宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

無念、ポーランド大統領の墜落事故

2010年04月14日 | こっくり亭日記
 
2010年4月10日、ポーランドのカチンスキ大統領を乗せた専用機が、ロシアで墜落した。大統領夫妻をはじめ、ポーランド政府の関係者が多数、この事故の犠牲となった・・・(黙祷)。

無念と思われるのは、ロシア訪問の理由が、「カチンの森・虐殺事件」の歴史的な追悼式典に出席するためであったことだ。

「カチンの森」というのは、第二次大戦が始まったばかりの1940年に、2万人を超えるポーランド人の将校が、ソ連軍によって銃殺され、埋められたという事件。戦後、ポーランドは社会主義化され、ソビエト連邦(現在はロシア)の管理下に入った。このため、長年にわたって、公式見解では「カチンの森事件は、ナチスドイツの仕業(しわざ)ですた」ということになっていたという。でも、ポーランド国民の多くは、真実をうすうす知っていたとされる。

なぜ、ソ連がこんなことをやったのか、理由は分からない。でも、このナゾの事件は、戦後も長い間、東欧では魚の骨みたいにノド元に突き刺さっていた。1990年、ソ連のゴルバチョフ大統領による改革の一環として、ついにソ連政府が犯行を認め、真実が明らかにされた。
 
ようやく訪れた、歴史的な雪解け。2万人を超える「カチンの森」の犠牲者が、ポーランドとロシア両国の政府によって、追悼されるときがきた。ロシアのプーチン大統領は、この事件を「犯罪」と呼んだが、ポーランドに対して謝罪はしなかったという。無念の思いでロシアの雪原に埋もれたポーランド将校の霊たちは、これに「カチン」と来たのだろうか・・・(笑えず)。
 
慰霊のためにやってきたポーランド大統領の専用機は、濃霧のため墜落し、多くの人々が露と消えた。現場では、機体の断片が散乱し、アチコチで煙が上がっていたという。大統領以外にも、中央銀行総裁をはじめ、大勢の政府高官が乗っていた。今後のポーランド政界にもたらす影響は大きい。

結局、「カチンの森」の式典は中止となった。ああ、無念。地球の歴史は、戦争と革命の歴史だ。20世紀は、それが特に激しかった。まだ、その傷はすべてが癒されたわけではない。英霊たちよ、安らかに眠りたまえ・・・。
  

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心を静める瞑想 ~ クリシュナムルティ

2010年04月10日 | クリシュナムルティ
 
クリシュナムルティが、霊的なヴィジョンについて語ることは少なかった。あるにはあるのだが、若い頃の話が多い。その代わり、クリシュナムルティの言葉は、インドやカリフォルニアの自然に対する、鋭敏な観察に満ちている。それは、散文詩のように美しい。
 
なぜ、これほどまでに自然を観察するのか。それは、意識の中であらゆる思考が静まり、心の中で沈黙しているから。人は、居酒屋で不平不満をグチグチ並べるときのように、頭の中で思考や言葉を垂れ流しているのが普通だ。それが、外界に対する感受性を鈍くしている。クリシュナムルティの場合は、瞑想によって、それを静めていた。内面的に沈黙しているから、その分、外界に対して異様なまでに鋭くなる・・・。
 
過去の記憶や、知識・経験といった、長い人生の中で積もりに積もったホコリを洗い清めて、リフレッシュする。クリシュナムルティいわく、

>乾いた土地への雨はとてつもないものですね。雨は木の葉を洗い清め、大地は生き返ります。そして、木が雨に洗われるように、私たちはみんな、心を完全に洗い清めるべきだと思うのです。なぜなら、心には幾多の世紀の塵や、知識、経験と言われるものの埃(ほこり)があまりに重く積もっているからです。

記憶からは、思考が生まれる。クリシュナムルティによれば、思考と記憶は切っても切れない関係。そもそも、思考とは、「記憶との応答」だという。風に飛ばされた塵やホコリが空中に舞い上がるように、「思考」は、意識の中に降り積もった「記憶」という死の灰を掘り返してかき回し、意識の中に舞い上がらせる。思考には、新鮮さのカケラもない。それは、記憶という死の灰が、形を変えたものにすぎない。

でも、クリシュナムルティは「思考を停止せよ」とは言わない。そもそも、思考とは、止めようとしても、止められるものではないから。それは意識の中で、自然に起きてくる。それは、自然界で風が吹いたり、雨が降ったりするのと一緒・・・。

クリシュナムルティが勧めるのは、「思考を観察せよ」ということ。いくら、頭の中の言葉を止めて、心を静めたといっても、「思考」は自然に起きてくる。その「思考」の動きを観察せよと言うのだ。自然界では、風が吹いたり、雨が降ったりしている。それと同じように、意識の中では、思考が巻き起こったり、記憶が降り積もったりしている。外では自然の動きを観察し、内では思考の動きを観察する。それが、クリシュナムルティの瞑想。

Kは、子供たちにも「思考の観察」を勧める。と言っても、難しい話ではない。静かに坐って、心の中で起きてくる思考の流れを眺めるだけだ。

>君たちは自分ひとりで散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です・・・。本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、川のさざなみや猟師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけあい、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき、君はとてつもない富を発見するでしょう。

でも、思考を観察するのは、意外に大変な作業だ。なぜかというと、思考は次から次へとドンドン起きてきて、あまりにも早く流れていくから。慣れないうちは、ついていくのが大変。「やってみれば、大変なのが分かる」と、Kも言っていた。

>やってごらんなさい。自分の思考のあらゆる過程に気づいていることが、どんなに困難なのか、わかるでしょう。なぜなら、思考は次々と、こんなにも早く積もっていくからです。
 
「やってみれば分かる」という、思考の観察の難しさ。でも、そこをあえて、取り組んでみる。もちろん、無理はせず、できる範囲で・・・。そうすれば、思考の流れがだんだん緩やかになってくるという。

>そのとき、あなたは、思考が緩やかになり、それらを眺められることに気づくでしょう。この、思考が緩やかになることと、あらゆる思考を検討するということが、瞑想の過程です。

このような瞑想のプロセスを経ることにより、「落ち着かない思考の格闘場」と化していた心の中が、沈黙し、静まり返ってくる。すると、今までは鈍くなっていた意識が、急に生き生きと、鋭敏になってくる。鋭敏になった意識の中で、「真理」が生じてくる。

>あらゆる思考に気づいていることにより、心がとても静まって、完全に静止することに気づくでしょう。そのときは欲求も衝動も、どんな形の恐怖もありません。そして、この静けさの中に真実のものが生じてきます。
  
心の静寂こそ、覚醒への第一歩。・・・とは言っても、はたして、落ち着きがないインドの子供たちに、この瞑想が実行できたのでしょうか?(笑)。


(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)

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精神も老化する ~  クリシュナムルティ

2010年04月09日 | クリシュナムルティ
 
道具や機械も、長く使っていれば、やがて古くなってくる。見た目も古くなるが、アチコチにガタがきて、使いにくくなってくる。肉体も、これに同じだ。長く生きていれば、見た目が古くなるのはもちろん、アチコチに支障を来たすようになるのは、ご存知のとおり。
 
肉体だけではない。精神もまた、老化する。子供の頃の、生き生きした精神を、大人になっても、老人になっても維持する人は少ない。

なぜ、人間の精神は老化するのだろうか。クリシュナムルティは、子供たちに問う。

>君たちは、人々が老いるにつれて、生の喜びをすべてなくしてしまうようなのは、なぜなのかと思ったことはありますか。現在、若い君たちのほとんどは、かなり幸せです。・・・生を自然に楽に受け入れて、物事を明るく幸せに見ているのです。 

>そして、老いるにつれて、はるかなもの、より大いなる意義を持つものの、その喜ばしい暗示を失ってしまうようなのは、なぜでしょう。私たちのこんなに多くが、いわゆる成熟をとげるにつれて、なぜ喜び、美しさ、大空とすばらしい大地に対して、鈍く鈍感になったのでしょう。

クリシュナムルティ自身は、90歳で死去するまで、鈍く鈍感にはならなかった。「瞑想録」を初めとして、どの本や講演も、自然に対する鋭い観察にあふれている。特に、インドの自然を見つめたエッセイの数々は、散文詩のように美しい。

Kによれば、精神が老けこんでくるのは、「過去の記憶」のせいだという。

部屋も、掃除しないでいれば、だんだん塵や埃が積もってくる。同じように、人間の精神にもまた、長く生きるにつれて、「記憶」という塵や埃が積もってくる。

「記憶」は、すでに死んで灰になっている。もしくは、意識の中に沈殿して、腐敗し、腐臭を放っている。にもかかわらず、人は記憶に縛られ続ける。

とはいっても、子供の場合は、まだ「記憶」という死の灰が、それほど積もっていない。それがウズ高く積もっているのは、大人だろう。でも、子供だって、「記憶」がゼロではない。すでに、それは積もり始めている。
 
「記憶」が溜まりに溜まってくれば、意識はそれで一杯になってくる。だんだん、重くなって身動きとれなくなる。こうして、新鮮でハツラツとしていた子供の精神は、老化し、動きがなくなっていく・・・。それを防ぐためには、「記憶」を掃除して、キレイにしなければならない。クリシュナムルティは、それを「毎日、死ぬ」ことと表現する。死んで、すべての記憶をリセット。そして、再生する。

「過去の記憶のクリーニング」といえば、ハワイの秘法、「ホ・オポノポノ」を連想するところだろう(笑)。ホ・オポノポノの場合は、「四つの魔法の言葉」を唱えて、せっせと記憶をクリーニングする。ここは、ハワイアン・スピリチュアルの出番か!?
  
もちろん、クリシュナムルティの場合は、「過去の記憶をクリーニングする」とは言わない。「毎日、死になさい」というのが、Kの教え。これは「子供たちとの対話」だってのに、子供に向かって「毎日、死になさい」ってのも凄い話だが、そこがKのKたるゆえん・・・(笑)。 

(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)
 

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子供たちとの対話 ~ クリシュナムルティ

2010年04月08日 | クリシュナムルティ
   
クリシュナムルティに、「子供たちの対話」という本がある。日本での人気は今ひとつなのだが (そもそも、K自身の認知度が、日本ではイマイチ・・・)、アメリカではKの代表作として、最も親しまれているという。

世界各地で、一種の学派(?)を形成するに至った、シュタイナー・スクール。教育者でもあったルドルフ・シュタイナーが、独特の教育観を体現した学校として有名だ。「美味しんぼ」の雁屋哲氏は、わざわざ子供たちをオーストラリアのシュタイナー学校に留学させたという。

それに比べて、クリシュナムルティ・スクールは、世界に広がるには至らなかった。インドに数校、後はイギリスとアメリカにあるくらいだ。でも、関係者の評価は高い。こんな風に、規模を追わないところもまた、クリシュナムルティらしさと言える。

そんなインドのクリシュナムルティ・スクールでの、子供たちやPTA諸氏とのKの対話を収録した本。それが、「子供たちとの対話」。

Kの著書は一般に、難解だという人が少なくない。哲学者でもあるシュタイナーとは違って、難しい言葉が使われているわけではないのだが、Kの言いたいことが何なのかは、シュタイナーと同じくらい分かりにくい(笑)。筆者に言わせれば、難解というより、「読んでも頭に残らない」という方が当たっているように思う。もともと、頭に残すために読むようなものではないので、こればっかりは仕方がないのだが・・・。そんな中では、「子供たちとの対話」が、最も入りやすい。

子供からの質問は、ときに素朴で、ときに屈折している。屈折した質問が出たときのKは、「小さな子供が、こんなことを質問する世の中だ・・・」と、世間に批判を向けている。でも、それは仕方がないだろう。こんなに歪んだ世の中では、いくら子供でも、屈折するのは仕方がない。筆者が小学生の頃に書いていた作文なども、本ブログの文章とすでに似たような雰囲気だった(笑)。

「魂は、死後も残るのでしょうか?」といった、おなじみの形而上的な質問もあるのだが、それに対してダイレクトに回答を与えず、考えさせるように仕向けるのが、クリシュナムルティ流。相手が子供とはいえ、Kが説いている内容は、いつもと変わらない。「思考を観察せよ」というのを、子供たちにも勧めている。

>君たちは目を閉じて、とても静かに坐り、自分の思考の働きを眺めたことがありますか。自分の心が働いているのを眺めるというか、心が作動している自分を眺め、自分の思考は何か、感情は何か、どのように提案に応答し、新しい考えに反応するのかを、ただ見たことがありますか。やってみたことがありますか。やったことがなければ、君たちはとても多くのことを逃しています。
  
という具合に、さりげなく語られているとはいえ、実は大変な奥義だったりする。もっとも、聴いている子供たちには、これが奥義だということなど、知る由もなかったでしょうが・・・。
 
(J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)


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選ばれた14万4千人 ~ ヨハネ黙示録

2010年04月08日 | 精神世界を語る
 
最近、「14万4千人が覚醒することにより、地球が変わるらしい」という、新たな都市伝説が生まれている。一部の精神世界関係者の間で、この説が静かなブームとなりつつある。ダリル・アンカ氏がチャネリングする「バシャール」も、この説を唱えて評判になった。
 
「144」は「12」の2乗。「12」は多くの約数(1,2,3,4,6)を持つ、安定感のある美しい数字。古代ギリシャの時代から、別格あつかいされてきた神秘数だ。シュメール神話に出てくるアヌンナキも、代表的なのは12神。それを継承してか、ギリシャ神話の神々も、ご存知「オリュンポスの12神」。
 
「エホバの証人」という有名な団体も、かつては「最後の審判が起こり、14万4千人が救われる」という説を唱えていた。世界に広がった同団体の信者数は、いまや14万4千人をはるかに超えている。「信者さんでさえ、全員が救われるというワケではないんですね」と、アンチから嫌味を言われるネタとなっているのは、周知の事実だ(笑)。

それはともかく、これらの「14万4千人」という数字の出元が、新約聖書の「ヨハネ黙示録」にあるのは疑う余地がない。

ヨハネ黙示録 第7章より

>この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。

>また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
 
>「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
 
>わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
 
>ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされた、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、セブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印を恐れた。

同 第14章より

>なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人人が小羊と共におりその額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。

>またわたしは、大水のとどろきのよう、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。

>彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。

(以上、某サイトからのコピペ)

シオンの山の頂で、ヨハネは見た。そこには、神の小羊・イエスキリストが立っていた。子羊の周囲では、14万4千人の人たちが、ハープに合わせて大合唱していた。それは、今まで誰も聞いたことのない歌。この14万4千人以外は、誰も歌うことができない。

この14万4千人こそは、神の使いから、額に印を押された者たち。

つまり、「ヨハネ黙示録」によれば、ユダヤの12支族のうち、神から聖別された者たちが「14万4千人いる」というのだ。12支族から、それぞれ1万2千人。だから、12の2乗(144)に、千人をかけた人数となる。
 
「ユダヤの12支族」と言えば、どうしても「日ユ同祖論」を連想してしまう。「失われた10支族」が、日本人の祖先だという有名な説だ。ここに登場する「神の使い」は、「日の出る方」からやって来る。「日の出る方」と言えば、やはり「日本」を連想する向きが多いだろう。
 
もっとも、これは「女に触れたことのない純潔な者」に限られるという。深読みすれば、「子供」ということを意味しているのかもしれない。これについては、「ヨハネ本人が、個人的に女嫌いだった」という説もあるのだが・・・(笑)。

それはともかく、はたして、これは額面どおりに受け取るべき内容なのか。それとも、何かを象徴しているのだろうか。それは、誰も知らない・・・。
 

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なぜか、スズメが激減している

2010年04月08日 | こっくり亭日記


ここ数年で放鳥されてきたトキが、ついに、自然界で産卵したことが確認された。

日本では絶滅してしまったトキ。環境省は、中国からトキを導入して人工繁殖で増やしてきた。増えた結果、2008年から放鳥が始まった。ここまでの道のりは長かった。とくに、9羽が急死したときのショックは大きかった。犯人は、美しい毛皮を持つ胴長で俊敏な動物、テンだった。トキの敵は、人間だけではなかったのだ・・・。それでも、これまでに30羽が放鳥され、3組が巣作りしている。対岸の新潟に渡ったときも話題になったが、今は富山県を越えて、福井にまでトキが広がっているという。自然界での繁殖が進めば、日本全国の空をトキが飛び回る日が、きっと来るだろう。

めでたい話の一方で、気になるのは「スズメが激減している」というニュース。

環境省の調査によれば、過去20年間で、日本のスズメは8割も減ってしまったという。50年前と比べれば、1割も残っているかどうか・・・という状況にあるらしい。
 
「田んぼの農薬のせいかなあ?」というのが素朴な意見だと思うのだが、話はそう単純でもない。実のところ、スズメは徐々に減っているだけでなく、このところ急激に消滅しているようなのだ。

2006年には、北海道で「急に、スズメが飛んでこなくなった」という問い合わせが相次ぎ、北海道新聞が 「スズメ、どこへ-全道各地で今冬 大量死?移動?謎めく原因」という記事を出したほどだという。

それだけではない。実のところ、これは日本だけの傾向ではなく、イギリスでもスズメの激減が深刻な問題となり、当局が原因究明に乗り出しているらしい。

数年前から、「ミツバチが消えた!?」というのがニュースとなり、本ブログでも取り上げたものだった。世界各国で一斉にハチがいなくなるという奇妙な現象は、「蜂群崩壊症候群」(CCD)と名づけられ、今も原因が取りざたされている。
 
ハチだけなら分かるのだが、スズメまで消えたとなると、いよいよナゾが深まるばかりですな・・・。
 

 
  
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メルトダウンする自民党

2010年04月08日 | こっくり亭日記
  
野党に転落した自民党から、離党者が続出している。ついに、与謝野馨氏も離党して、平沼赳夫氏とともに新党を結成した。与謝野氏といえば、麻生政権において、「経済が分かるのは与謝野しかいない」(ホントかよ・・・?)とばかりに、経済・財政・金融を一手に引き受けていた大物だ。それだけに、衝撃は大きい。
 
一方の平沼氏は、郵政民営化に反対して自民党から除名された、いわゆる「抵抗勢力」だ。こちらは「経済」というより、タカ派的な主張で知られる人物。まったく、水と油に近い・・・。

新党名は、「たそがれ日本」。ん・・・!? よく見たら、「たちあがれ日本」だった(笑)。

そんな中で、舛添さんは、いったい何をやっておられるのでしょうか。谷垣総裁を批判したのは、やはり、自民党総裁の座を狙ってのアピールだったのか!?
 
それはともかく、半世紀以上にわたって日本を一党支配してきた、自民党のメルトダウンが急速に進んでいる。政権を握っていた頃と違って、誰も陳情に来ない。その寂しさに耐えられないのだろう。支持率が低下している民主党政権だが、対立政党がこの調子では、磐石の長期政権になりそう。
 
昔の派手な革命と違って、平和的な政権交代なのだが、予想外に大きな歴史の節目となりつつある。それにしても、中国共産党よりも、日本の自民党の方が、崩壊するのは早かったか・・・。なんだかんだ言っても、日本の方が変化は早い。2010年は、上海万博の年でもある。今年は、東アジアの激動を予想する声が多い。激動の先陣を切ったのは、やはり日本だった。最近は株価が回復し、為替も円安傾向の日本。変化が早い時代だけに、経済的な復調も、意外と早いかもしれない・・・。
 
 
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シンクロニシティの世界

2010年04月04日 | 精神世界を語る
 
最近のエハン・デラヴィ氏が強力に提唱しているのは、「シンクロニシティ文明」だ。

シンクロニシティとは、ユングが言い出した言葉。「共時性」と訳される。ひらたく言えば、「偶然だけど、偶然じゃない」といったところか。

「シンクロニシティ」の提唱者、ユング自身が引き合いに出した事例は、こうだ。1805年、フランスの詩人エミール・デシャンは、F氏からプラム・プディングをおごってもらった。10年後、デシャンはパリのレストランでプラム・プディングを注文しようとした。だが、店員から「プラム・プディングは品切れです」と言われた。最後の一皿を受け取っていたのは、なんと、あのF氏であった。その後、1832年にデシャンがある集会に出席したとき、プラム・プディングが出てきた。思わず懐かしくなったデシャンは、「もしも、ここにF氏がいたなら、状況は完璧になるのだが」と言った。言い終わると同時に、なんと、年老いたF氏がその部屋に入ってきたのである・・・。

エハン氏にも、似たような経験がある。あるとき、若き日のエハン氏は、付き合っていた彼女から、赤いジャケットを買ってもらった。付き合っている間は、そのジャケットをよく着ていたが、いつしか関係は終わるときがきた。赤いジャケットは、クローゼットの片隅にひっそりと眠ってた・・・。10年以上たったある日、突然、その赤いジャケットを着たくなったエハン・デラヴィ氏。ジャケットを着て、アジアのある町を歩いていたところ、背後から急に名前を呼ばれた。振り向いたら、10年以上前の彼女だった・・・。

・・・というようなケースは、偶然のようで、偶然ではない。

今までの世界は、「因果律」が支配していた。「ああすれば、こうなる」、「こうすれば、ああなる」という、原因と結果の法則が支配する世界だった。

でも、これからは、そうではない。これからは、シンクロニシティの世界になる。偶然のような必然によって、変わっていく世界だ。

今までは、原因が発生してから、結果が出るまでに時間がかかった世界。これからは、原因と結果が同時に起こり、瞬時に変わる世界。エハン・デラヴィ氏によれば、これからの世界は、シンクロニシティがもっと頻繁に起きるようになる。とくに、日本において最も頻繁に体験されるという。

実のところ、筆者自身、シンクロニシティが起きることはしょっちゅうだ(もちろん、ユングの事例ほど劇的なものじゃないけど・・・)。先週も、小さなシンクロがあった。ある朝、「何ヶ月か前に貸した本を、そろそろ返してくれないか」と知人に言われた筆者は、借りた本を探した。でも、あるはずの場所に、本がない。手を尽くして探してみたのだが、やっぱり見つからなかった。仕方がないので、「どうやって、この件をウヤムヤにしようか」と考えていると、また別の知人から、「久しぶりに、こちらに寄ってみませんか?」という電話。とくに断る理由もないので訪問し、積もる話をしていたところ、その知人は、「そうそう。見覚えのない本が本棚にあるんだけど、これはアナタが置き忘れていったのではないですか?」といって、本を差し出してきた。なんと、それは、朝から探していた本だった・・・。

シンクロニシティを起こすには、頭の中をカラッポにして、無心になるに限る。「原因があるから、結果があるのだ」というような、論理的な信念を捨てて、直観的に生きることだ。そうすれば、シンクロが起きてくる(・・・はずだ)。

2012年までに本物のシンクロニシティ文明が確実に始まる。そう、エハン・デラヴィ氏は断言する。さぞかし、ビックリするようなことが、次々に起きてくるだろう!!
 

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ジュード・カリヴァン博士が見た、アヌンナキの姿

2010年04月04日 | シュメール神話 アヌンナキ

 
「あなたはスピリチュアルな錬金術師になる」という本によると、ジュード・カリヴァン博士は、あるとき「アヌンナキ」のビジョンを見たという。いわく、

>その瞬間(註:北京で、龍の文様を刻んだ壁に囲まれたとき)、心の中に映像が浮かび上がり、私はそのメッセージに自分をゆだねました。

>私が見たもの、それはアヌンナキが最初に地球にやってきた当時の情景でした。この旅でエンリルとエンキの両エネルギーに結びついていた私に、はるかなる昔、彼らがなにを考えていたかが伝わってきました。

カリヴァン博士が見たビジョン。それは、アヌンナキたちが地球の鉱山を深く掘り進んでいく姿だった。アヌンナキは、人間ではない。それは爬虫類の姿をした、爬虫類人(レプティリアン)だ。

いつ果てるともしれない、つらい鉱山労働。アヌンナキたちは、ホトホト疲れ果てていた。でも、彼らには金が必要だ。彼らの故郷・惑星ニビルでは、地球から金が届くのを、皆が待っている。はるばる、こんな南アフリカの金鉱に出稼ぎに来ているのは、そのためだ。

悩み苦しんでいた、アヌンナキ。でも、やがて、彼らはホッとして喜び始めた。遠いシュメールの本部から、良い知らせが届いたのだ。なんと、雲の上のお方、偉大なるアヌンナキの長・エンリルが、彼らに代わる労働者を創り出してくれるんだそうな。ヤレヤレと安堵する、アヌンナキの労働者たち。
 
新たなる労働者を創出するのは、エンリルの弟で、天才的な科学者のエンキだ。彼は、地球の猿人に遺伝子操作することによって、優秀な人類を創り出そうとしていた。彼は、人類とアヌンナキを交配して、新しい種を作った。「神々と人間の娘たちが交わり、子孫を残した」と、シュメール神話や旧約聖書には記されている・・・。

エンリルの意図とは異なり、エンキは、人類に希望を見出していた。というのも、交配種である人類には、アヌンナキにないものを持っていた。それは、感情と創造の情熱、そのエネルギー。エンキは、交配の結果できたハイブリッドの人類に、アヌンナキを超える、何か偉大なるものを見ていた。

エジプトへの旅を通じて、カリヴァン博士はエンキの存在を直接認識するようになったという。でも、エンリルとは結びつきたくなかった。エンキならともかく、人類を奴隷化しようとしたエンリルなんて、大嫌い・・・というわけだ。

でも、北京で龍の文様に囲まれたとき、カリヴァン博士はエンリルのエネルギーを感じたという (龍と、レプティリアンの長であるエンリルとは、切っても切れない関係なのだ・・・)。そのとき、エンリルの胸の内が、初めて伝わってきた。エンリルにも、実は悪気はなかった。彼は彼なりのやり方で、同胞たちを助けようとしただけなのだ・・・。

そのとき、カリヴァン博士の心の中に、エンキとエンリルが互いに歩み寄り、ついには抱き合うというビジョンが見えたという。エンキとエンリル。人類を創造する者と、人類を抑圧する者。ふたつの対極的なエネルギー、人類の歴史と同じくらい古くからの亀裂が、再びひとつに結び合わされるのを感じた。

カリヴァン博士によれば、私たちは皆、地球土着の生物と、宇宙外来のアヌンナキとの交配種。一人ひとりの中に、エンキとエンリルという異なるエネルギーが両方存在することを認め、それを融和させなければならない・・・ということらしい。それは、自分自身にも、エンリルの要素が存在するという自覚。自分自身や他人をコントロールし、奴隷化しようとする要素が、自分にもあると認めることだ。同時に、聡明なる人類の始祖、エンキのエネルギーもまた、自分の中に存在する。 
 
対極的な2つのエネルギーを統合したとき、人類の新たな境地が切り開かれる。いまや、奴隷として創造された人類にも、解放され、飛躍するときがきた・・・。
  
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地球巡礼者たち

2010年04月04日 | 精神世界を語る
 
アセンション情報を漁り始めたついでに、「あなたはスピリチュアルな錬金術師(トランスフォーマーになる)」という本を読んだ。アセンションのオピニオン・リーダーとして頭角を現してきたジュード・カリヴァン博士が、あのエハン・デラヴィ氏と対談したという、注目の一冊。「2012年の地球大変革」を、力強く語っている。

この2人には、共通点がある。それは、「地球巡礼者」だということだ。エハン・デラヴィ氏は、ペルーやエジプトを初めとする世界各地の聖地やパワースポットと呼ばれる場所を回り、「地球巡礼者」という映画を製作した。テクテクと四国のお遍路さんまでやったのだから、たいしたものだ。一方、カリヴァン博士も、「エロヒム」の声に導かれて世界の13ヶ所を巡礼し、世界各地に「12のソーラー・ディスクを設置する」というミッションを達成したという。その体験記を「2012年に向かっての13のステップ」という本にまとめた(ソーラー・ディスクとは何なのかを知りたければ、この本を読むしかないみたい・・・)。

日本における「アセンション」の草分けであり、20年がかりでアセンション情報を集めてきた、エハン氏は言う。2012年に関して、私の答はもう既に出ています。その答は、「地球の一人一人がみな、自分それぞれの地球巡礼者になる以外ない」というものだそうだ。それに対して、カリヴァン博士も「すばらしい結論です!!」と全面的に同意する。う~ん、そうだったのか。それなら、筆者もせめて、近所の神社や祠でも巡礼してこよう・・・(笑)。
 
ジュード・カリヴァン博士は、「2012年に還暦を迎える」という女性。ヒーラーでもあり、科学者でもあるという。「宇宙物理学と量子物理学で博士号を取得し、考古学でも博士号を取得した」という本格派だ。船井幸雄氏や、中矢伸一氏とも著書を出している。「宇宙につながる第8のチャクラ」という本も出版した。

4歳の頃から、古代エジプトの「トート神」から導きを受けていたという。「太陽神ラー」なら、筆者にとってもナジミ深い(?)存在なのだが、「トート神」とは意表を突かれた。トートといえば、鳥の姿をした「知恵の神様」というイメージ・・・。

エハン氏によると、「巡礼者」というのは、単なる「旅人」とはちょっとニュアンスが違うらしい。いわく、旅人は、好奇心とか、冒険心とか、開拓心とか、そういったものを動機にして旅をしている。だが、巡礼者は、ちょっと違う。

巡礼者は、聖地に向かって移動する。他の巡礼者たちとコミュニケーションをとりながら、「移動するコミュニティ」となる。「目的地にたどりついたら、こうなる」というようなビジョンは持っていない。だが、皆と「私たちは移動する生命体なのだ」という意識を共有しているという。

カリヴァン博士もまた、世界の各地に移動しつつ、そのたびにエロヒムから新たな目的地を告げられたという。「次は、中国に行きなさい」というように。まるで、ロールプレイングゲームみたい。

巡礼者は、なにものにも束縛されない。真に流動的な精神の持ち主だ。その点では、日本で托鉢行する坊さん、「雲水」と似ている。
 
彼らの地球巡礼は、旅行によほどの時間を使える人でなければ出来ないスケールのものだ。それは、日常生活に追われている人には無理。でも、重要なのは行動のスケールではなく、意識のあり方だろう。たとえ、近所の神社や祠の巡礼にすぎなくても、意識の上では「地球巡礼者」であっていい(笑)。
 

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