チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 480

2022年03月16日 09時55分11秒 | 日記
春ですねえ
春分まじか(3月21日)
重い衣服を脱ぎ去って軽やかに歩きたい

私達の先祖はこの季節に「羽織」という羽織るものを考案した
本来は男の衣服で陣羽織とか今でいうスーツのお対やジャケットのようなものだった

男が着流しでいるのは室内で、表に出るときは羽織、または道行、更には道中着という上着がある
着流しで外を出歩くのは階級が低く、羽織は「拝領の羽織」というのもあったくらいだ
男が羽織を着られるというのはかなり社会的に見とめられた男であった
外に出ることが少ない女たちにとって、羽織るものの出現はかなり時代が下がってからだ
羽織は年配者の女性が着るものだったし、道行に至っては襟元を柔らかく変えて,被布という名前にし、幼子や上流社会の老女の物だった

羽織が女たちに一気に流行ったのは、しかも黒羽織だが
「辰巳芸者は羽織が似合う」
という言葉があるように、浅草上野あたりの遊郭では、周辺地の飢饉のあおり受け、少女たちが家族の食い扶持のために売られてきた。女が増えると幕府への献納金も増えるので、雇い主たちは年増芸者に黒羽織を着せて、「彼らは女ではありません」と表現をしたという

男の着る黒羽織を女に着せて
「女の数に入らない」
という申し立て、それをわかっていて黙って認める粋さ、今の日本にもほしい

年増芸者の黒羽織がカッコよくて、一般の女たちも真似して女黒羽織は市民権を得た。しかも羽織は訪問先でも脱がなくてもいいという決まりもあり、ちょっとのお出かけには手放せなくなった

そのうち明治に入ると黒羽織は正装の仲間入り、家紋を入れ学校行事には欠かせないものとなった
鏑木清方の「明石町」という絵画では、黒羽織を着た美しい女性の姿が描かれているが、女性たちの憧れの姿だったのだったのだと思う

美しい羽織姿が増えると町もたおやかになる

今日の「チャコちゃんねる」でもこういう話をいたします 20時から


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