あるときプラトンは、人間を、「洞窟の中の囚人」にたとえた。
洞窟の中で、囚人がしばられている。囚人たちは、壁に向かってすわっている。壁には、影絵が映っている。
囚人たちの背後ではタキ火が燃えていて、火の前には、人形その他が置いてある。囚人たちは、壁にあかあかと照らし出された、その影を見ているというわけだ。
この「影絵」というのが、いまいち分かりにくいところなんだけど、これは仕方がない。プラトンの時代には、映画がなかったからだ。
現代人なら、ここは「映画」と読みかえていいだろう。つまり、囚人たちは、洞窟の中にいて、壁に映った映画をじっと見ているのである。そういうシチュエーション。
あるとき、みんなと一緒に黙って壁に向かい、影絵をじっと見ていた囚人の一人が、洞窟の外に出してもらえた。
洞窟の外に出た囚人は、驚いたのなんの。なんと、そこには太陽が輝き、光に満ちあふれているではないか。しかも、草が生え、蝶が舞い、動物たちも生き生きしている。
世界とは、これほど明るいものだったのか。あの「影絵」なんかとは、えらい違いだ。
ビックリした囚人は、洞窟の中に戻って、仲間の囚人たちに、この話をした。洞窟の外は、メチャクチャ明るくて、生き生きしているぞ。こんな影絵なんかとは、えらい違いだ。お前らも、こんなの見てる場合じゃないって・・・。
しかし、その言葉は、仲間の囚人たちには届かなかった。かえって、「コイツはどうやら、精神に異常を来たしてしまったようだな」と思われてしまった。
・・・とまあ、こういうのが、有名なプラトンの「洞窟の比喩」。
言うまでもなく、洞窟の中の囚人というのは、われわれ、地球の物質世界の中に生きる人間を意味している。
人間が見ているのは、洞窟の壁に映った「影絵」でしかない。
天上には、真実在の世界がある。そこは、途方もなく明るい、光り輝く世界だ。
この実在界には、前回も書いたような、「本質存在」がある。プラトンは、それを「イデア」と呼んだ。
犬には、犬のイデア。机には、机のイデア。人間には、人間のイデアがある。どれも、この世の犬や机や人間・・・よりも、ずっと素晴らしい。
「理想の犬を育てる方法」という本があったけど、そんな理想の犬と比べても、さらに非の打ち所のない、完璧な犬だ。
それに比べて、この世にあるのは、影絵みたいなものだ。アチラこそが、ホンモノなのだ。
そういうホンモノが集まっているのが、イデア界。われわれの頭上のどこかには、そういう世界があるらしい・・・。
というのも、この世は、相対的な世界。ここは、百人の人がいれば、百通りの意見が噴出する世界だ。
「大島優子は、すごい美人だな」と誰かが言えば、「エ~?」と言い出す人がいる。「渡辺麻友こそ、本当の美人だ」と言えば、他の人が「ハァ~?」となる。ここでは、万人の価値観が一致することがない。
理想の犬に育てようと思って、犬を厳しくシツケている人がいると、それを見て、「犬が叱られて、かわいそう。なんてひどい飼い主だ」と思う人もいる。
かといって、散歩していても、あっちにワンワン、こっちにワンワンと勝手きままに飛び回っている犬を見れば、「なんだ、あの犬は。飼い主のシツケがなっとらんわい」と顔をしかめる人もいる。
このように、何が正しいのかは、人それぞれに異なる。国や地域によっても、異なる。
古代ギリシャは、エーゲ海に浮かぶ小さな島や半島が多くて、しかも当時は、今でいうイタリアとかトルコあたりにまでギリシャ人の世界が広がっていた。海を通じて、違う環境の人たちの異文化交流が盛んだったのだ。だから、ますますバラバラだった。
そんな中でプラトンは、「これは違う。どこかに、絶対的な美とか、絶対的な善とか・・・があるはずだ」と考えた。
この世は、個別の具体的なもので満ちている。そんなバラバラな世界は、どこかで統合される。そこには、普遍で全体的なものしかない。
どこかにあるはずの、絶対的な真・善・美。
その究極には、世界を統合する、絶対的な根源がある・・・。
ここまで来れば、ワンネス思想まで、あと一歩。
(続く)