「哲学」と一言で言っても、いろんなテーマがある。
もっとも、現代の哲学の研究者がやってることは、ほぼ別モノなので対象外。ここでいう「哲学」というのは、それよりも昔の話。
古代ギリシャの哲学者は、それこそ、なんでもやっていた。数学も物理も生物も、政治や法律も・・・、みんな、哲学者が考えたのだ。
「人は、いかに生きるべきか?」といった、道徳の先生みたいなことも、哲学者の重要な役割のひとつだった。
そんな中でも、最大のテーマといえば、「存在」だった。
「最後の大哲学者」こと、ハイデッガーは、古代ギリシャからの哲学の歴史を、とても深く研究していたことでも有名。
そんなハイデッガーは、「哲学史上、最大の問い」として、こう語った。
>「なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」。
ハイデッガーによれば、この疑問こそ、哲学で最大のテーマだ。「これがあるから、2500年もの間、ボクたちは哲学をやってきたんだ」という感じ。
ここでのポイントは、後半の、「むしろ、無があるのではないのか?」というところにある。
というのも、「この世がある」というのは、考えてみれば、とても不思議なことなのだ。
なんで、こんな、地球だの太陽だのが存在するのか。空の雲とか、雨とか雪とか、動物とか植物とか・・・なにもかもが、「そもそも、なんで、こういうものが存在するんだろう?」と考え始めたら、キリがない。
考えれば考えるほど、ナゾに満ちている。
この世があるから、「なんで、こんなモノがあるんだろう?」という疑問が出てくるのである。それに比べて、なにも無いほうが、よほどスッキリしている。なにも無かったら、なんの疑問も起きない。
とくに不思議なのは、人間、なかでも、自分自身の存在だろう。
いつかは死ぬに決まっているのに、とりあえず生きている、この自分。「俺は、オレだよ」という自己意識を持って生きている。
「ひょっとしたら、人間の中で、本当に存在するのは自分だけで、あとの人たちは、演技するロボットみたいな架空の存在なんじゃないかな?」というのは、子供なら、たいてい一度は考えてみることだろう。
実のところ、ハイデッガーにとっても、最も不可解な「存在者」とは、自分自身だった。そもそも、自分自身がいなかったら、何も認識できないのだから、この世は存在しないも同然。
つまり、もしも自分自身が存在しなかったならば・・・。その代わりに、無があるのである。
それにしても、なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか・・・?
考えれば考えるほど、不思議なことだ。
ここで、宗教の信者さんが登場すれば、一言ですべてが解決する。
「それは、神さまがお創りになったからですよ」。
ある新興宗教の信者さんに至っては、「ウチの教祖の先生が、人間としてこの世に下生される前の、天上界にいたときにお創りになったんですよ」とまで主張していた。
これが最終回答になるとは、信者とは、なんとも幸せなものだ・・・(笑)。
それはともかく、哲学者たるもの、目の前にある存在を、ただ見るだけで終わりではない。
目の前に、四つ足の動物がいる。シッポを振っているのが見えるし、ワンワンという声も聞こえる。
しかして、それは世を忍ぶ、仮の姿なのだ。この者の本質は、いかなる存在か・・・!?
哲学者なら、そう来なくてはいけない。
というのも、世の中は、バラバラに存在するモノで満ちあふれている。あの人、この人、その人。机にイスに、タンスに、冷蔵庫・・・。
完全なモノなど、何もない。どれも、どこか不完全な上に、時間がたてば劣化していく。しかも、バラバラに分かれている。
世間の一般人にとっては、それでいい。「世界とは、こういうものだ」と割り切っているからだ。
でも、哲学者は、そういう不完全で個別的なモノの奥に、「本質存在」を見ようとする。
東アジアの日本人や中国人には、そういう哲学者タイプの人が珍しい。それでも、たまには出てくる。
かの高名なる明の儒学者・王陽明は、若き日のあるとき、自宅の庭の竹林を、思い詰めたように見つめていた。
「竹なんかをジッと見て、いったい、何をやりたいの?」と聞かれたら、「ボクは、竹の理を見たいのだ」と答える。ここでいう「理」(り)というのは、儒学の基本概念で、要するに、「存在の本質」ということ。
3日3晩、竹の理を見きわめようと必死だった王陽明。あまりに根を詰めたおかげで、ついには、「ウ~ン」と目を回して倒れてしまったという。
これぞまさしく、哲学者のカガミともいえる姿勢だろう。
(続く)