペースで追悼上映が予定されている。
(ジャック・ロジエ)
 ブラジルの歌手、アストラッド・ジルベルトが5日死去、83歳。1959年にジョアン・ジルベルトと結婚、1963年にアメリカに移住した。プロ歌手ではなかったが、夫のレコーディング時に歌声が素晴らしかったので、英語版の『イパネマの娘』を歌って世界的に大ヒットした。ボサノヴァの代表的歌手とされるが、そういう経緯からブラジルでの評価は高くないと言われる。
(アストラッド・ジルベルト)
 アメリカの物理学者、ジョン・グッドイナフが25日死去、100歳。リチウムイオン電池の研究で、2019年にノーベル化学賞を、日本の吉野彰、イギリスのウィッテンガムと同時受賞した。受賞時年齢97歳は、ノーベル賞史上最高齢の受賞となる。
(ジョン・グッドイナフ)
 アメリカの陸上競技選手、ジム・ハインズが3日死去、76歳。人類で最初に100メートルを9秒台で走った人である。1968年の全米選手権で手動計時で9秒9を記録。メキシコ五輪代表に選ばれ、五輪史上初の電動計時で9秒95を記録して金メダルを獲得した。この記録は1983年まで破られなかった。
(ジム・ハインズ)
 イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニが12日死去、86歳。大実業家でメディア王と呼ばれた。90年代初期に積年の保守政界汚職が摘発され、保守政界が再編されたとき、新党「フォルツァ・イタリア」を結成して、一躍首相となった。94年~95年、2001年~2006年、2008年~2011年に掛けて首相を務めた。あまりにもスキャンダルが多く、公職追放されたこともあるが復活した。庶民的と呼ばれたりもするが、もう僕に書くべきことはない。「やっと死んだか」ということだろう。
(ベルルスコーニ)
セオドア・カジンスキー、10日死去、81歳。一時はカリフォルニア大学バークレー校の最年少教授だったが、1969年に退職して山の中で原始的生活を送った。現代文明批判を強め、社会に訴えるためとして1978年から95年にかけて、全米各地の現代技術関係者に爆弾を送りつけ、その結果3人が死亡した。「ユナボマー」と呼ばれたが、96年に逮捕された。仮釈放なしの終身刑を宣告され、ノースカロライナ州の連邦医療刑務所で死亡した。
ハリー・マーコウィッツ、22日死去、95歳。アメリカの経済学者。1990年ノーベル経済学賞。金融資産運用の安全性を高める研究。
クリスティン・キング・ファリス、29日死去、95歳。アメリカの人権活動家。マーティン・ルーサー・キングの姉。
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「国がおかしくなる時は教育からおかしくなる」ー杉下茂の「遺言」(再掲)

2023年06月18日 20時36分07秒 | 追悼
 元プロ野球選手の杉下茂氏が亡くなった。97歳と長命だった。中日ドラゴンズで活躍し、日本で初めてフォークボールを投げて「フォークの神様」と呼ばれた人である。1951年、54年に最多勝利、51、52、54年に3度沢村賞を獲得したという偉大な記録を持っている。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手でもある。このような活躍は僕が生まれる前なので、もちろん直接は知らないけれど。通算勝利215勝は、日本プロ野球史上15位の記録となっている。同日に訃報が報じられた元広島の北別府学投手は213勝で、歴代17位だった。(昨年亡くなった村田兆治氏も215勝で、15位が2人いる。)
(杉下茂氏)
 さて、3年前の2020年夏、コロナ禍で夏の甲子園大会が中止になった年のことだけど、東京新聞に杉下氏のインタビューが掲載された。杉下氏の名前ぐらいは知っていたけれど、「伝説の投手」というだけで杉下氏の戦争体験のことなど全く知らなかった。そこで語られた言葉は、胸に迫る深さがあり非常に驚いた。そのため、ブログでも紹介したことがある。(2020年9月3日)その内容は改めて紹介する価値があると思う。むしろ今こそさらに重みが増しているというべきかもしれない。自分でも忘れていたぐらいだから、当時読んだ人でも多分覚えてないだろうと思う。そこで以下に再掲したい。
(現役当時の杉下氏)
 杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」

 「―そのときの思いは。」
 「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」

 「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
 「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている

 その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。

 「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
 「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」

 日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。

 「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
 「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています。」

 このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
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成田稔、蟻田功、高見のっぽー2023年5月公表の訃報

2023年06月05日 22時04分58秒 | 追悼
 2023年5月の訃報を一気に書いた後で、「5月に公表された訃報」を3件書き残していたことに気が付いた。そこでもう一回別に書いておくことにする。国立ハンセン病資料館名誉館長国立ハンセン病療養所多磨全生園元園長成田稔氏が4月9日に亡くなった。95歳。新聞に載った時に特別に書こうかと思ったのだが、他に書きたいことが多く先送りにしてしまった。東大医学部卒業後、1955年に多磨全生園に勤務して、1981年に副園長、85年に園長となり、93年に退職し名誉園長となった。
(成田稔)
 僕が一番よく全生園に行っていた頃、「成田園長」「成田先生」という名前をよく聞いたものだが、成田氏の真骨頂はむしろ退官後の活動にあったと思う。「日本らい学会」を「日本ハンセン病学会」に改称し、「らい予防法」反対の学会声明をまとめる中心となった。それら専門家としての活動はよく知らないが、僕がすごい人だと思ったのは、ハンセン病国賠訴訟の証人尋問である。熊本、岡山、東京で訴訟が起こされ、成田氏はその東京訴訟の証人となった。僕はそれを休暇を取って傍聴に行ったのである。隔離政策は人権無視であり、その責任を取るのは「国以外にあり得ない」と強く述べた声は心に残っている。訴訟後にハンセン病資料館が国立施設に移管されると、2007年から2021年まで館長を務めた。最後までハンセン病の啓発に努めた生涯だった。

 「天然痘」の撲滅に尽力した蟻田功(ありた・いさお)氏が3月17日に死去、96歳。熊本医大を卒業後、1950年に厚生省に入省し、1962年にWHOアフリカ事務局員としてリベリアに赴任した。そこで天然痘対策を担当し、1977年にはWHOの世界天然痘根絶対策本部長に就任した。最後の流行地となったソマリアでは、紛争下にワクチン接種に奔走した。その結果、1980年に天然痘根絶宣言を出すことに成功したのである。1985年に帰国して、国立熊本病院院長に就任した。1990年には財団法人国際保健医療交流センターを設立した。1985年に朝日賞、1988年に日本国際賞を受賞したが、この人類史上の偉業を達成した責任者に対して、日本国が何も顕彰してないのは何故だろうか。
(蟻田功)
 俳優、作家の高見のっぽが1922年9月10日に死去した。88歳。訃報を半年以上伏せるように本人が希望し、誕生日の5月10日に合わせて公表された。1967年にNHK教育テレビの「なにしてあそぼう」の「ノッポさん」役に起用された。芸名は181㎝の長身だったためで、一言もしゃべらずに工作する姿が人気を呼んだ。4年後に番組が終了し、後継の「できるかな」には出演していなかったが、視聴者の要望が強く1年後に出演するようになた。1990年まで23年間、番組ではしゃべらなかったが、最後の番組で初めて声を発して話題となった。その後は絵本や児童文学を中心に活躍した。と、まあそういうことなんだけど、以上は報道等を基に書いたもので僕はほとんどこの人の記憶がない。1967年は小学校高学年で、テレビでは怪獣もの、アニメ、野球などは見ていたが、このような児童番組はもう見なかった。その後も縁がなかった。訃報で初めて自分が知らない有名人がいるという事実を知るのである。
(高見のっぽ)
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