実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

中央台の風  実戦教師塾通信二百三十八号

2012-12-22 15:46:44 | 福島からの報告
 今まで、そしてこれから



 引っ越しても、もらいに来ようかな


 真っ青な空が、中央台の仮設住宅の上を覆っていた。すぐそばの小学校からは、期末の短縮日課なのだろう、子どもたちが吐き出されて来ていた。午後は過ぎていたから、給食はきっとまだ続いている。でも、手には普段学校に置いてありそうな道具や作品類。学校がもうすぐ終わる。まあ、これが投稿されるころは、学校は晴れて冬休みである。
 と、こう書いてきて、自分はまだまだ学校生活に愛着を感じているのだな、と実感した次第である。学校にも春夏秋冬がある。季節は移ろい、子どもも移る。繰り返しのなかでのささやかな変化。その中で喜び、怒り、悲しみ、愛する。それがいいものだと、思える瞬間。それが「学期末」だ。そうありたいものだ。子どもたちに長期の休みで一番好きなのは、と聞くと、それは「冬休み」だと答える、ということは前も報告した。切ない気持ちも温かいイルミネーションは優しく包んでくれる。また『飛ぶ教室』を思い出してしまう。
       
(いわき駅前「富岡町・夜ノ森の桜」を模したイルミネーション。南相馬ではなかった)

 高台でだだっぴろい仮設の敷地には、強い北風が吹いていた。来年への不安をいっぱいにはらませながら、でも、集会所に集う人たちは、気丈に今日も笑っている。
 この日は確か「お風呂の日」だった。いないはずのみなさんが顔を揃えている。今日はどうしたのですか、と私が聞くと、
「いつもの『カンポ』が、都合で変わってね」
と言う。市バスが市内の仮設を回って、皆さんを拾って集めてお風呂に到着する。市内三箇所ほどの保養地を循環するという。これが今度の三月で終了する。
「続けて欲しいんですけどって言ってるんだよ」
そう常連さんが言った。
 それで別な方は、
「このお味噌や醤油も、いつまでやってくれるの?」
と私に差し向ける。私は、この仮設住宅がなくなる再来年の春までは続けると思います、と答える。
「じゃ、私、引っ越したあとももらいに来ようかな」
と言ったのは、サブリーダーさんである。彼女の家は、来年「桜の咲く頃」に完成する。彼女は復興住宅への道を拒んだ。この中央台に出来る小さなその家は、ここから歩いてものの五分のところだという。是非そうしてください、と言った私は、彼女たちが必要としているものを聞くんだったと後で思った。味噌一個、醤油一本を求めて、わざわざ彼女たちが引っ越し先から来るのではない。それを聞こうとして、いつも逃す。あと一年ある。その間に訪れるであろうチャンスをつかんで、私は聞こうと思う。その先に支援の明日がある。


 四倉の仮設、行かない方がいいよ

 もうすっかり私の顔も覚えていただけているようで、味噌を配って回る家々の方が、いつもすみませんと、私の顔を見て言ってくれる。この方ですよ、いつも味噌と醤油を、と一緒に回った班長さんが言ってくれるのも有り難かった。私ひとりでなく、おそらくは百人ぐらいの方が関わってくれているこの支援だ。協力者のみんなにも、この瞬間をうまく伝えられたらと、いつも思う。
 「どうぞよいお年を」と、もっと言いたかった。言う予定だったが、言えないものだ。やっぱり言えないものだ。
        
 終わってみなさんといつも通りおしゃべり。この二年間を総括するような流れとなった。
 会長さんが私に、琴寄さんは四倉の仮設住宅の支援に行っているのか、と言う。中央台の規模に比べると、かなり小さい仮設住宅が四倉にある、というのを私も聞いていた。あそこに行くのはやめた方がいいよ、と会長さんが言う。
 ここの中央台の仮設住宅を十戸ほどの住民が引っ越した。もともと四倉で被災した人たちなので、四倉の仮設に空きがあればそこに出たいということで、移転したのだ。だから、その事務手続きなどを工面した会長さんも関わりがあった。その後のことが朝日新聞(地方版)に大きく報道された。
 ことの発端は、四倉でもともとご近所だった大工さんが、戻ってきた人たちのために、住居内に棚を作ったことにあった。音を聞きつけたか、もとからその仮設住宅にいた人たちが、
「家にもやってくれ」「どうしてこの人たちのしかやらないんだ」
と、抗議したのだ。この仮設住宅の「元からの住民」というのが、広野町を中心とした人たちだった。この仮設住宅の名称は「広野町仮設住宅」というものだった。ちなみに、中央台の仮設は「いわき市仮設住宅」である。四倉に居を構えた広野の人たちは、
「ここは広野の場所だ」
と言った。四倉の人たちは黙っていない。
「一体どっちが元からの住民だと思ってるんだ」
そして、
「こっちはどこからも金をもらえる人間じゃねえ。オマエらは東電からしこたまもらってるじゃねえか。棚ぐらい自分の金で作れ」
と、担架を切って大騒ぎになったという。
じつは、この四倉の仮設住宅に移るにあたって、この仮設はいわきの人間の住む場所ではないので、このことは内緒に願います、という市長のことづてまで、興奮のあまり叫んでしまった。そんなことまで新聞には掲載されていた、という。
 ここからが市長の悪口である。何度か書いたが、市長が「ここ(中央台)には一度も来たことがない」という話だ。ついでに言うが、被災者が避難所暮らしを強いられていたその時点でも、市長が動かなかったことを思い起こしたい。
 去年の秋、中央台の仮設住居住民のためと言ってもいいような、「中央台郵便局」が開設された。そのオープンセレモニーに、市長は黒塗りの公用車を二台引き連れてやってきた。車はこの仮設の駐車場に停めた。集会所からも、目の前の郵便局でセレモニー・テープカットの様子が手にとるように見えた。さて、セレモニーを終えたあと、一度も顔を出したことのない市長が、今日こそはここに顔を出すだろうかと、みんな手ぐすね引いて待っていた話だ。どんな顔して車に戻り、いってしまったのか、そこは聞けなかった。
 悔しい話は続く。高齢で身体がままならない人たちが多い、この中央台の仮設だ。ちょうど側溝の工事をしている時、県の職員が来たので、
「この段差では車椅子が使えない」
とお願いをしたそうだ。県の職員は、この話が合理性を伴っている話かどうかという、役人顔丸出しで聞いた。たまらず、側溝の工事をしている現場の人たちが、もうしわけありません、と謝ったという。違うんだ、あんたたちが悪いんじゃない、悪いのはこの職員どもだと言ったという話に私は胸打たれた。

 みなさんよいお年を、来年もよろしくお願いします、と私は深々と頭を下げた。みなさんが腰をあげて、お気をつけて、と言ってくれる。


 ☆☆
この20日に、双葉の井戸川町長が議会で不信任決議されたことを知っていますね。全会一致(といっても町議全員で8名)です。この決議に、第一仮設集会所のみなさん、激怒しておりました。「住民無視の説明会欠席」「議会への相談もない」などといった不信任の理由が、まったくの言いがかりであることくらい、ニュース(全国ニュースで可能)を注目していた人なら分かります。
「新しく立候補するやつが、なにをできるというのか」
というみなさんの言う通りだと思いました。

 ☆☆
岩手・北上の敬愛する先輩から、林檎「ふじ」が届きました。「放射能の騒ぎ方が間違っている」とする先輩は、それでも「幼児には皮をむいてたべさせるといい」と書き添えてありました。この先輩から「『東電脱退』のことはどうなりましたか」と言われると、胸にガツンと来ますね。この場でみなさんにも言い訳をします。細々とやっております。いつか報告できると思います。

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1 コメント

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忘れてはならないもの (リーガルハイ)
2013-07-25 11:23:12
如来寿量品第十六
渇迎の心を生ず。衆生すでに信伏し。質直にして意柔軟に。一心に仏を見てまてまつらんと欲して。
自ら身命を惜しまず。時にわれおよび衆僧。
ともに霊鷲山にいず。われ時に衆生にかたる。
常にここにあって滅せず。方便力をもってのゆえに。滅不滅ありと現ず。
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