新年明けましておめでとうございます。
本年が皆様にとって幸せな年となりますように
ご祈念申し上げます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
文録・慶長の役で最も活躍した
武将が紹介されています。
黒田官兵衛、長政、
そして加藤清正です。
黒田軍、加藤軍は朝鮮の奥深く迄
進軍し、大活躍しました。
この時に勇猛果敢な働きをした
黒田軍の侍大将がその名も
黒田二十四騎として
今に伝えられています。
秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役では
快進撃を続けていた日本軍も秀吉の逝去により、
1598年(慶長2年)加藤清正縄張りの
倭城である蔚山城は
明・朝鮮連合軍に一時苦戦し籠城したが、
黒田長政軍などの援軍が到着しこれを撃破した。
肥前名護屋城には文禄慶長役の詳細が記念館をはじめ、
城内のあちらこちらに詳しく表示版などで紹介されています。
この歴史探訪の道の版にも当時の様子が見て取れます。
ひとりの絶対権力者である太閤秀吉の力は想像がつきかねるほど
強大なものであったのです。
肥前名護屋城には当時180余の武将が居館を構えていました。
現在分っているのは150余と言われていますが、
秀吉の威光に従順にならざるを得なかった全国の武将の様子が
よくわかります。
肥前名護屋城博物館には秀吉の掛軸がありました。
堂々として時の天下人の威風が感じられます。
文禄・慶長の役の詳細がびっしり詰まり、
資料や構成もしっかり展示され素晴らしい博物館です。
文禄の役で海を渡った日本軍の船です。
この船で大勢の兵どもが勇躍して朝鮮に渡り奮闘しました。
多くの大名たちは秀吉の無謀な戦と知りつつも
従わざるを得なかったのです。
1592年秀吉の朝鮮出兵による
文禄の役の構図です。
秀吉の命により多くの日本軍が海を渡り、
朝鮮各地へ進軍して征きました。
黒田軍も居城の中津城から
長政をはじめ五千余の軍勢をもって
出兵し、各地で勇猛な活躍をしました。
その時の虎退治や大活躍した侍大将が
後に神格化された黒田二十四騎です。
文禄慶長役時代の肥前名護屋城の鳥観図です。
日本の城郭の中で大坂城に次いで二番目に広大な城郭でした。
黒田官兵衛が渾身の縄張りです。
肥前名護屋城の立体図です。
壮大な城跡は黒田官兵衛渾身の縄張りでした。
黒田軍をはじめ日本軍はこの地から遥々、朝鮮の国へと海を渡って行きました。