千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ヤバい経済学」スティーヴン・D・レヴィット著

2006-07-19 23:53:07 | Book
「ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する 」

原題は、”Freakonomics”であるが、さていったい何がヤバいのか。私の辞書には、”ヤバい”と”悪ガキ”という単語は見当たらないのだが、読みすすむうちにその語感をじわじわと納得していく。必ずしもウケねらいというわけではなさそうだ。

ひとつヤバい話をしてしまうが、村上世彰氏の運のツキは「阪神タイガースの上場」を言及したことで陥落したと言われる。
「大阪人であれば、縦縞のハッピの売人が裏世界の住人であることは知っている。あんなものを透明化して上場するとなれば、大量の血が流れる」そうだ。・・・知らなかった。最近、仕事の改編により関西人とのやりとりの増えた私としては、関西というのもなかなか奥の深いものだと感心するではないか。

ところで国内では、可愛いタイガースのマスコットを売る売人に近い”業種”と思われる米国における裏世界の方達は、何故ママといつまでも団地に住んでいるのか。世にある通念に疑問を打ち立てて、本書は綿密なデーターを元にその不思議なこと、謎を経済学的に理論展開している。ちなみに、この場合の米国の該当者は、「映画にときどき出てくる、どうやって角を曲がるんだと思うような長いリムジンに山ほどきれいなお姉ちゃんを詰め込んで車から降りてくる、白い毛皮のコートを羽織った男」(←訳者のあとがきから引用)、それがアメリカ人のいう売人である。しかし、彼らはまるでファーストフードのフランチャイズのように組織化されたツールの配下にある傭兵員なのだった。それでも彼らは、才覚と運に恵まれなければうかばれないだろう、いつかは幹部にのしあがるという”夢”をもって、ママと団地に暮らして日々しのいでいる方達なのである。このように人間はインセンティブで働くということを前提に、アメリカの40歳未満の優れた経済学者に贈られる、ジョン・ベイツ・クラーク・メダルを受賞しているスティーブン・D・レヴィット悪ガキ教授は、世の中のあらゆるものの裏側を検討している。

この若き精鋭経済学者の興味の対象は、国境を越えてはるか遠い我が国の神聖なる国技、相撲の星取りにまで及ぶ。
「相撲が神国第一級のスポーツであるならば、八百長で負けるなんて相撲ではありえない。そうでしょう?」
レヴィット教授のこの疑問は、素朴だ。が、おおかたの日本人ならば、相撲におけるインセンティブの仕組みが複雑怪奇で強固なのは知っている。著書で1989年から2001年までの間に開かれた、上位力士によるほとんどすべての取組みの結果であり、力士281人による3万2千番の勝敗のデーターの解析結果を改めて知らされても、「やっぱり」と感想を述べるしかないのだが。(教授は「週刊ポスト」に論文を送ったが、返事はなかったそうだ。もしかしたら日本人にとっては、”常識”だったのかもしれないと思い至っている。(ピンポーン、正解♪)

その他、出会い系サイトの自己紹介はウソ?黒人と白人の成績格差と「白い振る舞い」、 73年1月22日「ロー対ウェイド」裁判と犯罪減少の相関関係、など教授の素朴な疑問の追跡はやまない。ヤバい経済学というよりも、私は人間の行動を科学する社会学のカテゴリーに入るのだと思うのだが、学会では社会学者が引きつった顔をするそうだ。大学教授の会話を聞き取り、スティーブン・J・タブナーが文書化して編集という共著というカタチで世におくり出した本著は、米国では半年で100万部のベストセラーになった。なにもアカデミックでなければまともな経済学書ではないという狭い考えはないが、生物の知識で男女の違いを語るような浅さを感じる。このたぐいのポップ・カルチャーもどき本がそんなに売れちゃうのも、いかにもアメリカらしい。データーを駆使しているようで、中身は非科学的な印象。それでも書評で好意的に扱われるのは、米国で話題の本ということと、著者のユニークな視点は、発想のパラダイムを養える。
「道徳が私たちの望む世の中のあり方を映しているとすると、経済学が映しているのは世の中の実際のあり方だ」
確かに、インセンティブのままに経済活動がすすめば、そこに映るのは世の中の実像だろう。

「かかってこいよ」

2006-07-18 23:08:04 | Gackt
今週発売の「週刊現代」に、またもGacktさんを中傷する記事が掲載される。
静観するのが賢明だとは思っているが、全く無視するのも都合が悪いことは黙秘しているようでカタハラ痛し。要するに「週刊現代」は、Gacktさんが所属する事務所の実質上の出資者(謄本上では、役員になっていないが)であり、バンドを脱退時に相談にのってくれた人物が、ある格闘技を主催する団体のオーナーでもあり、ここからが重要なのだが、その人物は広域指定○○団と通常くくられるさる経済?団体の幹部だというのが、記事の要約である。

J・K・ガルブレイスは著書に
「私たちは真理を自分の都合のよいことと結びつける」
と書いているのだが、真理どころか、”憶測”と”邪推”を売上に貢献するよう都合よく、尚且つあさましく記事にするのが通俗的な週刊誌のあり方だ。その一方でGackt氏にも、一笑にふせるだけのあかるいキャラがないから、読者はこんな記事ひとつでだまされやすい。要注意。

「ケンカ上等だからですか」

これが日記(非公開なのでひと言だけ)での、記事掲載に対するGackt氏の疑問(反論)である。久しぶりに”ケンカ上等”という言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。
光もののスーツとサングラス、確かに夜の蝶のような外見からいかにも妖しい雰囲気を漂わせているが、意外にも?彼はケンカは大好きである。しかも、強い。デビューする前は、”ストリート・ファイターだった”と自認している。最近は、自宅の室内でトランポリンに凝っているが(彼の留守中に、禁じられていたのにも関わらずスタッフのひとりがトランポリンで飛んで首を骨折)、防具をつけての格闘技は、日々鍛錬に余念はない。通称”股裂き機”でしなやかにした前脚の回転度は180度を超す。毎朝のストレッチは、ほぼ2時間欠かすことはない。引越し前の自宅のグランドピアノのそばには、何故か天井からボクシングの道具がぶらさがっていた。
しかも、負けず嫌い。

「日本人は侍魂で、やるかやられるかの世界で生きてきた。対峙した時に、生きぬくことが大切。そのために訓練する。」
上記は、Gackt氏が肉体と精神を鍛える理由だが、いよいよ訓練の成果を発揮する日がきたのであろうか。何しろ彼は、やる気まんまんだ。

「そろそろ暴れまーーーーーす」と。。。

『Jの悲劇』

2006-07-16 22:28:23 | Movie
オックスフォード郊外の初夏。雲ひとつない真っ青な空の下に、なだらかな緑の丘が続く。
作家で理系の大学教授のジョー(ダニエル・クレイグ)は、長年の恋人、新進気鋭の彫刻家のクレア(サマンサ・モートン)とピクニックを楽しんでいる。リュックの中からとりだした高級なシャンパンを彼女のためにあけようとするジョー。今日は、ふたりにとって特別な日になる予定だった。そのために用意したシャンパンだった。まさにその祝福の時、空をおおうように真紅の気球が落下してきた。急いで救助に向かうためにジョーとクレアは、少年を乗せた気球に向かう。ジョー、少年の祖父、そして駆けつけたふたりの男性と気球を押さえつけたところで、一陣の突風に煽られ真紅の気球はロープをつかんだ4人の男性をひきずりながら、再び舞い上がっていく。
その後、思わぬ事故を目撃することになる彼ら。

やがてジョーは、その時の記憶と慙愧に悩まされるようになる。友人たちの食事会で、涙を見せながら痛ましい気持ちを告白するのだが、益々事故の記憶にとりつかれていくようになる。クレアや友人たちの慰めや励ましの言葉も、なんの効果もなかった。けれども、本当の悲劇は、一緒にロープをつかんで救助に向かった男、ジェッド(リス・エヴァンス)の訪問から始まった。一見優男に見えるジェッドの表情と姿に見たのは、不吉な赤い気球の影だけではなかった。ジェッドの存在は、ジョーのクレアとの私生活、大学での講義、こころの中にまで侵蝕しはじめていく。ゆるやかに、そして過激に。

(この先かなり内容にふみこんでいます)

ストーカーの定義は、「特定の個人に異常なほど関心を持ち、その人の意思に反してまで跡を追い続ける者」(広辞苑)
この映画の着目点は、何よりもストーカー犯罪者のおぞましさである。その行為の気持ち悪さはもとより、自分をたとえどんなに拒絶しても相手も恋愛感情を抱いているという思い込みの激しさと、ふたりの恋愛がうまくいかない原因はすべて排除するという発想への恐怖である。ジェッドのような暴力に発展する可能性のある恋愛妄想病を”クレナンボー症候群”というそうだ。ここでのジェッド役のリス・エヴァンスの演技力が群をぬく。冒頭の事故を目撃した後、気弱な微笑を浮かべて「神に祈りを捧げよう」とジョーに声をかけるところから”いかれた野郎”のぞっとする雰囲気をそこはかとなくただよわせ、彼を公園で待つずりおちたGパンの背中を落とした後姿だけでアブノーマルな男の不気味さを見事に表現している。

そしてもうひとつ忘れてはならないのが、物語のテーマである愛だ。
ジョーは、大学生相手に自信をもって恋愛論を講義する。
「恋愛とは、生殖への性行為に向かうための動機である」こうした思想をもつジョーとの結婚、彼とのこどもをいつか産みたいと願うクレアにとっては、長い交際にそろそろ”けじめ”をつけたいとひそかに考えている。彼女は、ジョーからの求婚を待っているのだ。しかし、ジョーはこの講義からわかうように恋愛や結婚に対して懐疑的だ。
一方、ジェッドはそんなジョー”教授”の「愛なんて幻想だ。恋愛は生物学的な問題でしかない。科学だ。」という講義(私もそう考えがちなタイプなのだが・・)と正反対の恋愛感をもち、それに従う。一途な愛という妄想に過ぎないにしても、彼のなかでは愛は現実的でなによりも確かなものである。
映画「プリティ・ウーマン」でリチャード・ギヤ演じるM&Aをてがける優秀な企業買収家が、街娼と結婚しようと決意するのは、たとえばオペラ「椿姫」に涙を流すまっすぐで正直な彼女に現実的で手ごたえのある愛を見つけるからだ。だから彼は、合理的な市場主義の虚業とは別の、ただ船をつくりたいという老人に彼女と同様に敬意を捧げるのだ。

映画の冒頭の空の青、草原の緑と不吉な予感をもたらす赤の色の鮮やかな対比が、出色である。恋人たちが住むアパートの彼ららしい機能的でハイセンスなインテリアと、クレアの工房、大学内の様子も映像は見どころがある。それに比較して、事故にあった男性の壊れた体とジェッドの荒廃した暗く陰気な室内。ここで監督は、死のもたらす残酷さとジョーのトラウマを説明し、ジェッドの危うい精神構造を紹介している。
原作は、ブッカー賞作家イアン・マキューアンの「愛の続き(ENDURING LOVE)」
この小説に魅了された監督ロジャー・ミッチェルは、
「ある者は永続的な愛を抱き、ある者は愛の対象であり、ある者は愛による犠牲者である、というシチュエーションをズバリと言い当てたタイトル。人はどうすれば永続的に愛されるものなのか?それこそ僕自身がとても興味がある問いかけであったし、その答えを見つけるために僕は何度も原作を読み返した」と語る。

この監督の問いかけは、最後のエンドロールまで観客に投げかける。本当の恐怖は、映画が終わってから始まる。

映画「シルミド」モデルの事件、韓国政府の責任認める

2006-07-14 23:38:55 | Nonsense
【ソウル=中村勇一郎】韓国国防省の「過去史真相究明委員会」は13日、映画「シルミド」の題材になった実尾島事件(1971年)の最終調査結果を発表、金日成主席の暗殺を任務とした特殊部隊内で違法な処刑や過酷な訓練が行われていたことを認め、隊員の遺族に死亡経緯などを公式通知するよう求めた。
調査結果によると、部隊は北朝鮮ゲリラが当時の朴正煕大統領の殺害を図った「青瓦台襲撃事件」(68年)の報復として、朴大統領が創設を指示。中央情報部(現・国家情報院)が民間人から隊員を募集し、実尾島で特殊訓練を施した。

隊員のうち6人が脱走を図って処刑されるなどし、1人が過酷な訓練で死亡。残りの隊員は71年8月、同島を脱出してソウルに向かったが、軍や警察と銃撃戦になり、民間人を含む57人が死亡した。政府は反乱と発表、生存者は処刑された。(06/7/14読売新聞)

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1971年8月のことだった。韓国のインチョンからソウルに向かうバスが、謎の武装集団に乗っ取られた。軍と警察は、彼らを武力で制圧。銃激戦で彼らの20名が死亡。生き残った4名も全員処刑された。この事件を当初韓国政府は、北朝鮮ゲリラによるソウル突撃と発表。しかし、その後韓国軍のある部隊の暴動と訂正して事件は謎に包まれていた。

事件を遡ること3年前の68年1月、北朝鮮の特殊部隊がソウルの大統領府に潜入。警官隊の銃撃戦が起こった。時の韓国政府は死刑囚を含む凶悪犯からなる特殊工作隊を結成し、ひそかに実尾島(シルミド)で過酷な軍事訓練を行う。闇世界で働くヤクザのインチャン(ソル・ギョング)は、抗争に巻き込まれて事件を起こし、死刑を宣告されていた。ところが、空軍のチェ・ジェヒョン准尉((アン・ソンギ)から死刑を逃れるための取引をもちかけられる。それがシルミドで結成される第684部隊への参加であった。

インチャンと似たような事情の凶悪犯たち31名を乗せた船は、シルミドに到着する。

彼らに下された唯一の命令は、なんと「北に潜入して、金日成の首を取ること」だった。

ところがその離島で待っていたのは、訓練を超えた過酷なしごきだった。それでも彼らは、「任務を果たせば犯罪者から英雄になって故郷へ帰れる」という教官の言葉を信じ、過酷なしごきに耐えていた。まもなく、そのしごきに耐えられず7名の人間が亡くなっていった。こうした状況の中で、世間から離れた彼らは奇妙な連帯感で結ばれていく。

やがて政治の流れが変わり、政府の方針も路線変更されると、暗殺計画も中止された。すると国家にとって秘密の暗殺部隊684は邪魔で面倒な存在になっていく。そのため、部隊ごと抹殺することを決断し、彼らを育てた軍の上官に彼らの”始末”を命令したのだったが。。。

この映画での観どころは、二点ある。囚人たちを訓練という名のもとにしごく軍部と、684部隊員たちは立場という関係性では対立している。ところが、軍人も部隊員たちも離島の”閉鎖された世界”につながれた囚人という意味では、全く同じ立場に位置する。毎日朝から晩まで、離島で非現実的であまり効果もないと思われる訓練だけをくりかえし行っていくと、まるでそこだけ時がとまったかのような閉鎖社会がどんどん圧縮されていく。その姿は、滑稽で哀れである。そんななかでストックホルム症候群のように、部隊のリーダー格として頭角を現すインチャンとチェ・ジェヒョン准尉は、言葉にださないながらもお互いを認めあっていく。この部分は、女性の入り込めない、そしてちょいワルオヤジという連中にも参加できない男の世界だ。そして国の軍の幹部として徹頭徹尾、誇り高く上からの命令を忠実にこなしてきた”優秀な”軍人として准尉が最後にとった行動の滅びの美は、インチャンが統率していく第684部隊の凄絶な行動にも合致していく。結局、彼らの末路はどちらの立場であったとしても国の政治がもたらした運命にさからえなかった、といくあまりにも虚しいことだ。ここでの東洋的な悲しみは、欧米人には理解しにくいだろう。

そして何よりもこの映画が国籍を超えて日本人の感情に届くのは、国家のあまりにも残酷なしうちだ。国のため、祖国統一のため、そんな言葉と家族のために過酷なしごきに耐えてきた人々を、外交政策転換のため重い犯罪者とはいえ国民の命を簡単にひねりつぶしてリセットしようという行為。もっともお隣のお国の事情とばかりも言ってられない。ニッポンのカイシャでも、散々働かせて、いざ用済みになったらリストラ、ということもあるだろう。

この映画「シルミド」を観た時はなかば半信半疑だったのだが、このようにほぼ事実であることがあかるみでて、映画の存在が再び脚光をあびるであろう。

オーラソーマリーディングに聞いてみる

2006-07-12 23:08:38 | Nonsense
「誰もが十字架を背負っている」ブログのblueさまのところで、見つけました。

オーラソーマリーディング

「2色に分かれた美しい104本のカラーボトルから、気になったボトルを4本選び、選んだカラーの組み合わせから、魂の使命、精神状態、未来などをリーディングしていく「オーラソーマ」。ふだんは対面鑑定で行うものを、WEBで大公開!画面上のカラーボトルを選ぶことでリーディングされます。 」  

占いは、全く信じないが、試してみたら・・・。(この項続く)

「ウェブ進化論」梅田望夫著

2006-07-11 23:12:49 | Book
思えば10年ほど前からインターネットにはなじんでいた。いずれ米国のように水道代並に安価な利用料で24時間使いたい放題になるとは予測していたが、当初の高かったプロバイダー契約料も、あっというまに定額料金のチープ革命の恩恵にあずかる。やがて検索エンジンを利用するようになり、PCに向かう度にGoogleのお世話になる。そして忙しい現代人にも関わらず、ブログを開設して1年半。著者のいう
総表現社会=チープ革命×検索エンジン×自動秩序形成システム
のバスにいつのまにか乗っているではないか。
「週刊ダイヤモンド」(4/1号)にコラムリスト林操氏の「ベストセラー通りすがり」で、本書の書評が掲載された時は、都心の大手書店では品切れ状態だったという。売れる理由として、林氏は”ネットだITだ革命だ進化だに乗り遅れたくないオジサンオバサン、これから身を投じたいワコウド、どっちも飛びついているのでしょう。未来行きバスの片道切符”と述べている。オバサンでも、ワコウドでもないっ、と自負したいが、ずっと乗っている未来行きのバスの行き先をよくわかってなかったし、考える気もなかった。周りの景色がぼんやりとして明確に見えてこない、漠然たる疑問はあったのだが。ここ数年のITの急激な進化がもたらしたそれらの疑問が本書を読むことによって、鮮明に見えてきた。そこにあるのは、ネットがもたらす世界が変わるほどの可能性に満ちた新しい時代の到来だった。

先日、マイクロソフト社の世界一のお金持であるビル・ゲイツの早い引退と寄付金が巷間話題になったけれど、抱き合わせ販売という”愛のない”方法で独占禁止法にひっかかる商売もとっくに曲がり角にきている。梅田氏が述べるように、ITの成熟によってマイクロソフトがネット上の「こちら側」としたら、主流はグーグルの「あちら側」に移転していた。(つまり、引退するにはちょうどよい潮時まもしれない。)なにしろマイクロソフトは、王国をつくるようにITの社会主義か立憲君主国家だと感じていたが、グーグルはITの民主主義をめざすという、壮大な夢の実現に向かっている。そこにグーグルの新しさがある。
2004年グーグル株式公開に際し、未来の株主に宛てた創業者からの手紙の冒頭に「インターネットの意志」に従えば「世界はより良い場所になる」とあるようにこころから信じ、経済的格差是正への自らの貢献可能性に言及している。ちなみに1兆円でマクロソフト買収の噂のあったグーグルの時価総額は、今や3兆円。
前半は、「あちら側」と「こちら側」の相違から、今おこりつつあるweb2.0への発展性を解析している。

そして後半は、閉鎖的空間からweb2.0への開放性がもたらすブログと総表現社会への可能性を提示している。ブロガーである私としても、もっとも実感する部分である。梅田望夫氏自身も「㈱はてな」の社長、近藤淳也さんの優秀な人材というだけでない、不思議な人間的魅力を伴う器の大きさと動物的な強さを感じ、新しい自分を構築するための選択として、05年かたこの会社の取締役になっている。ブログこそが究極の理想に近い「知的生産道具」と賞賛する梅田さんほどの熱さはないにせよ、パソコンの向こう側の無限性におののきや不安の中に、確かに感動もある。
またロングテールの一点として、アマゾンでレアなCDを購入する喜びを積分すると恐竜の頭を凌駕するというのも然り。

「あちら側」で働く人々にとっては、当り前なことを書いている本書が売れることに関心は低いだろう。
周囲に「ウェブ進化論」をすすめても、反応はわかれる。携帯電話を手離せなくても、ネットユーザーでない者にとっては、所詮バスに乗っていないのだからその行き先は無関心。だが、日常的に勉強、仕事、ブログなどでユーザーになっている者は、本書に興味をもっていて、読もうとしている。
世の中に関心が低くても、それはそれで生活に不自由はしない。本当の大変化など、おこってみてから知ればよいのかもしれない。今必要な美容や、癒し系本の方が重要ということもあるだろう。
でも、「ウェブ進化論」は、起こりうる”悪”の可能性の示唆に論調をあわせることよりも、可能性の扉を一緒に開くことの楽天主義的なおもしろさと楽しさを教えてくれる。
なによりも読物としてこどもの驚きに近いおもしろさをひろげてくれて、お薦めの1冊。オジサンオバサン、ワコウドだけでなくネットユーザーの長老も是非、本書を手にとってご一読あれ。

副題:本当の大変化はこれから始まる

現代のカサノバ?

2006-07-10 23:50:41 | Nonsense
告白「私はGacktの性の生け贄でした」 -週刊現代7/22号

あまりにもくだらないので、黙殺(←恐い言葉ですね)しようと思ったけれど、Gackt大好きをブログのコンセプトにもしているので、やはりここは触れておこう。

「週刊現代」(講談社)の主張としては、上杉謙信は生真面目で生涯独身だった!ということで、現代のカサノバのように艶聞(スキャンダルとはものの言いよう)の絶えないGacktさんが、NHKの大河ドラマで上杉謙信役を演じるというのは如何なものか、というのが第一の主張。
出演者のスキャンダル(?)以上に、諸々の不祥事を抱えている公共放送への批判材料としてGさん起用に関しての周辺噂話を拡大して、坊主憎ければ袈裟まで憎いという印象である。稚拙な技だ。
「どうなる上杉謙信」と週刊現代は訴えているが、別にどうにもならないよ、上杉謙信。
大河ドラマ自体観た事がないが、史実に忠実にドラマを再現すべきであろうが、上杉謙信と同じような私生活の役者が演じる道理はいっさいない。要は、らしさと創造性である。

また携帯電話でやりとりをして、ホテルに呼び出されたファン(名前を絶対に公表しないことを条件に話したという)の存在もうさんくさい。その女性がかりに存在したとしても、未成年ではないし、金銭のやりとりもあったわけでもないし、なにかの約束をしたわけでもない。オトナの単なる遊びに過ぎない。
毎年何故か、夏がくるとGacktさんを話題にする週刊誌。しかも一度も事実に基づいた報道がないっ。
まったく”生贄”などといういかにもチープで下品なコピーも如何なものか。

記事を一読すれば、毎度毎度なんの根拠もない無責任な内容だとわかる。「ウェブ進化論」で梅田望夫氏が、これまでモノを書いて情報を発信してきた”ほんのわずかな”人たちの存在というのは、選ばれた”ほんのわずか”ではなく、むしろ成り行きでそうなった”ほんのわずかな”人たちと述べているが、まさに成り行きまかせの記事の典型。メディアの権威側が発信する情報記事だって、ブログと同様玉石混合だ。講談社という賃金も高い、売上もプライドも大きい老舗の出版社であっても、クズはクズ。

古女房格のファンとすれば、話題にするのも恥かしいっ。

「スワンベーカリー」でひととき

2006-07-09 22:28:58 | Nonsense
映画『フィガロの結婚』は、たっぷり3時間。間に休憩15分をいれて、11時に上映してから幕が降りたのが午後2時半。

午後の遅いランチをとるべく、初めて入ったカフェが「SWAN」。東銀座の昭和通りに面していて道路工事中だったためにうるさく、室内にかすかに流れるモーツァルトの音楽が聞こえないのが残念であるが、初夏を感じさせるオープンカフェの不思議な雰囲気になんだか誘われるように入る。料理や飲み物は、正面のカウンターで注文してお金を払い、番号札をテーブルの上に置いて待つ。妙に居心地がよく、寛げる。店内には、外国人数名のグループ、中年夫婦、赤ちゃんを連れた若夫婦、ひとりで熱心に本を読みながら食事をしている女性、PCで資料を作成しているビジネスマン。銀座の中心から離れているとはいえ、幅広い年齢層で、それぞれが自分流、というところが居心地のよさにつながるのかもしれない。静かだ。

まもなくウエイトレスさんがお水をもってきてくれる。彼女を見て、何故このお店が寛げるのか、その秘密を瞬時に理解した。「SWAN」は、私が以前から探していたパンやが経営するカフェだったのだ。

昨年の今頃、クロネコヤマト宅急便の産みの親である小倉昌男さんが亡くなった。その時の記事でも簡単にふれたが、小倉さんは障碍者が作業所で毎日働いても月給が1万円に満たないという非人間的な低賃金に激怒したのである。これは給与が単に低いというよりも、その金額に含まれる障碍をもつ方への差別意識に怒ったのだと思う。簡単な作業をさせて、一日わずか500円程度の労働への対価。障碍のある方にも、健康な者を同じように充実した人生をおくる権利がある。国から経済的な援助はするが、ただ同然の、労働の成果を期待せずにまるで時間をつぶすかのような扱いを、本当の福祉といえるだろうか。

1990年、米国では「American with Disabilities Act」という法律が設立された。この時の障碍のある人も職を得て働くことによって一人前の消費者になり、税金から補助される生活から納税者になる、「障碍のある人もない人も、共に働き、共に生きていく社会」というノーマライゼーションという概念を実践したのが、小倉氏だった。そして私財をなげうって設立したヤマト福祉事業団がタカキベーカリーの協力をえてオープンしたのが、昨日偶然入った「SWAN」だった。

私が注文したのは、1000円のパスタランチ。(小さなサラダとパン、飲み物つき)
この辺では、平均的な値段とお味である。けれども日々忙しく働き、てきぱきと業務をこなすことによって今の職場の騒ぎをきりぬけている私にとって、逆にウエイトレスさんのゆったりした動作は、なんとも心地よい。お客の幅の広さと健康な者と障碍にある者が共に働くところに、目に見えないひろがりを感じる。帰りにお隣のベーカリーショップにも立ち寄ってパンを買い、銀座のデパートでセール品の買物をした時に、店員さんにパンをまとめて荷物をひとつにして欲しいとお願いしたら、「私もこのお店によく行くんですよー。可愛いお店ですよね。」と声をかけられた。確かに可愛いお店だ。銀座のハイセンスで、ゴージャスで高級なケーキを売っているカフェにくらべたら、素朴でちょっとださめの可愛いらしさがある。でも、きっと彼女のこの”可愛い”には、いろいろな意味があるのだろう。



以下「スワンベーカリー」のサイトより↓(「スワンベーカリーとは」をコピーしました。また上のお店の写真は、他サイトより添付しました。あまり好ましくないのですが、雰囲気をお伝えしたくて。)

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日本の障がい者の数は人口の約5%、約600万人といわれています。この人達の大半は全国に6,000箇所以上ある共同作業所や小規模授産施設で働いていますが、1カ月の給料が1万円以下という低さで自立するには、ほど遠い現状です。

福祉施設の幹部職員に経営のノウハウを伝授しなければ低賃金からの脱却は望めないことを痛感した小倉前理事長は「製品」や「作品」作りではなく、一般の消費者を対象としたマーケットで売れる「製品」創りをめざしたセミナーを1996年から全国各地で開催し、意識改革に取り組んできました。

この過程で月給10万円以上支払うことを実証し、お手本を示す必要から「焼きたてのおいしいパン」店構想に着眼しました。「アンデルセン」「リトルマーメイド」を全国展開しているタカキベーカリーの高木誠一社長という良き理解者、協力者を得て、同社が独自に開発した冷凍パン生地を使えば障がい者でもパンが焼けることが分かり、さっそく実践に移しました。

1998年6月スワンベーカリー銀座店が第1号店としてオープンし現在直営店3店、チェーン店15店が各地に展開しています。働いている障がい者の数は、直営店29名、チェーン店150名です。

スワンベーカリーの命名者は故・小倉理事長で、みにくいアヒルの子と思っていたら実は「白鳥=スワン」だったというデンマークの童話作家アンデルセンの作品がヒントになっています。)


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せっかく買ったパンを食べられてしまったが(怒)、美味しいそうだったのに。。。v
スワンのHP
小倉昌男氏のインタビュー

『フィガロの結婚』

2006-07-08 23:16:21 | Movie
「盲目的な先入観をもつことは  理をはずれて  いつも人の感覚を欺くのね」

アルマヴィーヴァ伯爵は、侍従フィガロとの結婚式をあげた女中スザンナをあきらめきれずに追いかけて、彼女と伯爵夫人の計略にひっかかり、夜の庭の松の木までのこのこやってくる。スザンナとロジーナ伯爵夫人は、彼女を誘惑する伯爵におしおきをするために、お互いの服装を交換して扮装し、彼を呼び出したのだ。伯爵はスザンナの服を着た夫人の手をとり、妻とは気がつかず「何としなやかな指!艶やかな肌!わしは、体中が新しい情熱で一杯になってきた」とちょい悪おやぢのエロさ満開。その愚かな様子を眺めて、スザンナ、伯爵夫人、フィガロが合唱する場面は「フィガロの結婚」のフィナーレに向かう最高潮である。

世紀末、貴族社会が終焉に向かう頃のセビリア。独身だったアルマヴィーヴァ伯爵は、愛するロジーナと結婚するために邪魔な後見人バルトロの排除を元祖町のなんでも屋フィガロに依頼した。フィガロがその依頼案件を見事にやりとげ結婚できると、伯爵は彼を侍従として迎え入れる。そして、当時その地方にあった領主が花婿より先に花嫁と一夜を共にする権利「初夜権」も廃止した。
さて、フィガロのスザンナとの結婚式当日。伯爵は、あれほど恋こがれて嫁にしたロジーナがいるのも関わらず、次々と女中や村娘と夜伽をくりひろげる。口説き文句は「なんでも欲しいものをやるぞ」と言い、金貨を女の胸の谷間に落とすことだ。目下のターゲットはスザンナ。ところが、彼女はフィガロとの結婚準備に余念がない。とうとう廃止していた「初夜権」を復活させようとたくらむ。その権利を行使するために、結婚祝いと称してふたりに上等なベッドをプレゼントするあつかましさだ。

・・・ここから、あのあまりにも有名な胸がわくわくとするような旋律、「フィガロの結婚」序曲が鳴る。弦と管楽器が、まるで男と女が会話を楽しむかのように、お互いにかけあい、溶け合い、いきいきと響く。

この映画『フィガロの結婚』における指揮者、オケ、歌手、そのすべての組合せは、過ぎ去った20世紀音楽界の最高峰とも言える。歌手の演技力ともいえる表情が、実にユーモラスで巧みである。ミレッラ・フレーニはこの時41歳。19歳で出産をすませた充分成熟した女性だが、フィガロに恋する歌う姿は、チャーミングな乙女そのもの。最近引退されたそうだが、労働者階級出身のミレッラ・フレーニがスザンナ役にこれ以上の歌手はいないくらいはまっているが、伯爵夫人のキリ・テ・カナワも負けていない。ニュージーランドのマオリ族の血をひくキリ・テ・カナワは、エキゾチックな美人。スザンナ役のミレッラ・フレーニが庶民のたくましさをのぞかせる”愛嬌のある”容貌であるのと比較して、伯爵夫人役の彼女は、気品に満ちた面立ちで映画のアップの画面にも女優なみに充分耐える。このふたりが、手紙を書きながら歌うソプラノ二重唱は、至宝の歌声である。美しく、素晴らしい。この平凡な言葉以外、見つからない。

またカール・ベーム指揮とウィーンフィルの組合せによるモーツァルトは、今日に至っても、尚その輝きを失わない。
「フィガロの結婚」は、数あるオペラの中でも最高と評価する音楽ファンが多い。「フィガロの結婚」の音楽に関しては、あまりにも内容がつまっているので今回はふれずに、ニコラウス・アーノンクールの次の言葉を紹介するにとどめたい。
「モーツァルトは、自分が今直面していることを作曲しました。ですから、ふだんは共感しない人物にも、彼は常に共感を覚えるのです。彼らは我々の共感を得るのです。」

1976年製作 イギリス映画
作曲 ‥‥ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

監督 ‥‥ ジャン=ピェール・ポネル

指揮 ‥‥ カール・ベーム

演奏 ‥‥ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

歌手 ‥‥ フィガロ / ヘルマン・プライ(バス)

       伯 爵 / ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ(バリトン)

      伯爵夫人 / キリ・テ・カナワ(ソプラノ)

      スザンナ / ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)

     ケルビーノ / マリア・ユーイング(メゾ・ソプラノ)

『カサノバ』

2006-07-07 23:04:45 | Movie
ベッドの上では・・・いや、なにもベッドの上とは限らず、いつでもどこでも・・・であるが、そのテクニシャンぶりはヴェネチアの街中で知らない者はいない超絶技巧の持ち主のマエストロ、その名もジャコモ・カサノバ!!

淑女から娼婦まで、狙った獲物はすべて射止めてきた華麗なるエロ事師の活躍する舞台は、18世紀の宮廷社会。今日も今日とて、カサノバ(ヒース・レジャー)は神に身を捧げた修道女との甘い情事にふける。そこへ彼を逮捕するためにやってきたのが、教会のお役人たち。修道女たちに慌てて別れを告げて、逃げ込んだ先が大学の講堂だった。そこでは、女性の職場が寝室と台所だったこの時代に、才色兼備の男性に扮した女性、フランチェスカ・ブルーニー(シエナ・ミラー)が女性にも大学、学問への門戸を開くように訴えている最中だった。
「女性は、この気球のように男と家事という錘がなければ自由に飛べる」
(惜しい哉、、、彼女が今の日本に生まれていたら、その錘も随分カルクなり自由に翔べたのに)
ところが堂々と論陣をはっている彼女の目の前で、カサノバは逮捕されてしまう。

そして危うく異端審問にかけられて死刑になるところを、彼のベッドのお相手が枢密卿の貢ぎものである修道女だったことから、彼女の”処女”という体面を守るために、ふたりの間にはナニゴトもなかったという整理で無事釈放される。但し、彼の後ろ盾になっているヴェネチア総督にしかるべきところから女性を娶り、結婚するように」と条件をつけられる。
少年時代、母と別れたカサノバにとって、「何故、結婚しなければいけないのか」
その”素朴な疑問”は、当時の権威の象徴であるカソリック教会にとっては、なんたる冒涜であろう。期限は、カーニバルが終わるまで。こうしてカーニバルへの高揚とともに、カサノバの花嫁探しがはじまるのだが。無限の愛よりも、たったひとつの真実の恋を見つけることができるのだろうか。

放蕩のカサノバに従える侍従アンドレア、カサノバを偏執狂的に追いつめる天敵プッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)、美人だが恋よりも学問に没頭するフランチェスカ、没落しつつある貴族の彼女の母、しっかり者の姉に比較してよくあるパターンのノーテンキな弟、いまだ女性経験のない彼が長い間恋こがれる女性やフランチェスカの婚約者まで登場して、さながらシェークスピア劇のように登場人物たちが入り乱れていくコメディ。バックに流れる典雅なバロック音楽が、まるで登場人物たちを励ますかのように小気味よく歌っている。少々アップテンポのチェンバロやヴィオロンの音が、いきのいいロックさながらに転がっていく。この音楽を聴いているだけで、ストレス発散になる。
そしてこの映画には、本物の愛にめざめたひとりのプレイボーイの成長、フェミニズム論、決闘や気球の乗船などの冒険物語。てぎわよく、長身のヒース・レジャーをバロック・ロココ調のヴェネティアの景色の中で存分に動かしたラッセ・ハルストレム監督の手による「カサノバ」は、実におもしろい。最初、カサノバ役にあっさり感のあるヒースは如何なものかと食指が動かなかったが、いかにも女好きそうなルックスに、意外と繊細な表情が浮かぶ彼の起用は大正解。ついでに、金城武によく似ている絶倫坊やと娼婦たちの寵愛を受けるフランチェスカの弟役、チャーリー・コックスは思わぬ収穫だった。内気で気弱だが、男らしく成長する過程に今後の注目株であろう。
中でも、もっとも気に入ったのが、映画全編にみなぎる”権威”に対する反骨精神と馬鹿ばかしさの揶揄である。まるで市役所の課長のようなヴェネチア総督の凡人ぶり、教会内部の淫蕩ぶりや権威にあわせる部下たち、捕まえる相手のカサノバ本人と気づかず彼に逮捕協力依頼をする司教のまぬけぶり。カサノバは、世の中の既成の概念を打ち砕くGacktのような存在だった。これを現代日本の資本主義社会の会社組織にうつしかえてみれば、そのくだらなさには、おおいに笑える。
最後に映画『夜よ、こんにちは』にもふれたい。この映画の中でキリスト教民主党党首アルド・モロ首相を誘拐し、政府と交渉するが自分たちの要求が通らないことに苛立った赤い旅団メンバーたちは、モロ首相に対して「権威のある人に手紙を書け」と要請する。そしてモロ首相は、ローマ法王に手紙を書く。55日後に暗殺されたモロ首相の葬儀に参列した”権威のある人”の虚しさと、頂点にたつ法王の権威に威厳を飾る周囲の人々の所作の滑稽ぶり。
全く作風の異なるふたつの作品は、私の好みのツボを抑えていた。
日比谷にあるベネティア料理を食べにいこっと。