日韓の歴史をたどる㉔ 強制労働動員 武力を背景に まともに賃金払わず
樋口雄一
ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。
『朝鮮人戦時労働動員』(共著)、『協和会』ほか
朝鮮半島から米を収奪する日本の植民地政策により、朝鮮の9割を占める農民の暮らしは窮迫しました。そこに、さらなる困難をもたらしたのが、戦時下の経済・社会の統制でした。戦時動員が朝鮮人民衆全員に強制されたのです。
福岡県八幡市(当時)の朝鮮人労働者=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から
動員名簿を作り住民を統制管理
朝鮮総督府と国民総力朝鮮連盟(日本の隣組制度にあたる)が住民一人ひとりを統制・管理し、動員も系統的に行う体制で、逃れることはできませんでした。朝鮮人側を統制し、体制を支えたのが武力を持った駐屯日本軍と警察、日本の支配組織でした。
邑(ゆう)(日本の町にあたる)では、日本への労働動員名簿が作られました。対象は小作農の二・三男で、のちには長男も対象になりましたが、地主の子どもは対象になりませんでした。
強制労働動員は1939年から始まりました。37年に日中全面戦争が始まり、日本では38年に国家総動員法、39年に国民徴用令が施行されています。日本政府の資料から、日本国内(樺太、南洋を含む)に強制動員された朝鮮の労働者は、45年の日本の敗戦までに70万人余になります。このほかに朝鮮内に強制労働動員された人が158万人以上います。
日本への動員では、まったく日本語のできない人は炭坑鉱山・土木・運輸などに、普通学校を出た人など日本語のわかる人は工場にと、区分して動員されました。系統的・計画的な動員で、動員地は日本企業が申請し総督府が割り当てました。動員期間は当初は2年間の約束でしたが、戦争末期にはあと1年延ばされることもありました。
動員先の日本では食事の量の少なさが問題になりました。重労働で、大半の人が空腹を訴えましたが、炭坑などでは主食の米・麦(のちには雑穀)は朝鮮の農村で働いていたときより減らされ、副食にはキムチなどはなく、たくわんなどで口に合いませんでした。大半の現場が長時間労働でした。
炭坑では事故も多く、けがや死亡者も多かったのです。死亡した場合、遺族に遺骨を届けることになっていましたが、遺骨だけ届け弔慰金は支払わなかった、と当時を回想した江原道の日本人警察幹部が記録しています。警官は、このうわさが広がると今後の強制動員に影響があるからと心配しているのです。死亡・けがの場合も、当時はもとより今になっても、日本政府は個人に対し、おわびの手紙も補償もしていません。
日立鉱山で死亡した朝鮮人労働者の遺骨=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から
下ろせない貯金 送金は行方不明
賃金のうち本人に渡る金額は、逃亡を恐れ「小遣い程度」に限定され、残りは食事代、宿舎代、たえず課される国防献金などに徴収され、本人の手には渡りませんでした。
一部は一定金額の貯金、希望によっては家族送金にあてられましたが、預金を下ろす自由はなく、日本の敗戦時には、混乱を理由に支払われませんでした。動員された朝鮮人の大半は既婚者で、故郷には父母や妻・子どもがいました。送金しても邑・面(日本の町・村)長の印と確認が必要で、大半の人の送金がどうなったかは不明です。特に土木現場に配置された人の送金と残された家族の生活状態はわかっていません。日本政府は今に至るまで、朝鮮人の被害について一切調べていません。
強制動員で働き手を失った家族の暮らしは困難を極めたと思われます。日本の敗戦、朝鮮人にとっては解放が近くなるにつれ、朝鮮社会でも食料の闇での売買などが盛んになり、当局も取り締まりだけでは対応できなくなっていきました。朝鮮人の生きるための行動が活発になり、最後の総督阿部信行は、総督府が朝鮮農民に強いてきた天水田(水利がなくても降雨に頼って米を作らせる田)の一部を畑にすると天皇に上奏し、許可を受けざるを得ませんでした。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月16日付掲載
強制動員された朝鮮の労働者たち。まともに賃金も支払われず、預金したお金を下ろす自由もなく。
これって決して過去の事ではなく、現在の特定技能実習生でも実態はあまり変わらない状態だよね。
樋口雄一
ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。
『朝鮮人戦時労働動員』(共著)、『協和会』ほか
朝鮮半島から米を収奪する日本の植民地政策により、朝鮮の9割を占める農民の暮らしは窮迫しました。そこに、さらなる困難をもたらしたのが、戦時下の経済・社会の統制でした。戦時動員が朝鮮人民衆全員に強制されたのです。
福岡県八幡市(当時)の朝鮮人労働者=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から
動員名簿を作り住民を統制管理
朝鮮総督府と国民総力朝鮮連盟(日本の隣組制度にあたる)が住民一人ひとりを統制・管理し、動員も系統的に行う体制で、逃れることはできませんでした。朝鮮人側を統制し、体制を支えたのが武力を持った駐屯日本軍と警察、日本の支配組織でした。
邑(ゆう)(日本の町にあたる)では、日本への労働動員名簿が作られました。対象は小作農の二・三男で、のちには長男も対象になりましたが、地主の子どもは対象になりませんでした。
強制労働動員は1939年から始まりました。37年に日中全面戦争が始まり、日本では38年に国家総動員法、39年に国民徴用令が施行されています。日本政府の資料から、日本国内(樺太、南洋を含む)に強制動員された朝鮮の労働者は、45年の日本の敗戦までに70万人余になります。このほかに朝鮮内に強制労働動員された人が158万人以上います。
日本への動員では、まったく日本語のできない人は炭坑鉱山・土木・運輸などに、普通学校を出た人など日本語のわかる人は工場にと、区分して動員されました。系統的・計画的な動員で、動員地は日本企業が申請し総督府が割り当てました。動員期間は当初は2年間の約束でしたが、戦争末期にはあと1年延ばされることもありました。
動員先の日本では食事の量の少なさが問題になりました。重労働で、大半の人が空腹を訴えましたが、炭坑などでは主食の米・麦(のちには雑穀)は朝鮮の農村で働いていたときより減らされ、副食にはキムチなどはなく、たくわんなどで口に合いませんでした。大半の現場が長時間労働でした。
炭坑では事故も多く、けがや死亡者も多かったのです。死亡した場合、遺族に遺骨を届けることになっていましたが、遺骨だけ届け弔慰金は支払わなかった、と当時を回想した江原道の日本人警察幹部が記録しています。警官は、このうわさが広がると今後の強制動員に影響があるからと心配しているのです。死亡・けがの場合も、当時はもとより今になっても、日本政府は個人に対し、おわびの手紙も補償もしていません。
日立鉱山で死亡した朝鮮人労働者の遺骨=朴慶植著『朝鮮人強制労働の記録』(未来社)から
下ろせない貯金 送金は行方不明
賃金のうち本人に渡る金額は、逃亡を恐れ「小遣い程度」に限定され、残りは食事代、宿舎代、たえず課される国防献金などに徴収され、本人の手には渡りませんでした。
一部は一定金額の貯金、希望によっては家族送金にあてられましたが、預金を下ろす自由はなく、日本の敗戦時には、混乱を理由に支払われませんでした。動員された朝鮮人の大半は既婚者で、故郷には父母や妻・子どもがいました。送金しても邑・面(日本の町・村)長の印と確認が必要で、大半の人の送金がどうなったかは不明です。特に土木現場に配置された人の送金と残された家族の生活状態はわかっていません。日本政府は今に至るまで、朝鮮人の被害について一切調べていません。
強制動員で働き手を失った家族の暮らしは困難を極めたと思われます。日本の敗戦、朝鮮人にとっては解放が近くなるにつれ、朝鮮社会でも食料の闇での売買などが盛んになり、当局も取り締まりだけでは対応できなくなっていきました。朝鮮人の生きるための行動が活発になり、最後の総督阿部信行は、総督府が朝鮮農民に強いてきた天水田(水利がなくても降雨に頼って米を作らせる田)の一部を畑にすると天皇に上奏し、許可を受けざるを得ませんでした。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月16日付掲載
強制動員された朝鮮の労働者たち。まともに賃金も支払われず、預金したお金を下ろす自由もなく。
これって決して過去の事ではなく、現在の特定技能実習生でも実態はあまり変わらない状態だよね。