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日本共産党兵庫県委員会で働いています。

シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑦ 軽水炉と原潜ノー

2011-11-08 21:12:49 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第三部・差別と抑圧超えて⑦ 軽水炉と原潜ノー

 日本の原子力研究を推進するために1956年6月、特殊法人日本原子力研究所(原研、現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)が発足しました。それは、無謀な原発政策を進める国と、国民の立場にたって原子力のあり方を考える研究者たちのたたかいの始まりでもありました。
 設立時の原研研究員で労組委員長を務めたこともある市川富士夫さん(82)は「研究者に対する賃金や待遇は劣悪で、東海村の独身寮では水道がなく桶を置いて飲み水にあてていた。労組は、これらの問題解決とともに、原子力の安全確保、平和利用3原則(民主・自主・公開)を掲げて活動していた」と振り返ります。



66年ごろの原研のJPDR(『原研十年史』から)

米の尾を踏む
 60年代になって問題になったのは、JPDRと呼ばれる米GE(ゼネラル・エレクトリック)社製の原子炉の導入です。この炉はその後、日本各地に次々と導入される軽水炉の日本1号炉。米国側は「軽水炉は実証済み」と宣伝していましたが、研究者や原研労組からは事故も多く、技術的に確立していないと批判の声がありました。
 原研労組委員長を務めたこともある元中央大学教授の舘野淳さん(75)は「米側は世界戦略の一環として軽水炉を売り込もうとしているときだっただけに、原研の研究者がJPDRの技術的欠陥を指摘したことは周囲から『トラの尾を踏んだ』といわれました」と振り返ります。
 しかしGE社は、発電成功(63年10月)の3日後、突如労使関係が問題だなどといってJPDRの運転中止を指令してきました。
 この対応をめぐって原研と労組の対立がいっそう激しくなり、佐藤栄作科学技術庁長官はあわてて原研に対し「運営改善」を指示します。これを機に本部に労務部がつくられ、研究者や労組に対する攻撃がいっせいに強まったのです。

講師が各地に
 組合幹部への攻撃から仕事上の冷遇措置、賃金・昇格差別へと及び、64年には公安警察系雑誌『全貌』が「日本原子力研究所の共産党員」と題する特集を掲載。国会で自民党議員が、「(日本共産党員は)20名は確実に名前をあげることができる」などと労組を攻撃しました。
 63年、米軍が原子力潜水艦を寄港させようとして社会問題になります。60年代後半には、電力会社による軽水炉原発の建設が各地で問題になりました。組合は原潜の講師運動から、原発の講師運動へと発展。各地で軽水炉の危険性を訴え、住民運動の前進に大きな力となりました。
 舘野さんは「研究者として原子力の研究が社会に還元されることを望んでいた。しかし、軽水炉は実証済みといえるような技術ではなかった。そのことを国民に伝えるのは研究者として社会的責務でした。しかし、米国と日本の政府・財界はそれを許さなかったのです」と強調します。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月7日付掲載


館野さんの言う、「研究者として原子力の研究が社会に還元されることを望んでいた。しかし、軽水炉は実証済みといえるような技術ではなかった。そのことを国民に伝えるのは研究者として社会的責務でした」は切実なものだったのでしょう。
今回不幸にも、福島第一原発でそのことが現実のものとなってしまったのですから・・・
原研に運営改善を命じた、佐藤栄作科学技術庁長官(当時)、後の総理大臣は、やっぱり総理大臣の時のあだ名のとおり
「悪るさく」だったのですね。


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