宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

輪廻転生の原理 ~ ダスカロス

2010年07月17日 | 精神世界を語る
 
ダスカロスによれば、人は輪廻転生している。証拠が欲しければ、「自分の潜在意識に入り、自分自身の過去世を知るのが一番」だという。

自分の過去世を知ることが、そんなに有意義ならば、なぜ、われわれは過去世のことを覚えていないのか。ダスカロスいわく、

>そのほうが自分のためだからだ。過去の習慣や欲望に、再び執着することなしに進歩するチャンスがあるという、聖なる慈悲の一環だ。もし、現世では良い宣教師でいる人間がいるとする。何回かの前世のように、飲酒が問題になっていないところまで進化している。しかし、宇宙の記憶の中では、彼のアル中だった部分はまだ生きている。このような記憶が現世で目覚めてしまうと、古い習慣に逆戻りして、再びアル中になる可能性がある。キリスト自身も、畑を耕すとき、もう既に耕された溝(みぞ)を見るよりも、次に耕す畝(うね)に意識を集中せよ、と言っている。

(キリアコス・マルキデス著 『メッセンジャー』より)

なるほど、たしかに、それは危険だ。重症のアルコール中毒になると、根本的な治療がきわめて難しい。一見、アル中を克服したように見えても、一滴の酒を飲んだだけで、ぶり返してしまうという。十年間にわたって酒を飲まなかったとしても、ダメなんだそうな。現世のアル中ならまだしも、前世のアル中がぶり返したのでは、たまったものではないだろう。

前世でアル中患者だった頃の自分は、現世の自分に生まれ変わった今でも、「宇宙の記憶」の中に存在している。

もちろん、生まれ変わって現世の自分になっている以上、人間としては、もはや存在していない。それは、魂の抜け殻でしかない。エレメンタルとして、宇宙の記憶の中に存在しているだけだ。
 
ここで言う「エレメンタル」というのは、人間が創り出した、思考や感情のこと。物質界では目に見えないが、サイキック界や、ノエティック界 (要するに、あの世)では、独立した生物のような、生きたカタマリとなって存在している。過去世の人間も、魂の抜け殻ではあるものの、思考と感情のカタマリとなって存続しているわけだ。

「灼眼のシャナ」という有名なライトノベルに出てくる、妖魔に魂を喰われてしまった人間の抜け殻、「トーチ」みたいなものだろう。トーチは、一応、人間としての思考や感情を持ち合わせてはいるのだが、魂がなく、一種の痕跡として残されているにすぎない存在。なんだか、「過去世の人間」に似ている(笑)。

かの高名なる「20世紀最高の聖者」こと、J.クリシュナムルティも、「人間は、死んだ後でどうなるのでしょうか?」という聴衆の質問に、「思考と記憶の束は残ります。でも、それはアナタではありません」と答えていた。それと、どこか通じるものがある。やはり、高いレベルの人たちの見解は、どこか通じるところがあるものだ・・・。
 
ただし、その気になれば、「過去世の人間」とも会うことはできる。

>ソクラテスは、何回も輪廻転生している。もしかしたら、彼は他の肉体を持ち、違った文化、違った名前で生きているかもしれない。しかし、宇宙の記憶から彼を呼んで、自分たちの目の前で半物質化してもらい、ソクラテスとして輪廻した存在が他の肉体に宿っているかどうかに関係なく、彼と話し合うことができるのだ。 (同上)

かつて「ソクラテス」として生きていた魂は、すでに、どこか他のところに転生してしまった。「宇宙の記憶」の中に残っている「ソクラテス」は、もはや人間としての存在を終えている。一応、会うことはできるらしいのだが、それは魂の抜け殻にすぎず、本人はそこにいない。
  
>宇宙の記憶にいるソクラテスはエレメンタルであって、人間ではない。ソクラテスであった自己意識は、もはやそこにはないのだ。もしソクラテスをここに連れて来て会話をしたら、彼はその時代のソクラテスの知性と知識を持っていることになる。ソクラテスの生涯で得た知識以上のことを言うことはできない。 (同上)

もしも、「ソクラテスの霊」を半物質化させて、この世に連れてきて面談したとしても、それは過去に古代ギリシアで生きていたときの、当時の思考と記憶しか持ち合わせていない。霞がたなびく、あの世の深い霧の中から、「やあ、こんにちは」と姿を現す、ソクラテスの霊。まったく、哲学ファンにとっては、涙が出るほど懐かしい存在だ・・・。だが、積もる話をしようにも、残念ながら、大昔の思い出しか語れない。魂を抜かれた、生きた人形みたいな今のソクラテスに、それ以上のことを期待しても無理。
 
もちろん、これはソクラテスに限ったことではない。われわれは皆、そうなのだ。過去世の自分は、過去の記憶として、どこかに残ってはいるらしいのだが、それは自分自身ではない。現世の「自分」も、いつかはそうなる。
 
よくある、「坂本龍馬の霊が登場して、あの世から、混迷する現代に喝!!」というような本も、原理的にありえないということになる。「宇宙の記憶」の中のエレメンタルにすぎない「坂本龍馬の霊」が、現代の政治経済にやたら詳しかったり、威勢よく論評したりするのは、おかしいということだ。残念ながら、仮に呼び出すことができたとしても、幕末に生きていた頃の思い出を、当時の意識のままで語ることしかできない。それも、龍馬自身が自分の意識で語っているというより、「坂本龍馬」という過去の思い出が、宇宙のデータベースからダウンロードされたにすぎないと見るべきだろう。

「あの世に行ったら、死んだ人と会えました」というのも、結局はそういうことになる。真の意味での本人が、そこにいるわけではない。自己意識を持って活動しているのは、現在、この瞬間にいる自分だけ。そんなに現代の政治に口を出したいのなら、「坂本竜馬の霊」は、現代に転生して、とかく生きにくい現代社会で生きてみるしかないのである(笑)。


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