過去も未来もない、「いま、ここにいる」という目覚め。
「いまここ」なんて言ったら、どこかの有名ブログみたいだけど、これは「ビーヒアナウ」という英語からの訳語で、精神世界では昔からある古くて新しい言葉。
「現代のスピリチュアルリーダー」と称されるエックハルト トールも、代表的な「いまここ」主義の伝道者の1人だ。トールは、「人類の目覚めは近い。それは地球に巨大な変容をもたらす」という内容の「ニューアース」を書いて、驚異的なベストセラーになった。
では、トールのいう「人類の目覚め」とは何なのか。一言で言えば、人類が「ビーヒアナウ」の精神に気づくことなのだ。
「コルマンインデックス」のコルマン博士も、「マヤ暦の終了とともに、人類は、いま、ここのみに生きるようになる」と、しきりに強調していた。
つまり、こういう世界的なスピリチュアルリーダーたちにとって、人類の意識進化とは、「いま、ここ」の精神に目覚めることを意味している。
日本人には、勤勉の美徳が浸透しているせいか、「人生は修行なのです。何度も生まれ変わりながら、私たちは永遠に魂を磨いていくのです」というような、ある意味、マジメな努力型の人生観・輪廻転生観が受け入れられやすい。だから、日本の新宗教の教義は、そうなってることが多い。
確かに、見る角度によっては、そういう面もあるのは事実だろう。でも、地球の物質世界での人生がそれほど有意義なものなら、いまごろ地球は意識覚醒した人であふれかえっているはずだ。実際には、そんなことはない。
それに対して、輪廻転生思想の本場・インドでは、古来より、それとはまったく異なる捉え方をしている。たとえば、お釈迦さまの教えに、「意識進化に向かう魂修行」というような、輪廻転生を前向きにとらえる発想があるだろうか。はっきり言おう。ありません。
お釈迦さまにとって、輪廻転生とは、酔っぱらって前後不覚の記憶喪失になった人が、同じところをグルグル回って、いつまでも道に迷ってるようなものだ。そんな迷宮から抜け出すためには、目を覚ますしかない。
そこに、「人生は魂の修行なのだ」という考え方は見られない。むしろ、「魂の修行」というのは、そんな人生をサッサと捨てて、出家したときから始まるものなのだ。そこで初めて、堂々巡りで進歩のない輪廻転生から抜け出し、意識進化へと向かう道すじが開ける。
そこで、「さあ、君も目を覚ましてみないか?」というわけで、そのカギを握るのは禅定、つまり深い瞑想に入ること…というわけだ。
瞑想でもっとも重視されるのは、思考を止めること。かの「現代で最高の聖者」とされるクリシュナムルティも、思考を止めることの重要さを強調していた。
なぜかというと、人間が考えてることといったら、たいてい、過去の記憶か、未来への願望もしくは恐怖からくる、ああでもない、こうでもないという、堂々巡りのグルグル回りだからだ。
「思考を止める」とは、過去のことも、未来のことも、気にするのをヤメること。そして、「現在」のみに意識のビントを合わせて絞りこむ。
つまり、「思考を止めよ」というのも、「いま、ここに生きよ」というのも、言ってることは、ほとんど同じ。これらは、2つでひとつのワンセットなのだ。
そろそろ結論だけど、実際のところ、瞑想という手段によらずして、意識覚醒するのは難しいと思われる。
そりゃ、中には、日常生活を淡々と生きていくだけで、「地球卒業!」の域に達する人もいるだろう。でも、そんな人は、優曇華の花より珍しいくらいだ。
もちろん、「愛と知」は大事だし、ポジティブシンキングやワクワク感も重要だ。他にも大事なことは山ほどあって、挙げていったらキリがない。
結局のところ、ここに挙げてきたようなことは、すべて重要なのだ。でも、最後の決め手は、やっぱり瞑想。瞑想によって、意識を「いま、ここ」にギュイーンと集中し、観察力をギリギリギリと極限まで高め、一気にガーッと昇天する。
何を重視するかは人それぞれだろうけど、いずれにしても、最終的には、それが決め手になるように思われる…。
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