仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

懐かしい世界:三浦しをん『仏果を得ず』

2007-12-21 19:48:45 | 書物の文韜
今日で、今年の講義は終わりである。再開は1月7日で、2週間ほどの休みとなる。その間にやらなくてはならないことは山積しているのだが、とにかく休みはうれしい。今日は、早く帰っても奥さんがいないので、いろいろ寄り道して帰ろうか…。といいつつ、研究室に残ってしまっているのだけれど。

一昨日の水曜日、教授会を終えた帰りに三浦しをん『仏果を得ず』を買い、ほぼ一日で読んだ。三浦作品は初体験だったが、前から読んでみたいとは思っていたのだ。理由は二つある。ひとつは、彼女が日本文学者・三浦佑之さんのお嬢さんだから。三浦さんからは毎回ご本を送っていただいているが、怠惰なぼくはなかなかご恩返しができていない。せめてお嬢さんの作品の売り上げ向上に協力しようと考えたわけだが、もちろんそんな気を回さなくても、「三浦しをん」は立派なベストセラー作家なのである。そしてもうひとつは、書店の棚でみたこの作品が単純に面白そうだったからだ。

『仏果を得ず』は、文楽の道を究めるべく邁進する若き義太夫語りの物語。「幕開き三番叟」「女殺し油地獄」「ひらがな盛衰記」「妹背山女庭訓」「仮名手本忠臣蔵」など、主人公健太夫の担う文楽の演目と、その時点における彼の情況とが微妙にシンクロし、読者は健の視線と身体を介して芸の極みへと近づいてゆくことになる。分かりやすい物語運びと巧みな人物設定、専門的世界の裏話的要素など、全体の枠組みは『動物のお医者さん』的少女マンガに近い。しかし、意外とぼくは、そんな話が大好きなのである。また、健が物語の登場人物を自分なりに咀嚼し体現してゆく過程や、過去から受け継がれてきた伝統を自身の芸に昇華してゆく部分などは、立派なシャーマニズム文学ともいえるだろう。〈念仏〉という半芸能の家である真宗寺院に育ち、また学界というやはり半芸能的な世界にいまも生きている自分にとって、この作品で描かれるようなシチュエーションは非常に理解しやすく、また懐かしい。読み始め/読み終わりに、床本を「いただく」のも作法として同じだ。…そう考えて、秋学期初回の特講で『妹背山女庭訓』の床本の一部を引用して語ったとき、連綿と続く義太夫語りの命を懸けた芸道へ感謝を捧げていたかどうか、疑問と後悔を覚えた。また文楽を観にゆこう、そう思わせてくれる作品だった。

さて、明日からは、遅れている質疑応答の更新をしつつ、原稿書き中心の日々が始まる。豊田の講義、ゼミの打ち上げなど、多少の忘年会も入っているが、なんとか所期の目的は果たさなければならない。精進して仏果を得るべし。
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