ヨーロッパといえば、キリスト教。アラブといえば、イスラム教。
それに比べて、この日本には、日本の神道もあれば、インドから来た仏教もあるし、中国から来た儒教もある。いろんな思想が混ざり合っているのが、日本のユニークなところだと言う人は多い。
確かにそういう面もあるんだけど、外国のことは、実態より単純に見えやすいのも事実だ。
イスラム教世界にも、キリスト教世界にも、宗教だけではなく、実は、もうひとつの大きな思想の流れがある。それは、古代ギリシャから始まった、哲学の流れ。
ギリシャ哲学といえば、かの高名なる、ソクラテス・プラトン・アリストテレス。思想に無関心な人でも、名前は知ってるくらい有名だ。
ユダヤに由来する、宗教。ギリシャに由来する、哲学。この2つの大きな流れは、対立しながらも、混ざり合ってきた。
キリスト教やイスラム教というのは、信仰の世界だ。とにかく、聖書やコーランに書いてあることを、信じるかどうか。すべては、それにかかっている。
どこの国でも、昔は世間の一般人には、まず文字が読めなかった。このため宗教には、何よりも「分かりやすさ」が優先された。「善いことをすれば、神さまが喜んで、天国に入れてくれますよ。そこでは、寝イスに長々と寝そべり、美女のお酌でおいしいお酒が飲めます。悪いことをすれば、神さまが怒って、燃え盛る炉の中に投げこまれますよ」・・・これくらい話を単純にしなければ、とても無理だったのだ。
ところが、それじゃ満足できない人たちがいた。それは、知識人たちだった。昔の人とはいえ、多くの文献を読んで、とてもよく勉強している人たち。医者とか法律家が多かった。
いくら神聖なるイスラムの教えといっても、「神は、天空いっぱいに広がる巨大な玉座に、すわっておられるのだ」というコーランの一節なんかを見て、アラブやペルシャの知識人は、納得しなかった。「そんなバカな」ということに、どうしてもなってしまう。
知識人にも、いろんな人がいた。アカラサマに宗教をバカにして見下す人もいれば、遠回しに批判する人もいた。どちらにしても、宗教に納得できていない、もしくは、「足りないものがある」と考えていたことに変わりはない。
そんなときに助けてくれる、インテリ専用の強力な味方。それが、ギリシャ哲学だったのだ。
宗教というのは、基本的に、分かりやすくできている。神さまは、人間みたいな顔をして、人間みたいな言葉をしゃべる。すぐ怒るし、すぐ喜ぶ。善いことをした人は天国に送って賞し、悪いことをした人を地獄に送って罰する。とても分りやすい存在だ。
それに対して、知識人もしくは哲学者という人種は、あまりに分かりやすい話だと、かえって納得しないようにできている。
哲学者も、神さまを信じてはいた。でも、聖書やコーランに出てくる、人間みたいな神さまの話を、額面どおりに受け取っていたわけではない。
哲学者は、もっと抽象的な神を信じていた。顔もなければ、身体もない。空気みたいに、そこらじゅうに存在するけど、どこにも見えないような、観念的な存在だ。
「あらゆるモノには、原因がある。その原因にも、また原因がある。そうやって、原因の原因の原因・・・をたどっていくと、一番最初の原因、つまり第一原因にたどりつく。それが神なのだ」とかなんとか、そういう感じ。
哲学者にとっての神さまは、現代でいう「ワンネス」そのものと言っていい。すべてを統合する存在だから、聖書やコーランに出てくるような、頑固オヤジみたいに怒り狂って、怒鳴り散らしたりするような存在ではなかった。
「神が天地創造した」と言っても、大工さんが家を建てるのとは違う。
「あたかも、一から全ての数が派生・流出するように、万物が神から流出するのである」というのが、哲学者の好むスマートな解釈。そこには、始まりもなければ、終わりもない。
昔の人たちとはいえ、すでに、そこまで考えが進んでいた。ワンネス思想は、現代になって突然、出てきたわけではない。昔から、あったのだ。ただし、世間の一般人には理解できず、哲学者だけが知っていた。
でも、聖書やコーランに、そういうことが書いてあるわけではない。宗教とは、似てるけど違う。
アラビアやペルシャでは、誰もがイスラム教を信じていた。イスラム教の神さまは、「アッラー」と呼ばれる。
それに対して、哲学者たちは、上に書いたような哲学者用のワンネスの神さまを、「ハック」(真実在)と呼んで区別していた。
それくらい、この2つは異なる。これは、ヨーロッパにも伝わった。スピノザやヘーゲルといった、ヨーロッパの哲学者たちの本に出てくる「神」というのも、それと同じで、哲学者の神さまだ。
イスラム教を広めた預言者ムハンマドは、実はけっこう大変だったのだ。後の時代には、誰もイスラム教に文句を言えなくなった。言ったら、大変なことになるからだ。でも、最初からそうだったわけではない。昔は、わりと言いたい放題に意見を言う人たちがいた。
イスラム教が広まった頃のイラン、イラク、シリア、エジプトその他は、大変な文明国だった。日本でいえば、飛鳥時代とか奈良時代だったけど、この地域は、すでに文明が興って何千年もたっていた。
キリスト教とか、仏教とか、マニ教・ゾロアスター教とか、エジプトの死者の書とか、ありとあらゆる思想が、そこにはあった。現代のスピリチュアリズムで言われているようなことは、たいてい、すでに知られていた。
そんな、なんでも知ってる文明国の知識人に、降ってきたばかりの「神のお告げ」を広めようってんだから、実は、かなり大変なことだったのだ。たちまち、ありとあらゆるツッコミが殺到した。
「コーランには、イスラム教を信じない者は地獄に落ちると書いてある。ということは、マホメットが登場する以前の人々は、みんな地獄に落ちているのか?」とか、「コーランでは、神が宇宙を創造したときは、何もなかったと書いてある。でも、別のところでは、神は玉座にすわっておられたと書いてある。何もなかったのか、玉座はあったのか、どっちなのだ?」とか、そういうツッコミが殺到した。
そこで助けてくれた強力な味方こそが、ギリシャ哲学だったのだ。
宗教にうるさい知識人たちには、哲学がピッタリ。イスラムの教えは、確かに論理的にはアチコチおかしかったけど、「俺たちには、これがあるから、まあいいや」って感じになった。それで、宗教への不満もおさまった。
でも、思想が2つに分かれているのは、都合が悪い。
ここがフクザツなとこなんだけど、いくら論理にやかましいからといって、哲学者たちも、コーランを信じないわけではなかった。それどころか、彼らも敬虔なイスラム信者だった。それとこれとは、別問題だったのだ。
でも、すでに、ギリシャ哲学なしでは、生きられなくなっていた。
それにしたって、教えが2つに分かれているのは、なにかと都合が悪い。
とくに、「人間は、死後は大いなるワンネスの知性に溶けてなくなってしまうので、個人の意識としては存在しなくなる」という、有名なアラブの哲学者の意見(知性単一説)は、霊魂不滅の教えと真っ向から対立するので、ヨーロッパでも大論争をひき起こした。これに限らず、他にも、そういう問題が沢山あった。
そこで、なんとか、この2つを1つにまとめようということになった。
その結果、イスラム教とギリシャ哲学を、お互いに矛盾しないようにマトメ上げた(・・・ということになっている)、「スコラ哲学」という、統一原理が登場した。
これがヨーロッパにも広がり、かの偉大なる聖トマス・アクィナスの「神学大全」につながった。
聖トマスは、キリスト教とギリシャ哲学を統合する統一原理をつくり、絶対的な教科書を書き上げた。後に続く人たちは、みんなそれを読んで勉強するようになった。
この後、キリスト教の思想も、みんなスコラ哲学になった。スコラ哲学は、カトリックの正統神学とされた。どこの神学校でも、生徒が学ぶのはこれだった。
インテリも、非インテリも満足し、これにて一件落着。
こうして、論理に弱いのが玉にキズの啓示宗教は、強力な理屈の裏づけを手に入れたのだ・・・。
(つづく)