仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

シンポ「近代学問の起源と編成」終了:濃密な2日間

2010-03-15 18:57:40 | 生きる犬韜
13・14日の土・日、早稲田大学高等研究所主催のシンポジウム、「近代学問の起源と編成」が終了した。この2日間は本当に濃密で、その印象を未だ整理して語ることができない(昨夜の帰宅途中、電車のなかで偏頭痛に悩まされたほどだ)。しかし、このようなシンポジウムにおける収穫とは、本当に人と人との出逢い、繋がりにあるのだとあらためて実感した。まずは、シンポでお世話になった方々に御礼の言葉を記し、議論の成果や問題点については追々語ってゆくことにしたい。

まずは企画者の藤巻和宏さんと井田太郎さん。藤巻さんとはいろいろな場面でご一緒しているが、あらためてフィクサーとしての凄さを痛感した。藤巻さんほどの広く精密な視角がなければ、これほどのシンポジウムをまとめることはできなかったろう。ご報告「文学研究の範囲と対象」からも、近代学問のディシプリンが未だに我々の認識自体を規制し、その自由な実践を束縛している矛盾を強く感じ刺激を受けた。井田さんとは初対面であったが、学問に対する考え方の深いところで共鳴する部分があるようだ。常に冷静な彼の口から紡ぎ出される言葉には、いちいち納得させられる。向こうは迷惑かも知れないが、新たな同志を発見したようで心強くなった。
このブログにもときどきコメントをいただいている田中貴子さんとは、今回初めてお会いした。テレビなどではお顔を拝見していたが、思ったとおりの理知的な方だった。討論の場で颯爽と、しかし誠実かつ丁寧にコメントされる姿が頼もしかった。今回はぼくが不義理をして(1日目終了後、別の約束で早急に移動せねばならなかった)、ご挨拶程度のお話しかできなかったのが悔やまれる。「中世に本質はないと思いながら、ふと気付くと〈中世らしさ〉を探している」とのお話は、このシンポの全体を貫くキーワードでもあったろう。
笹沼俊暁さんのご研究は、今回のシンポジウムの基調を形成しているともいえる。2日目の討論の際にぼくの報告に質問をいただいたが、他者表象の叙述について同様の問題意識をもって格闘されている方だと知った。台湾での教育・研究は大変困難を伴うだろうが、そうした場でこそ培われた深みが、ご発言の随所に表れていた。
平藤喜久子さんには、近代と古代をつなぐ緻密なご業績にいつも刺激を受けていた。「環境/文化研究会(仮)」にも参加していただいているのだが、今回ちゃんとご挨拶できなかったのが残念である。神話を考察する枠組みの問題は、すぐさま自分の学問を相対化する役に立った。マックス・ミューラーと仏教学、神話学の問題は、2日目のぼくの報告でも「ジャーマン・インパクト(青谷さん命名)」との関連で言及させていただいた。
玉蟲敏子さんは、周囲の人間に本当に気を遣われる方だった。極端な〈創られた伝統〉の議論に抵抗し、前近代よりの継承を地道に論証されたご報告には、まさに学問のあるべき姿をみるようで感動した。
藤田大誠さんは、「自分は場違いではないか」と盛んに恐縮されていたが、国学が近代学問の知的基盤を形成したという議論は、大変に刺激的で有意義だった。休憩時間に、渋谷学への取り組みについてちょっとだけ伺うことができたのも収穫だった。今度はぜひ、死者表象の問題についても意見交換したいものだ。
青谷秀紀さんには、日本人としてヨーロッパ研究の一線で活躍している人の凄みを感じた(ぼくのようにエセではない)。ご報告で提起された、リースとピレンヌとの関係には虚を突かれる思いがした。懇親会の終わり近くにようやく意見交換できたが、歴史学者として同じ思いを抱いて実践している人がここにもいたのか、と嬉しくなった。

ところで、ぼくの報告の終了後、なんと鹿島徹さんが声をかけてくださったのは衝撃だった。鹿島さんのご論文は『思想』で初めて拝見し、以来、度々引用させていただいてきた。2004年、一橋大学で日本哲学会の大会があり、歴史と物語りとの関係が議論されたときにも、鹿島さんのご報告を伺いに出かけた記憶がある。人づてに聞いたところでは、一昨年、『歴史評論』の「歴史学とサブカルチャー」で鹿島さんの論に言及した際、それを読んでくださって編集委員会へお手紙をくださったようだ。こちらが抜刷も差し上げずに不義理をし続けていたにもかかわらず、わざわざ足を運んでくださったのである。恐縮至極である。近年、方法論研究を怠けて海外文献もろくに読んでいないのだが、これではいけないと気持ちを新たにした。
中世文学の尾崎勇さんが「あなたの論文を引用したことがありますよ」と、比較文学の河野至恩さんが「情報交換しましょう」と声をかけてくださったことも嬉しかった。懇親会の席上で濃密な議論をさせていただいた、美術史の権威大西廣さんにも感謝申し上げたい。討論の場での力のあるお言葉、自らのポジションの自覚と相対化が大事であるとのご発言には、深く頷かされた。
また、ブログ「繭の図書館」を運営している民俗学者の卵、cocoon12さんと直接話ができたのもよかった。「若気の至り」とは無縁な、誠実そうな好青年だった。彼を通じて村田小夜子さんからいただいた「都市伝説「港のメリーさん」のゆくえ」は、「人を通じて歴史を理解する」ことを先取りした内容で感激した(いずれこのブログで感想を書きます)。それから、やはりcocoon12さんに紹介していただいた吉村晶子さん。帰宅途中に、「あっ、香炉と往生の人だな」と気付いたのだが、後の祭り。今度の寺社縁起研究会で、これまた興味深い「日本平安期および中国往生伝における「匂い」」とのご報告をされるらしく、絶対に聞きにゆかねばと思ったのだが、なんと勤務校の卒業式と重なっている。残念。今度、ぜひゆっくり話を聞かせてください。
去年ぼくのゼミを卒業したN君も、忙しいなか報告を聞きにきてくれて、懇親会にまで付き合ってくれた。「いつか学問の世界に帰るために」と、積極果敢に研究者に語りかける彼の姿には、志の高さを感じた。

最後に盟友の工藤健一さん。13日、シンポ1日目が終わった夜には、佐藤壮広さんと、工藤さんの平家語りライヴを聞きに行ったのだ。彼は学生時代からバンド活動をしていたが、研究者としての実践とともに、アーティストとしての取り組みも続けている。ロックな平家語りを始めたという話は数年前に伺っていたが、今回ようやく拝見・拝聴することができた。古来神祭りに使われた弦と鈴に引き寄せられ、地霊・怨霊の唸りのような管が叫びだし、緊張感に満ちた工藤さんの語りが始まる。叩き付けるような義仲、文覚のくだりは迫力に満ちて圧巻であった。途中、マイクのトラブルなどがあって、完全主義のご本人には納得できない出来であったかも知れないが、ぼくは充分に堪能させていただいた。しかし、管の奏者が工藤さんのテンションに付いていけていないかな、DJとも時々呼吸がずれるところがあったかな、という印象は抱いた。工藤さんのイメージを体現できるメンバーを集めるのは大変かも分からない。14日、ライヴでへろへろになっているはずのその工藤さんが、朝一から報告を聞きにきてくれたのは何よりありがたかった。

とにかく、今回のシンポジウムに関わった皆さんに心から御礼を申し上げる。ありがとうございました。
さて、あとは引っ越しだ!
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