千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『カサノバ』

2006-07-07 23:04:45 | Movie
ベッドの上では・・・いや、なにもベッドの上とは限らず、いつでもどこでも・・・であるが、そのテクニシャンぶりはヴェネチアの街中で知らない者はいない超絶技巧の持ち主のマエストロ、その名もジャコモ・カサノバ!!

淑女から娼婦まで、狙った獲物はすべて射止めてきた華麗なるエロ事師の活躍する舞台は、18世紀の宮廷社会。今日も今日とて、カサノバ(ヒース・レジャー)は神に身を捧げた修道女との甘い情事にふける。そこへ彼を逮捕するためにやってきたのが、教会のお役人たち。修道女たちに慌てて別れを告げて、逃げ込んだ先が大学の講堂だった。そこでは、女性の職場が寝室と台所だったこの時代に、才色兼備の男性に扮した女性、フランチェスカ・ブルーニー(シエナ・ミラー)が女性にも大学、学問への門戸を開くように訴えている最中だった。
「女性は、この気球のように男と家事という錘がなければ自由に飛べる」
(惜しい哉、、、彼女が今の日本に生まれていたら、その錘も随分カルクなり自由に翔べたのに)
ところが堂々と論陣をはっている彼女の目の前で、カサノバは逮捕されてしまう。

そして危うく異端審問にかけられて死刑になるところを、彼のベッドのお相手が枢密卿の貢ぎものである修道女だったことから、彼女の”処女”という体面を守るために、ふたりの間にはナニゴトもなかったという整理で無事釈放される。但し、彼の後ろ盾になっているヴェネチア総督にしかるべきところから女性を娶り、結婚するように」と条件をつけられる。
少年時代、母と別れたカサノバにとって、「何故、結婚しなければいけないのか」
その”素朴な疑問”は、当時の権威の象徴であるカソリック教会にとっては、なんたる冒涜であろう。期限は、カーニバルが終わるまで。こうしてカーニバルへの高揚とともに、カサノバの花嫁探しがはじまるのだが。無限の愛よりも、たったひとつの真実の恋を見つけることができるのだろうか。

放蕩のカサノバに従える侍従アンドレア、カサノバを偏執狂的に追いつめる天敵プッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)、美人だが恋よりも学問に没頭するフランチェスカ、没落しつつある貴族の彼女の母、しっかり者の姉に比較してよくあるパターンのノーテンキな弟、いまだ女性経験のない彼が長い間恋こがれる女性やフランチェスカの婚約者まで登場して、さながらシェークスピア劇のように登場人物たちが入り乱れていくコメディ。バックに流れる典雅なバロック音楽が、まるで登場人物たちを励ますかのように小気味よく歌っている。少々アップテンポのチェンバロやヴィオロンの音が、いきのいいロックさながらに転がっていく。この音楽を聴いているだけで、ストレス発散になる。
そしてこの映画には、本物の愛にめざめたひとりのプレイボーイの成長、フェミニズム論、決闘や気球の乗船などの冒険物語。てぎわよく、長身のヒース・レジャーをバロック・ロココ調のヴェネティアの景色の中で存分に動かしたラッセ・ハルストレム監督の手による「カサノバ」は、実におもしろい。最初、カサノバ役にあっさり感のあるヒースは如何なものかと食指が動かなかったが、いかにも女好きそうなルックスに、意外と繊細な表情が浮かぶ彼の起用は大正解。ついでに、金城武によく似ている絶倫坊やと娼婦たちの寵愛を受けるフランチェスカの弟役、チャーリー・コックスは思わぬ収穫だった。内気で気弱だが、男らしく成長する過程に今後の注目株であろう。
中でも、もっとも気に入ったのが、映画全編にみなぎる”権威”に対する反骨精神と馬鹿ばかしさの揶揄である。まるで市役所の課長のようなヴェネチア総督の凡人ぶり、教会内部の淫蕩ぶりや権威にあわせる部下たち、捕まえる相手のカサノバ本人と気づかず彼に逮捕協力依頼をする司教のまぬけぶり。カサノバは、世の中の既成の概念を打ち砕くGacktのような存在だった。これを現代日本の資本主義社会の会社組織にうつしかえてみれば、そのくだらなさには、おおいに笑える。
最後に映画『夜よ、こんにちは』にもふれたい。この映画の中でキリスト教民主党党首アルド・モロ首相を誘拐し、政府と交渉するが自分たちの要求が通らないことに苛立った赤い旅団メンバーたちは、モロ首相に対して「権威のある人に手紙を書け」と要請する。そしてモロ首相は、ローマ法王に手紙を書く。55日後に暗殺されたモロ首相の葬儀に参列した”権威のある人”の虚しさと、頂点にたつ法王の権威に威厳を飾る周囲の人々の所作の滑稽ぶり。
全く作風の異なるふたつの作品は、私の好みのツボを抑えていた。
日比谷にあるベネティア料理を食べにいこっと。