中津城に天守閣はあった!

2009-07-04 18:03:40 | Weblog
先日、中津地方文化財協議会で「中津城に天守閣があったか?」という演題で九州大学名誉教授丸山雍成(やすなり)先生の講演があった。結論は中津城に天守閣があったということで会の中尾七平氏の研究とあいまってそれはまさしく揺るぎのない事実であるということを諸文献を調査されて証明された。発掘調査の結果天守閣はあった(最近の発掘調査で出土した金箔瓦は天守に用いられるものということだ)と以前の朝日新聞の記事をこのブログでも紹介したが関が原の合戦の前九州地域の豊臣方の城を攻めるに当って「如水侯本丸天守ニ御上リ、勘定奉行ヲ召レ天守ニ詰オク金銀夥敷取出サセ広間ニ積マセ、、、。」その金銀を以って近郷の農民や浪人を募集し兵士に雇ったとあるし、また井出家の「長政様御直筆書之御書」にある「天守之番衆」の名前が中津時代に当てはまること、如水の後の中津城主細川忠興(在籍は1600年~1632年)が中津城天守を小笠原忠真に贈るとした約定のこと、そして忠興が家老に当てた書状に「天守乃台ヲモ惣地形ホドニ取オロシ、、、」また、四日市村年代記に「(元和6年)9月中津城普請成就、上壇書院、数奇屋等出来、天守も修復相調、、」とあることからもはや疑うことなく天守閣はあったとの結論に到った。1627年(寛永4年)幕府の隠目付が描いた諸国探索書や貝原益軒の豊国紀行には「天守なし」と記述されてそれが今までの定説になっていましたが如水が中津城を築いたのが1587年(天正15年)。隠目付は1627年、そして貝原益軒が中津に来たのが107年後の1694年(元禄7年)ですのでその間に天守閣は取り壊されたとみるのが真実のようです。徳川幕府が一国一城令と武家諸法度を出したのが1615年(元和元年)その後各地の大名は徳川幕府に恭順を示す意味で城の天守閣を取り壊したようです(福島正則は勝手に石垣を補修したということで武家諸法度に触れたと安芸広島49万石から川中島4万石へと改易された)。中津城も中尾氏や先生の調査の結果1620年くらいまでは天守閣はあったとの結論でした。司馬遼太郎も貝原益軒の説を信じていましたが今この事実を知ったらまた違った「街道を行く・中津宇佐のみち」になっていたと思われます。
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