秩父事件を歩く⑤ 圧制を変じて良政に
ツルシ カズヒコ
1983年8月、秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会が発足し、秩父事件顕彰運動実行委員会との共同事業として記念碑を建立することに決定。しかし、両委員会の協力体制が整うまでにはひと悶着ありました。
町の各界代表からなる記念事業推進委員会と顕彰運動実行委員会との検討会議でのことでした。顕彰運動実行委員会からは事務局長と新井健二郎さんが参加。開会直後「顕彰運動実行委員会のおふたりがおられるようですが、新井さんは共産党でわれわれとは考え方が違います。おふたりには会場から出て行ってもらえないでしょうか」という反共むき出しの発言がありました。
ふたりはやむなく一時、退場。その間、会議進行役の教育長・小林弌郎(いちろう)さんが、記念事業推進には秩父事件の研究顕彰を地道に積み重ねてきた顕彰運動実行委員会の協力が不可欠であることを推進委員会の面々に説き、ふたりは会場に戻りました。
記念碑の建立は町の反共的な風土と対になった「暴動史観」とのたたかいでした。新井さんは史実を提示して粘り強く説得。たとえば秩父事件の基本史料とされ、参加農民の言動を詳細に記録している『田中千弥(せんや)日記』の一節には「官省の吏員を追討し、圧制を変じて良政に改め、自由の世界として、人民を安楽ならしむべし」とあります。千弥は下吉田村の貴布祢(きふね)神社の神官でした。
「あなた方は官憲が捏造した情報をうのみにして暴動と言うけれど、これのどこが暴動なんですか。私が言っているのではありませんよ、あなた方の先祖が証言しているんですよと論破していくわけです。保守的な人も反論できなくなりますよ。自分たちの先祖の名誉を回復させるわけですから」

吉田町議会の一般質問に立つ新井さん=1983年9月
秩父事件発生の5年前。1879(明治12)年、椋神社境内にあった椋宮学校の講堂で下吉田村など4力村の連村議会が開かれ、その議事録には「人民天賦の権利」という言葉が記録されています。啓蒙思想をいち早く受容していたこの地域が「人間は生まれながらにして自由平等であり、幸福を追求する権利がある」という、天賦人権論を当時すでに議会に取り入れていた史実を立証するものです。土佐の植木枝盛(えもり)などが唱道した天賦人権論は、自由民権運動の理論的な支柱となり、困民党蜂起の思想的な基盤でもありました。
「俺が考えたんじゃねえぞ。敬愛するべきアンタ方の先祖が、そういう議論をしてるじゃないか」という新井さんの正論に、反共的な人も真っ向反論できなかったといいます。
(編集者・ライター)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年11月1日付掲載
秩父事件の根本は、「人間は生まれながらにして自由平等であり、幸福を追求する権利がある」という思想。
それを地で行く共産党の人たちを顕彰委員会から排除するなんてもっての外。
ツルシ カズヒコ
1983年8月、秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会が発足し、秩父事件顕彰運動実行委員会との共同事業として記念碑を建立することに決定。しかし、両委員会の協力体制が整うまでにはひと悶着ありました。
町の各界代表からなる記念事業推進委員会と顕彰運動実行委員会との検討会議でのことでした。顕彰運動実行委員会からは事務局長と新井健二郎さんが参加。開会直後「顕彰運動実行委員会のおふたりがおられるようですが、新井さんは共産党でわれわれとは考え方が違います。おふたりには会場から出て行ってもらえないでしょうか」という反共むき出しの発言がありました。
ふたりはやむなく一時、退場。その間、会議進行役の教育長・小林弌郎(いちろう)さんが、記念事業推進には秩父事件の研究顕彰を地道に積み重ねてきた顕彰運動実行委員会の協力が不可欠であることを推進委員会の面々に説き、ふたりは会場に戻りました。
記念碑の建立は町の反共的な風土と対になった「暴動史観」とのたたかいでした。新井さんは史実を提示して粘り強く説得。たとえば秩父事件の基本史料とされ、参加農民の言動を詳細に記録している『田中千弥(せんや)日記』の一節には「官省の吏員を追討し、圧制を変じて良政に改め、自由の世界として、人民を安楽ならしむべし」とあります。千弥は下吉田村の貴布祢(きふね)神社の神官でした。
「あなた方は官憲が捏造した情報をうのみにして暴動と言うけれど、これのどこが暴動なんですか。私が言っているのではありませんよ、あなた方の先祖が証言しているんですよと論破していくわけです。保守的な人も反論できなくなりますよ。自分たちの先祖の名誉を回復させるわけですから」

吉田町議会の一般質問に立つ新井さん=1983年9月
秩父事件発生の5年前。1879(明治12)年、椋神社境内にあった椋宮学校の講堂で下吉田村など4力村の連村議会が開かれ、その議事録には「人民天賦の権利」という言葉が記録されています。啓蒙思想をいち早く受容していたこの地域が「人間は生まれながらにして自由平等であり、幸福を追求する権利がある」という、天賦人権論を当時すでに議会に取り入れていた史実を立証するものです。土佐の植木枝盛(えもり)などが唱道した天賦人権論は、自由民権運動の理論的な支柱となり、困民党蜂起の思想的な基盤でもありました。
「俺が考えたんじゃねえぞ。敬愛するべきアンタ方の先祖が、そういう議論をしてるじゃないか」という新井さんの正論に、反共的な人も真っ向反論できなかったといいます。
(編集者・ライター)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年11月1日付掲載
秩父事件の根本は、「人間は生まれながらにして自由平等であり、幸福を追求する権利がある」という思想。
それを地で行く共産党の人たちを顕彰委員会から排除するなんてもっての外。