千の天使がバスケットボールする

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「毎日新聞社会部」山本祐司著

2006-07-29 23:20:41 | Book
「真実は一つ。真実は一つだけ」
轢死現場の線路脇にじっと立ち、山村聡扮する速水デスクがそっとつぶやく。
下山事件をテーマーにした井上靖原作「暗い潮」の映画を観ていた、当時早稲田の学生だった山本祐司氏は、卒業後、速水デスクのモデルとなった毎日新聞の平正一記者に私淑するとは、この時思いもよらなかった。

昨年末に、柴田哲孝氏の「下山事件 最後の証言」を読んだ。丹念に歳月をかけて下山事件を追った柴田氏の中では、当時下山国鉄総裁の轢死体を唯一自殺と報じた毎日新聞の記事は”誤報”となっている。おそらく日本人の大半は、私も含めて下山総裁は謀殺されたと信じているだろう。しかし、山本が入社する12年前、毎日新聞で下山事件のデスク平正一が指揮をとった取材班は、自殺に傾く。平デスクは、予断を持たず、冷静に事実を積み上げて報道する姿勢に徹底していた。
「事件は事件に聞け」
毎日新聞は、足で集めた末広旅館の有力な目撃者の証言をはじめ、東大法医学の古畑種基教授の”権威”ある死後轢断よりも、東京都監察医務院の監察医・八十島信之助博士の「他殺の容疑なし」を選択し、下山総裁自殺のスクープにうってでる。毎日新聞社会部では、事件を追う時1本線だけをたどることはしない。複数の線を調べながら進む。そして、証拠を積み重ねて1本線になった時、勝負に出る。それが鉄則だった。自殺、他殺と二本線ではじまった下山事件は確実に一本線になったからだ。そして1949年8月3日、警視庁の合同捜査会議が朝からはじまり、下山総裁は「生体轢断」「自殺」と断定することになった。
真実の勝利にはずむ記者たちは知らなかった。午後3時頃、坂本刑事部長に田中栄一警視総監から電話がかかった。「自殺断定の発表はできない」その瞬間に、毎日新聞社会部が報道したスクープはもろくも崩れた。背後に見えるのは、自殺にできないあまりにも大きな力だった。政府、GHQの幹部が、警視庁、毎日社会部の「自殺説」を押し潰した。
大スクープが、大誤報に一気に転落し、待っていたのが懲戒人事。社会部の面々は、散っていくことになった。沈む送別会の宴の半ば、ひとりの客が来訪する。警視総監の田中栄一だった。彼は制服のまま、次の間に頭を畳にすりつけ「どうか、お察しください」と平伏して動かなかったという。
「オレたちは真実の報道に徹した誇りを胸に人生を送ろうではないか」と、平は悔しさに泣く若い記者に言った。
著者は、この時に毎日新聞社会部の反骨、反権力主義ができたと思っている。

その後、平は「下山総裁は自殺だった」と、記者の真実をかけてライフワークとして取り組んだ。
85年、アメリカ国立公文書館に存在する遺体を撮影した6枚の写真が実在することが明るみになり、下山が立ったまま列車にひかれたことがはっきり判明した。事件後、38年経て、ひとつの真実に光があたったのだが、平はすでに他界していた。なんという真実を報道することの潔さと厳しさ。

報道を仕事とする記者たちの「喜び」「怒り」「悲しみ」「希望」、そして報道した時の誇り。戦後を代表する数々の事件を軸に展開するこの物語、今では絶滅種となった無頼派・猛者たちのドキュメントは、今年の欧州の猛暑以上に熱い。そしてエピローグとして紹介された彼らの凄絶とまで言える最終章に、著者の流れるかのようなオマージュが漂う。
山本祐司氏は、早稲田大学法学部に在籍していた頃まで、児童文学作家をめざしていた。一時の生活費稼ぎの避難場所として建設会社の就職も内定していた。ところが、1965年東大女子学生の樺美智子さんが安保闘争の国会デモ中に亡くなるという事件が起きる。血だらけのデモ隊、うなる警察官の警棒。強い衝撃を国民に与えた彼女の死、大学4年生の彼も同じデモに参加していたのだ。翌日、各新聞をむさぼるように読んだ。大学図書館には、多くの学生がいたが彼らが群がっていたのは毎日新聞だった。ガスの抜かれた他紙に比較し、現場キャップの吉野正弘による幹部の激怒をやりこして、警察の暴力行為を見逃さなかった記事が、ひときわ精彩を放っていたからだ。山本は、毎日新聞社会部記者に感動して涙を流す。今まで、こんな新聞はなかった。そして頭に電流が走り、「ボクは毎日新聞に入ろう。社会部へ行こう」と言い聞かせた。
入社した毎日新聞で、社会部記者は真実を求める仕事で必死だった。東京オリンピックの取材の時には、なんと失踪して行方不明だった父と偶然再会する。(突然表れて消えていく父は、オリンピック組織委員になっていた。)数々のスクープをものにし、そして社会部長在任中に、脳溢血で昏倒した山本は、半身不随、失語症になる。
1992年5月31日、定年で毎日新聞を去る時の最後のコラムが「人間万歳」。再起して書いた『最高裁物語』が、日本記者クラブを受賞する。自分を含め、身傷者3人で児童文学サークルを創め、後回しにしていた児童文学にようやく着手しはじめた最中に、今度は脳梗塞が加わり車椅子が不可欠となった。
朝日新聞論説委員の河谷史夫氏は、新聞記者志望の学生に本書を読んでごらんと渡しているという。
山本祐司、元記者は、今年70歳にして本書を世におくる。まるで駆け足で振り返ったかのような印象の文章だ。
「面白い生涯だった。生まれ変わったら無頼派の特ダネ記者になって国家の謀略とたたかいたい」
最後に、そう語って本書はしめくくられている。