まずは、思考や反応を止める。そのためには、ヴィパッサナー瞑想を学ぶ必要があると思われる。他にも瞑想の手法はいろいろあるし、現代では強力な瞑想ツールも開発されているのだが、他の目的はともかく、思考を止めるためには、やっぱり昔も今もこれに限る。
日頃は空気や水のことなど特に意識しないが、なくなってみて初めてその存在を意識するように、思考もまた、止めてみて初めて存在に気づくものだ。日頃は、ほとんど自覚できない。
思考や反応を止めてみると、自分という存在が、本当に空っぽになったように感じられる。身体には、眠っていても形がある。精神には、それがない。いつものグルグルと渦巻いている思考や、絶え間なく続いている反応が消失してしまうと、本当に何も残らないという感じ。
「自分とは、本質的に何なのか」というテーマは、ここで初めて観察するに値するものとなる。それまでは、どれだけ考えてみても、あまり変化がない。地球の裏側まで「自分探しの旅」をしてみても、地球に対する理解は格段に深まるだろうけど、「自分」はまた別問題だ。
古代インドの釈尊は、「霊魂というのは、錯覚の産物だ」と、口を酸っぱくして説いていた。それは、霊魂の実在を信じている人々の大半が、こうした思考や反応その他を「霊魂」と錯覚しているにすぎないからだ。
思考や、反応・感情・識別・記憶・・・その他は、自分ではない。そういう「自分でないもの」を、ひとつひとつ取り除いていく。
そうすると、残るものは何もない。それが「自分」という存在の本質なのである。
要するに、「何もない」というのが、自分という存在の本質。何もないのだから、もちろん、霊魂もない。
・・・なんてことを書くと、またぞろ、新興宗教の信者諸氏からお叱りを受けることになりそうだ(笑)。彼らに言わせれば、「OO先生によれば、お釈迦さまは霊魂の不滅を説いたということになってます。ですから、アナタの言ってることは間違いです」ということになるらしい。
まあ、それは例えてみれば、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」を書いたようなものだ。本の中では、古代ペルシャの聖者ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が語っているのだが、語る中身は100%、ニーチェの思想。信者諸氏の言う「OO先生の釈迦」もそれと同じで、中身はOO先生の思想なのである。
話はさらに脱線するのだが、船井会長が最近、「人間の本質は霊魂であり、この世とあの世を往ったり来たりしている存在なのだ」という主旨の本を出した。それが、「30代から精神世界の探究を始めて、長らく取り組んできた成果としての結論」であるらしい。
もちろん、それを間違っているとは言わないし、否定できるようなものでもない。でも、それを最終結論にして、はたして満足できるのだろうか。
物事は、見る角度によって、見えかたが変わってくるものだ。船井会長が言ってることも、ある角度から見た場合には、もちろん正しい。でも、それは「長年にわたって探求してきた人の最終結論」としては、かなり寂しいものがある。むしろ、失礼ながら、それはこの分野の初心者に向いた教えなんじゃなかろうか。初心の人に、精神世界に対して興味を持ってもらうには良い話材と思うのだが、それ以上に追求してみても、あんまり意味がない。
この問題が気になるのには、ワケがある。というのも、船井会長の周囲の取り巻きには、左翼崩れの人も多いけど、新興宗教の関係者も少なくないからだ。個人的に、船井会長が数年前に講演で「私は、精神世界については世界一詳しいんじゃないかと言われている」と豪語していたのが印象に残っているのだが、他のことならともかく、知識の深さ広さに限って言えば、多忙なビジネスマンの傍ら30代までこの分野と無縁だったという人が、そこから「世界一詳しく」なることなんかあり得ないでしょうと、正直あきれてしまった。そんな船井会長が、新興宗教界の諸事情までご存知ないのは仕方ないのだが、よほど気を付けないと、いつの間にか宣伝マンになってしまう恐れがあると言わざるを得ない・・・。
それはともかく、この釈迦の話の主旨は、「アナタがたが不滅の霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではなく、錯覚の産物にすぎない」というところにある。死後の世界はあるとか、ないとか、そういうことを言っているわけではない。ここが、信者諸氏には極めて難解で、説明するのが困難なところだ。
釈迦は、弟子たちに言っていた。
「霊魂は不滅だとか、霊界は実在するとか、しないとか・・・。そういう教えは、役に立たない」と。
ここで注意すべきことには、釈迦は、別にそれらを「間違っている」と言ってるわけではない。そうではなくて、「役に立たない」と言っているのである。
何の役に立たないのかというと、「意識の覚醒」に役立たない。
ひいては、「輪廻転生からの卒業」に役立たない。
要するに、涅槃(ねはん)に役立たない・・・。
日頃は空気や水のことなど特に意識しないが、なくなってみて初めてその存在を意識するように、思考もまた、止めてみて初めて存在に気づくものだ。日頃は、ほとんど自覚できない。
思考や反応を止めてみると、自分という存在が、本当に空っぽになったように感じられる。身体には、眠っていても形がある。精神には、それがない。いつものグルグルと渦巻いている思考や、絶え間なく続いている反応が消失してしまうと、本当に何も残らないという感じ。
「自分とは、本質的に何なのか」というテーマは、ここで初めて観察するに値するものとなる。それまでは、どれだけ考えてみても、あまり変化がない。地球の裏側まで「自分探しの旅」をしてみても、地球に対する理解は格段に深まるだろうけど、「自分」はまた別問題だ。
古代インドの釈尊は、「霊魂というのは、錯覚の産物だ」と、口を酸っぱくして説いていた。それは、霊魂の実在を信じている人々の大半が、こうした思考や反応その他を「霊魂」と錯覚しているにすぎないからだ。
思考や、反応・感情・識別・記憶・・・その他は、自分ではない。そういう「自分でないもの」を、ひとつひとつ取り除いていく。
そうすると、残るものは何もない。それが「自分」という存在の本質なのである。
要するに、「何もない」というのが、自分という存在の本質。何もないのだから、もちろん、霊魂もない。
・・・なんてことを書くと、またぞろ、新興宗教の信者諸氏からお叱りを受けることになりそうだ(笑)。彼らに言わせれば、「OO先生によれば、お釈迦さまは霊魂の不滅を説いたということになってます。ですから、アナタの言ってることは間違いです」ということになるらしい。
まあ、それは例えてみれば、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」を書いたようなものだ。本の中では、古代ペルシャの聖者ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が語っているのだが、語る中身は100%、ニーチェの思想。信者諸氏の言う「OO先生の釈迦」もそれと同じで、中身はOO先生の思想なのである。
話はさらに脱線するのだが、船井会長が最近、「人間の本質は霊魂であり、この世とあの世を往ったり来たりしている存在なのだ」という主旨の本を出した。それが、「30代から精神世界の探究を始めて、長らく取り組んできた成果としての結論」であるらしい。
もちろん、それを間違っているとは言わないし、否定できるようなものでもない。でも、それを最終結論にして、はたして満足できるのだろうか。
物事は、見る角度によって、見えかたが変わってくるものだ。船井会長が言ってることも、ある角度から見た場合には、もちろん正しい。でも、それは「長年にわたって探求してきた人の最終結論」としては、かなり寂しいものがある。むしろ、失礼ながら、それはこの分野の初心者に向いた教えなんじゃなかろうか。初心の人に、精神世界に対して興味を持ってもらうには良い話材と思うのだが、それ以上に追求してみても、あんまり意味がない。
この問題が気になるのには、ワケがある。というのも、船井会長の周囲の取り巻きには、左翼崩れの人も多いけど、新興宗教の関係者も少なくないからだ。個人的に、船井会長が数年前に講演で「私は、精神世界については世界一詳しいんじゃないかと言われている」と豪語していたのが印象に残っているのだが、他のことならともかく、知識の深さ広さに限って言えば、多忙なビジネスマンの傍ら30代までこの分野と無縁だったという人が、そこから「世界一詳しく」なることなんかあり得ないでしょうと、正直あきれてしまった。そんな船井会長が、新興宗教界の諸事情までご存知ないのは仕方ないのだが、よほど気を付けないと、いつの間にか宣伝マンになってしまう恐れがあると言わざるを得ない・・・。
それはともかく、この釈迦の話の主旨は、「アナタがたが不滅の霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではなく、錯覚の産物にすぎない」というところにある。死後の世界はあるとか、ないとか、そういうことを言っているわけではない。ここが、信者諸氏には極めて難解で、説明するのが困難なところだ。
釈迦は、弟子たちに言っていた。
「霊魂は不滅だとか、霊界は実在するとか、しないとか・・・。そういう教えは、役に立たない」と。
ここで注意すべきことには、釈迦は、別にそれらを「間違っている」と言ってるわけではない。そうではなくて、「役に立たない」と言っているのである。
何の役に立たないのかというと、「意識の覚醒」に役立たない。
ひいては、「輪廻転生からの卒業」に役立たない。
要するに、涅槃(ねはん)に役立たない・・・。
季節の秋が寂しいという人もいます。
気持ちがよいという人もいます。
コンサルさんは気持ちが良い派なんでしょうか。
私は気持ちが良い派なんですが、ドラゴンさんのおっしゃる真我ってあったほうが楽しいと思い始めています。
幻想かもしれませんが、フーマンとの対話なんか、解説だけでもワクワクしてしまいます。
ま、趣味の問題でしょうかね。
>幻想かもしれませんが、フーマンとの対話なんか、解説だけでもワクワクしてしまいます。
ま、趣味の問題でしょうかね。
真我そのものは大いに結構なことだと思います。
「究極にはバーチャルな存在である」ってだけでして・・・(笑)。