仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

マルチタスクな日々:研究会2種

2010-03-18 03:38:13 | 議論の豹韜
シンポを終えてようやく引っ越しの準備ができると思ったら、まるでそれをを阻むかのように、次から次へと原稿の校正が押し寄せてきた。ま、1月にそれだけ書きまくったのだからやむをえないが、ある程度は後回しにせざるをえないか…。とにかく、引っ越せないことには始まらない。…などといいつつ、昨日(16日)と今日(17日)は研究会参加のために外出していた。まったく、学者というのは因果な職業だ。

昨日は成城大学の『家伝』研究会。論集締め切り前の最後の例会で、「武智麻呂伝」の伊吹山登山から気比神宮寺創建に至る部分を、篠川賢さんの報告で読んだ。篠川さんは、基本的に『家伝』編纂時における創作との立場だが、ぼくもまったく同感である。ただし、気比神宮寺創建譚の多層的な構成からは、何段階かの述作プロセスが読み取れる。例えば「優婆塞久米勝足」などが何の脈絡もなく出てくるが、山林修行者が神の託宣を受けるという中国の神身離脱譚との比較でいえば、元来はこの勝足をこそ主人公とした物語が存在し、それを武智麻呂に置き換えて再構成したと考えた方が理解しやすい。また、夢に現れた人物の神性を問うくだりは、神身離脱譚よりも祟り神や神殺しの言説に多い。延慶は複数の素材を繋ぎ合わせ、高僧の徳を讃嘆する隋唐の神身離脱譚よろしく、武智麻呂を顕彰する物語へ仕立て上げているものと考えられる。さらに『家伝』というテクストの総体からいえば、歴史叙述の形式の時代性に興味を覚える。『家伝』述作は、仲麻呂の国史編纂事業と並行し、史料の一部を共有しながら進められている。この国史は結局完成をみなかったが、その史料や草稿は『続日本紀』に活かされたと推測される。しかし、『家伝』の叙述形式は古小説的なエピソードを連ねる形態で、『続紀』というよりは『書紀』に近い。ここには、単に「伝記だから」という以上の意味があるように思われる。論集では「兵法の文化史」を書くつもりだが、いずれ「歴史叙述としての『家伝』」も正面から扱わねばならないだろう。

今日は、近代学問シンポでお会いした鹿島徹さんにお誘いをいただき、東洋大学総合人間科学研究所のヘイドン・ホワイト研究会に参加した。どうやら昨年のホワイト来日を記念し、岩波の『思想』誌が特集を組むらしい。『メタヒストリー』の翻訳もついに刊行のようで(平凡社は諦め、作品社から)、今年はホワイトをめぐる議論が盛り上がることになるかも知れない。会自体は、まず主催者の岡本充弘さんが、『思想』の原稿を下敷きにホワイト思想の全体的な紹介をされ、それに上村忠男さんや鹿島徹さんがコメントを付けるという贅沢な形式で行われた。ぼくは、日本史における理論研究の現状をコメントする役どころに終始したが、個人的に強い関心を覚えたのは〈歴史場(historical field)〉の問題である。10年前に「回顧と展望」で叩かれた拙論にも書いたことだが、ホワイトの実証主義批判の白眉は、叙述以前の〈先行形成〉の段階でも隠喩・換喩・提喩・アイロニーが機能しているとした点にある。これらtropeの作用する認識野が〈歴史場〉だが、岡本さんのお話では、ホワイトはこの概念に厳密な定義を与えておらず用法も一定していない。上村さんは、それがいかにして成立しうるのかきちんと説明されなければならないと仰っしゃっていたが、そのとおりだろう。歴史学者に限定して考えれば、ディシプリンの身体化、歴史学者の職業的共同体との関連から、ブルデューの〈場(もしくは「界」。champ)〉の議論に結び付けて考えることも可能だろう。上村さんはより根源的なところに目を向けていらっしゃる印象だったが、ぼくも最終的には、ホモ・ナランスの存在証明たる〈歴史を語る欲望〉に引き付けて考えたいと思っている。もちろん、種の問題に置き換えて本質化してしまうつもりはないのだけれども、歴史学者のハビトゥスというより人間の物語り行為全般に関わる問題ではないかと思うのだ。
この〈歴史を語る欲望〉は、ホワイトのいうpractical pastあるいはpublic historyの生成に直結するが、忘却を恐怖するベクトルの強さからナショナルな語りに回収されやすい。practical pastの多様化に寄与しながら権力との関係をチェックし、(意図的にというより、支配的言説を相対化し歴史の多様化を実現する帰結として)その方向性を修正するのが歴史学者、彼の紡ぎ出すhistorical pastあるいはproper historyの役目なのだろう。もちろん、そのproper historyは、できる限り開かれた言説世界で検証されなければならないわけだが…。ちょっと単純かな。もう少しちゃんとホワイトを読み込んでみるか。

※ 写真はいわずと知れた『メタヒストリー』と、唯一の訳書(といっても小冊子)である『物語と歴史』。『言説の転義』も翻訳中であるとか。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シンポ「近代学問の起源と編... | TOP | モモ、学位を授与される »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 議論の豹韜