千の天使がバスケットボールする

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『Jの悲劇』

2006-07-16 22:28:23 | Movie
オックスフォード郊外の初夏。雲ひとつない真っ青な空の下に、なだらかな緑の丘が続く。
作家で理系の大学教授のジョー(ダニエル・クレイグ)は、長年の恋人、新進気鋭の彫刻家のクレア(サマンサ・モートン)とピクニックを楽しんでいる。リュックの中からとりだした高級なシャンパンを彼女のためにあけようとするジョー。今日は、ふたりにとって特別な日になる予定だった。そのために用意したシャンパンだった。まさにその祝福の時、空をおおうように真紅の気球が落下してきた。急いで救助に向かうためにジョーとクレアは、少年を乗せた気球に向かう。ジョー、少年の祖父、そして駆けつけたふたりの男性と気球を押さえつけたところで、一陣の突風に煽られ真紅の気球はロープをつかんだ4人の男性をひきずりながら、再び舞い上がっていく。
その後、思わぬ事故を目撃することになる彼ら。

やがてジョーは、その時の記憶と慙愧に悩まされるようになる。友人たちの食事会で、涙を見せながら痛ましい気持ちを告白するのだが、益々事故の記憶にとりつかれていくようになる。クレアや友人たちの慰めや励ましの言葉も、なんの効果もなかった。けれども、本当の悲劇は、一緒にロープをつかんで救助に向かった男、ジェッド(リス・エヴァンス)の訪問から始まった。一見優男に見えるジェッドの表情と姿に見たのは、不吉な赤い気球の影だけではなかった。ジェッドの存在は、ジョーのクレアとの私生活、大学での講義、こころの中にまで侵蝕しはじめていく。ゆるやかに、そして過激に。

(この先かなり内容にふみこんでいます)

ストーカーの定義は、「特定の個人に異常なほど関心を持ち、その人の意思に反してまで跡を追い続ける者」(広辞苑)
この映画の着目点は、何よりもストーカー犯罪者のおぞましさである。その行為の気持ち悪さはもとより、自分をたとえどんなに拒絶しても相手も恋愛感情を抱いているという思い込みの激しさと、ふたりの恋愛がうまくいかない原因はすべて排除するという発想への恐怖である。ジェッドのような暴力に発展する可能性のある恋愛妄想病を”クレナンボー症候群”というそうだ。ここでのジェッド役のリス・エヴァンスの演技力が群をぬく。冒頭の事故を目撃した後、気弱な微笑を浮かべて「神に祈りを捧げよう」とジョーに声をかけるところから”いかれた野郎”のぞっとする雰囲気をそこはかとなくただよわせ、彼を公園で待つずりおちたGパンの背中を落とした後姿だけでアブノーマルな男の不気味さを見事に表現している。

そしてもうひとつ忘れてはならないのが、物語のテーマである愛だ。
ジョーは、大学生相手に自信をもって恋愛論を講義する。
「恋愛とは、生殖への性行為に向かうための動機である」こうした思想をもつジョーとの結婚、彼とのこどもをいつか産みたいと願うクレアにとっては、長い交際にそろそろ”けじめ”をつけたいとひそかに考えている。彼女は、ジョーからの求婚を待っているのだ。しかし、ジョーはこの講義からわかうように恋愛や結婚に対して懐疑的だ。
一方、ジェッドはそんなジョー”教授”の「愛なんて幻想だ。恋愛は生物学的な問題でしかない。科学だ。」という講義(私もそう考えがちなタイプなのだが・・)と正反対の恋愛感をもち、それに従う。一途な愛という妄想に過ぎないにしても、彼のなかでは愛は現実的でなによりも確かなものである。
映画「プリティ・ウーマン」でリチャード・ギヤ演じるM&Aをてがける優秀な企業買収家が、街娼と結婚しようと決意するのは、たとえばオペラ「椿姫」に涙を流すまっすぐで正直な彼女に現実的で手ごたえのある愛を見つけるからだ。だから彼は、合理的な市場主義の虚業とは別の、ただ船をつくりたいという老人に彼女と同様に敬意を捧げるのだ。

映画の冒頭の空の青、草原の緑と不吉な予感をもたらす赤の色の鮮やかな対比が、出色である。恋人たちが住むアパートの彼ららしい機能的でハイセンスなインテリアと、クレアの工房、大学内の様子も映像は見どころがある。それに比較して、事故にあった男性の壊れた体とジェッドの荒廃した暗く陰気な室内。ここで監督は、死のもたらす残酷さとジョーのトラウマを説明し、ジェッドの危うい精神構造を紹介している。
原作は、ブッカー賞作家イアン・マキューアンの「愛の続き(ENDURING LOVE)」
この小説に魅了された監督ロジャー・ミッチェルは、
「ある者は永続的な愛を抱き、ある者は愛の対象であり、ある者は愛による犠牲者である、というシチュエーションをズバリと言い当てたタイトル。人はどうすれば永続的に愛されるものなのか?それこそ僕自身がとても興味がある問いかけであったし、その答えを見つけるために僕は何度も原作を読み返した」と語る。

この監督の問いかけは、最後のエンドロールまで観客に投げかける。本当の恐怖は、映画が終わってから始まる。