クリシュナムルティが、霊的なヴィジョンについて語ることは少なかった。あるにはあるのだが、若い頃の話が多い。その代わり、クリシュナムルティの言葉は、インドやカリフォルニアの自然に対する、鋭敏な観察に満ちている。それは、散文詩のように美しい。
なぜ、これほどまでに自然を観察するのか。それは、意識の中であらゆる思考が静まり、心の中で沈黙しているから。人は、居酒屋で不平不満をグチグチ並べるときのように、頭の中で思考や言葉を垂れ流しているのが普通だ。それが、外界に対する感受性を鈍くしている。クリシュナムルティの場合は、瞑想によって、それを静めていた。内面的に沈黙しているから、その分、外界に対して異様なまでに鋭くなる・・・。
過去の記憶や、知識・経験といった、長い人生の中で積もりに積もったホコリを洗い清めて、リフレッシュする。クリシュナムルティいわく、
>乾いた土地への雨はとてつもないものですね。雨は木の葉を洗い清め、大地は生き返ります。そして、木が雨に洗われるように、私たちはみんな、心を完全に洗い清めるべきだと思うのです。なぜなら、心には幾多の世紀の塵や、知識、経験と言われるものの埃(ほこり)があまりに重く積もっているからです。
記憶からは、思考が生まれる。クリシュナムルティによれば、思考と記憶は切っても切れない関係。そもそも、思考とは、「記憶との応答」だという。風に飛ばされた塵やホコリが空中に舞い上がるように、「思考」は、意識の中に降り積もった「記憶」という死の灰を掘り返してかき回し、意識の中に舞い上がらせる。思考には、新鮮さのカケラもない。それは、記憶という死の灰が、形を変えたものにすぎない。
でも、クリシュナムルティは「思考を停止せよ」とは言わない。そもそも、思考とは、止めようとしても、止められるものではないから。それは意識の中で、自然に起きてくる。それは、自然界で風が吹いたり、雨が降ったりするのと一緒・・・。
クリシュナムルティが勧めるのは、「思考を観察せよ」ということ。いくら、頭の中の言葉を止めて、心を静めたといっても、「思考」は自然に起きてくる。その「思考」の動きを観察せよと言うのだ。自然界では、風が吹いたり、雨が降ったりしている。それと同じように、意識の中では、思考が巻き起こったり、記憶が降り積もったりしている。外では自然の動きを観察し、内では思考の動きを観察する。それが、クリシュナムルティの瞑想。
Kは、子供たちにも「思考の観察」を勧める。と言っても、難しい話ではない。静かに坐って、心の中で起きてくる思考の流れを眺めるだけだ。
>君たちは自分ひとりで散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です・・・。本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、川のさざなみや猟師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけあい、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき、君はとてつもない富を発見するでしょう。
でも、思考を観察するのは、意外に大変な作業だ。なぜかというと、思考は次から次へとドンドン起きてきて、あまりにも早く流れていくから。慣れないうちは、ついていくのが大変。「やってみれば、大変なのが分かる」と、Kも言っていた。
>やってごらんなさい。自分の思考のあらゆる過程に気づいていることが、どんなに困難なのか、わかるでしょう。なぜなら、思考は次々と、こんなにも早く積もっていくからです。
「やってみれば分かる」という、思考の観察の難しさ。でも、そこをあえて、取り組んでみる。もちろん、無理はせず、できる範囲で・・・。そうすれば、思考の流れがだんだん緩やかになってくるという。
>そのとき、あなたは、思考が緩やかになり、それらを眺められることに気づくでしょう。この、思考が緩やかになることと、あらゆる思考を検討するということが、瞑想の過程です。
このような瞑想のプロセスを経ることにより、「落ち着かない思考の格闘場」と化していた心の中が、沈黙し、静まり返ってくる。すると、今までは鈍くなっていた意識が、急に生き生きと、鋭敏になってくる。鋭敏になった意識の中で、「真理」が生じてくる。
>あらゆる思考に気づいていることにより、心がとても静まって、完全に静止することに気づくでしょう。そのときは欲求も衝動も、どんな形の恐怖もありません。そして、この静けさの中に真実のものが生じてきます。
心の静寂こそ、覚醒への第一歩。・・・とは言っても、はたして、落ち着きがないインドの子供たちに、この瞑想が実行できたのでしょうか?(笑)。
(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)
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