千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「日本資本主義の精神」山本七平著

2006-07-05 00:20:57 | Book
福井俊彦・日本銀行総裁による村上ファンドへの投資問題で、資金の受け皿となった投資事業組合は福井氏専用で、共同出資するオリックスが代表者として業務全般を担っていたことが、朝日新聞の調べで28日分かった。資金を小口にして投資家が分かりにくい形になっており、匿名性を高める狙いがあったとみられる。民主党など野党は、福井氏や宮内義彦オリックス会長の国会への参考人招致を求めており、こうした投資形態の意味や福井氏の従来の説明との整合性などが今後、問われそうだ。(2006/6/29朝日新聞)

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他人がいくら儲けたのか詮索するのは卑しい行為であるし、1000万円の小口だったら投資事業組合で集約するものわからなくもないが、日銀総裁という立場で村上ファンドに資金を拠出していたのは、若い頃から総裁候補の誉れが高かったという福井氏にしてはいかにも思慮がたりない。かって徳川時代に上杉鷹山という明君がいた。故ケネディ大統領が、最も好きな日本人である。彼が後世に残したものは、経営者の倫理だった。彼の発想の基礎にあったのは、公私の峻別である。だから、経団連会長が私財を蓄えないと聞けば、我々日本人はそれに感動して、その人物を信用していた。
山本七平氏が本書で「美しき品格」を持ち、「優秀な知恵」を兼ね備えた日本資本主義の精神を唱えた時代が確かにかってあった。

日本は欧米と並んで、近代国家への歩みとして資本主義を選択した。しかしながら、本来資本主義=契約社会である欧米とは異なる不思議な資本主義社会を構成している。その実態は”仮面をかぶったコミューン”とまで称された。そしてキリスト教精神に基づき、労働を罰と考えバカンスのために働く欧米人は、日本人をワーカーホリックと嘲笑して牽制することもあった。今日となってみれば、終身雇用制もゆらぎ、新入社員の3割が就職して3年以内に転職。今時の若者には定年まで、ひとつの会社で骨を埋める気概はない。(それが一概に悪いことだとも言えないが。)また職場には、非正社員が正社員にとってかわり業務をこなし、人員構成も正社員、派遣社員、パート社員と身分も立場も違う人材が混在するようになっては、企業を一つの家族とした”共同体意識”もうすくなる。
「日本資本主義の精神」には、私にはむしろ滅びつつある日本人の精神が支えた、かっての日本的資本主義の残照を見るようだった。

熱心で緻密な作業をする職人さんや工員さんが、昔はたくさんいた。フーテンの寅さんのお隣、たこ社長の工場にもいただろう。彼らにとっては、仕事は本来の純経済的行為というよりも、一種の精神的充足行為であり、この精神が日本の会社の社内秩序だった。そして日本の会社構造はこの共同体意識に、機能集団があわせ技となった二重構造であるというのが、山本説である。この機能集団が共同体に転化してはじめて機能し、逆に集団が機能すればたちまち共同体に転化することを、旧日本軍の軍隊(機能集団)と内務班(共同体)の関係で証明している。この論点は、全体主義のひと言でくくられた日本的組織と構造への解釈への鋭い切り口であり、読者としてはまさに目からうろこでもある。

また新卒から採用している社員をプロパー社員といい転職者とわける呼称には、日本人の島国根性の純潔主義を感じていたが、著者も日本を”血縁イデオロギーの社会”と分析している。こうした日本社会は、中国からの輸入でもなく、米国の模倣でもなく、実は遠い江戸時代からすでにめざめていたのである。その先駆者である、石田梅岩や鈴木正三のビジネスライフと思想を通して語る著者の声に、今こそ耳を傾けるべきだろう。

大正10年生まれの著者は、太平洋戦争でマニラに上陸。その後捕虜収容所で将校として収容される。戦争中の栄養不足と病に健康を損ない、山本書店を設立。91年に永眠。学者ではない。市井のいち研究者の残した遺産は、その輝きを失せることなく、いぶし銀の重みを増しているように思える。今後の日本のあり方を模索するための手引書ともいえよう。

■本書を物凄く知的エンターティメントと絶賛したペトロニウスさまの書評
  
旧聞で恐縮だが、学生時代に広告研究会に所属して書いた論文が「日本人と広告」という比較日本人論に近い内容のものだった。その時から感じていた、漠たる疑問が氷解したような気もする。

「五嶋龍」ヴァイオリン・リサイタル

2006-07-04 23:12:44 | Classic
音楽家として演奏活動を続けるのは、かなり厳しい道を覚悟する必要がある。「PIANO KLASS」のemiさまも「一流の音楽家、音楽を生業として生きていくのは、東大に入学するよりよっぽど困難」とおっしゃる。然り。にも関わらず、1988年生まれ(もしかして平成生まれ?!)弱冠18歳にして、リサイタルを催す青年。五嶋龍くんである。そして、今もっとも旬で、ヴァイオリニストの中では集客力抜群という注目銘柄である。サントリーホールをはじめとした初めてのジャパン・ツアーのチケットは、おそらくどこの会場でも完売であろう。

このJR東海のCMでお馴染のヴァイオリンを弾けるジャニーズ系少年のような彼には、クラシック音楽分野では珍しいこれまで音楽をあまり聴いたことのない、彼以外の音楽家の演奏は聴かない”おっかけ”なるものまで存在する。ドキュメント番組「五嶋龍のオデッセイ」で確認済みの素直な人間性に伸びやかな容姿と空手2段という文武両道、更に今年9月からハーバード大学入学予定。まるでおかん隊にとっては理想の息子、アネゴチームには自慢の弟のようである。つまり、龍くんのトップセールスの秘訣は、商品の性能や中身の質・美しさというよりも、まわりの飾るパッケージにある。彼のいうところの、アカデミックに聴こうとするためにアーティストのレベルを計るような不遜な都会派としては、やはり一度は彼の演奏を生で聴きたいものである。けれども素直に、決してこころをだますことなく。

所謂”ファン”を意識して、最近の傾向としてあるエンターティメント性をうちだしたプログラム構成かと思いきや、内容は予想外に本格的である。
冒頭のイザイは、音が充分鳴っているとは言えず、不完全燃焼の印象。技術的には堅実であるが、イザイ独特の音の深遠さには欠ける。しかし、彼の年齢を考えると、今後の成長の楽しみにとっておきたい。演奏が終わった直後のお辞儀が、ほっとした表情と難しい位置からバスケットボールのゴールを決めたような得意感が見えるようで、なかなか微笑ましい。そんな幼いといえば、幼いしぐさも好感度アップにつながるところが、彼の空手だけでない武器かもしれないと妙に納得する。

次のシュトラウスとブラームスのソナタは、非凡な才能と1年前のテレビ放映からの成長ぶりを披露してくれた。上手い。楽器も確かに素晴らしいのだが、この年齢にしてソナタをここまで上品に歌う彼に、大器の片鱗というよりも、福井日銀総裁も拠出していた村上ファンド並の上昇株として期待できるではないか。内心おそれていたのだが、シュトラウスの第一楽章終了時に、終わったと感動(勘違い)した観客の拍手喝采。テレビやラジオが録画しているのだけれど。テレビで放映されたことにより、知名度が高い音楽家の演奏会や地方で時々あるあたたかい拍手だ。まあ、私がもっているオイストラフのチャイコフスキーVn協のCDでも第一楽章の後、万雷の拍手が入っているので、こういうのも”あり”だろう。

後半の「悲歌」は、武満徹作品の中でも人気が高い曲である。私も数少ない好きな現代音楽である。龍くんの演奏は、当日の演奏の中でも出色のできだったのではないだろうか。ひと言で言えば、説得力のある演奏だ。ふと、彼が大学で学びたいのが物理だったということを思い出す。

最後を飾る「ツィガーヌ」は、彼の得意の曲という印象。ここで伴奏のピアニストともどもジャケットを脱ぎ、半袖シャツ姿で颯爽と登場。こんな演出?は、非常に効果ありと見た。中ほどのルフト・パウゼがどっきりとするくらい長くて、彼のお茶目な性格が全開する。音楽性とは多少異なるが、彼のこんな初リサイタルとは思えない余裕のある演奏は、ショーマンシップというほどすれていなく、心底演奏を楽しんでいるかのような幸福感がある。予想どおりにフィナーレは、全速力。

アンコールの難曲、ツィゴイネルワイゼンも哀調が足りないかもしれないが、限界まで加速して華やかに終わるところは若者だ。体力は充分。
総じて、楽しい演奏会であった。正調でありながらも、後半の随所に音楽性のきらめきを感じさせる。10年後、20年後に出会うことを楽しみにできるヴァイオリニストはそんなにいない。が、何故か、五嶋龍くんはハーバード大学に進学して、まったく別の分野にすすんでも再会したいヴァイオリニストである。通常の演奏会では見かけない携帯電話で開演前の舞台を写真にとる方も、充分楽しまれたことだろう。

------ 2006/7/3 サントリーホール ------------------------------------------

イザイ:「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番」
リヒャルト・シュトラウス:「ヴァイオリン・ソナタ」
ブラームス:「ヴァイオリン・ソナタ第2番」
武満徹:「悲歌」
ラヴェル:「ツィガーヌ」

■アンコール
サラサーテ :「ツィゴイネルワイゼン」

http://eee.eplus.co.jp/s/ryugoto/

http://blog.goo.ne.jp/konstanze/e/1808d5e3d9054bdd2e0e93d828f345cc

立花隆氏の小泉「専制」政治への警鐘

2006-07-02 23:44:34 | Nonsense
「知の巨人」立花隆氏が、ウェブに連載していた時事評論をまとめて、4月に「滅びゆく国家」として刊行された。



今年66歳を迎える知の巨人の見識によると、日本は今、100年に1度の大改革を迎えた曲がり角だという。その立役者は、勿論オペラ鑑賞で帽子を被り、ドミンゴと並んで悦にいる小泉首相。庶民を泣かす小泉首相の成果は、金融機関の不良債権処理の加速や社会福祉のカットという外科手術だけで、あとは病人を放置して自己回復を待つ無責任な外科医と立花氏は厳しく批判している。
今週号の『週刊エコノミスト』の「問答有用」のインタビューアーに立花氏が登場しているのだが、その鋭く本質をつく切り口に何度もうなる。

■ニートは社会の共同体に入れないまま”アウトカースト”として存在している。一昔前までは、高校や大学を卒業していればどこかに就職できた。お互いが助け合う日本的な大家族社会の一員になれたが、今はそこに入れない人が大量にいる。

■60年に東大に入学した時は、電車を降りて校門に入るまで左翼シンパのビラで両手がいっぱいになった。戦後に一時期は、それほど左翼系の学生運動がキャンパスを支配していたが、日本の歴史を遡ると、右翼、国粋的な流れがほうが、圧倒的に本流。

■東大というのは、西欧先進文明の輸入総代理店として国家が造った大学であり、近代国家日本を支える官僚と各界のテクノクラートを養成してきた。東大の歴史と近代日本の歴史はぴたりと重なる。

■『天皇と東大』で、「日本はバイカル湖まで戦線を拡大すべき」という意見書を提案した誇大妄想狂としかいいようのない戸水寛人博士(バイカル博士と異名がつく)に、聴衆は熱狂する。大衆は戸水博士に煽られ、現実離れした皮算用をするが、それがかなわないと怒りを爆発させて日比谷焼き討ち事件を起こした。大衆は今でもそうです。小泉改革に熱狂したのも同じ、小泉首相は”バイカル博士”に類する人物である。彼自身が”天皇”になってしまった。彼が演説でなにか言うたびに、小泉チルドレンが一斉に拍手する。あれは、一昔前のソ連や中国、現代の北朝鮮などの専制国家と同じ。

■4月に入省した若手キャリア官僚16人を相手の研修会に出席したが、東大を出て、官僚になる人たちが本当に歴史を知らない。それに、科学技術を知らない。いまだに、東大法学部卒業の文系官僚が国をリードするシステムが変わっていないのだから、我々は歴史も科学技術も何も知らない人たちに、日本の舵取りをまかせている。

立花氏の著書は、これまで科学系の書物しか読んだことがないし、その業績に敬意をはらいつつも、ひそかに氏の科学的なセンスは意外と平均的と感じてもいた。
今回立花氏のインタビューを読み、知の巨人というよりも、知の灯台のような警鐘と本質をみぬくまなざしに感動する。かって田中角栄や日本共産党の研究で日本の知識人をうならせたという立花さんは、2006年をむかえ小泉首相は旧来の自民党型政党政治を壊したが、日本も壊したと憂える。憂国の士は、
「100年単位の世界構造変化のなかで、日本は自分たちが生き残るニッチを探し出さないといけません。」
とも。

日経BP

二回目の「オーケストラ・ミューズ」演奏会

2006-07-01 23:41:13 | Classic
最近、私も忙しいのだ。だったら「いつまでもあると思うな、美貌と若さ」?と自分に言い聞かせ、とっとと枕に頭をうずめればよいのに、忙しいからこそ自分と向き合うことが必要不可欠と、ブログの更新やら読書諸々で睡眠時間を削っている。
この忙しさの元凶は、仕事にある。職場でも次々とダウンする者が後を絶たない。ここ1ヶ月のめまぐるしさと変質的な笑いは、ベートーヴェンの交響曲第7番の後半がかけめぐるかのようだ。そう言えば、音楽好きの方には雰囲気が伝わるだろうか。この第7番の、あと一歩間違えば喧騒になりそうなにぎやかさは、ある時は「運命」のように重厚で、はたまた弦楽四重奏のように哲学すら提示されるベートーヴェン像と笑えるくらいにちょっと違う・・・。いったいこの時、ベートーヴェンになにがあったのだろうか、と疑ってしまう。

さて、梅雨の晴れ間に世間のいかめしいイメージとは少し違う、ベートーヴェンのたくらみを聴きに文京シビックホールにまで、いざ。

先日亡くなられた岩城宏之氏のエピソードを、私もブログに書いたのだが、最も印象に残る話に実はふれていない。というのは、間接的に人から聞いた話だからだ。
ある時、やはり音楽の好きなその方から聞いた、岩城氏が出演されていたラジオでの話。
「指揮者になりたい。どうしたら指揮者になれるのですか。」
そう尋ねる少年に、岩城氏はラジオできっぱり応えた。
「僕が指揮者になれたのは、才能があったからだ。」

6月に来日したヒラリー・ハーンのヴァイオリン・リサイタルを聴いた方の多くは、「天才」という言葉を具現化した”ミューズ”を実感しただろう。天才というのは、なんなのか。彼女の演奏を聴けばわかる。
そして「オーケストラ・ミューズ」第2回演奏会の前半の曲は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ソリストは、三浦章広さん。
この充実した音型の連なりのようなベートーヴェンを聴いて、音大ではなく一般の大学からヴァイオリニストになったソリストに、天才とは異なる意味合いの「才能」をつくづく感じる。もしかしたら三浦さんの音楽性が、自分の好みにあまりにもマッチングしているのかもしれない。三浦さんの演奏は、音の美しさもさることながら、思わずうなりたくなるようなチャーミングな魅力をたたえている。生真面目に練習だけをつんだ人とは違うテイストの、音楽の核心をついているといってもよいかもしれない。堂々たる第一楽章のカデンツァ、難技の和音を軽々と謡う第三楽章のカデンツァも素晴らしい。。。が、私は随所に光る”名人芸”の妙味に、音楽の才能にふれた気がする。ため息のでるような才能に。
新星日本交響楽団で首席コンサートマスターに就任した当時の「生命力のある、いい音楽を目指したい」という抱負を思い出すようなヴェートーベンVn協奏曲だった。

このベートーヴェンの協奏曲を独奏するということは、宝石のようなメンデルスゾーンの協奏曲とは異なり体力を消耗する、はずだ?。(弾いたことがないから断定できないが、音楽性を考えたらそうであろう。)にも関わらず、後半の交響曲弟7番が始まると、コンサート・マスターの席に三浦氏が。思わず、微笑んでしまった。お仕事で、いつも勤めているコン・マスなのに、小さなアマオケの牽引役も引き受ける姿に好感をもつ。
閑話休題。
今回はviolaで参加された東京フィル首席第二ヴァイオリン奏者の藤村政芳 氏にもふれたい。日本人ビジネスマンの黒髪に囲まれて、中央でちょっと茶髪のめだつ方、それが藤村さんだ。黒いフォーマル集団の中で、渋めのチャコールグレーのスーツというのもなかなかおしゃれだが、もっとおしゃれなのが、そのボーイングと弾き方だ。「のだめカンタビーレ」の峰くんを更にパワーアップさせたようだ。上品なクラシックというよりも、殆ど過激なロックである。その迫力はおよそ権威ある東京藝術大学ご出身とは思えないではないか。オーチャードホールという会場を嫌って、また合併して大所帯なのでホームベースでの東フィルでの勇姿を惜しいことに拝見したことがないのだが、本業でもこのような熱い演奏なのだろうか。お隣に可愛い女の子が座っているからではない。いつも藤村さんの演奏は激しい。・・・やはり東フィルでのお姿も一度、チェックしなければ。

たちあがったばかりの二回目の演奏会。今後、どう成長していくのか、楽しみである。

----------2006/7/1 文京シビックホール----------------------------------------

ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61(ヴァイオリン : 三浦章広)
ベートーヴェン 交響曲第七番 イ長調 作品92

指揮:大河内雅彦