く~にゃん雑記帳

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<安土城跡> 信長の夢の跡、高層天守の魁

2018年08月14日 | 考古・歴史

【往時を偲ばせる礎石、城壁、大手道……】

 織田信長が天下統一を目標に掲げ、琵琶湖岸の安土山(標高199m)に築いた安土城。築城開始から3年後の1579年に高さ33mを誇る壮大な城が完成する。だが、その3年後の本能寺の変で信長は自刃、混乱の中で城も一夜のうちに焼失してしまった。安土城跡は国の特別史跡。礎石が整然と並ぶ天主跡や城壁、大手道、二王門、三重塔などが往時の信長の権勢を今に伝える。

 城に通じる大手道を上り始めると、ほどなく左手に伝羽芝秀吉邸跡、右手に伝前田利家邸跡や摠見寺の仮本堂になっている伝徳川家康邸跡があった。摠見寺は築城のとき、信長が他所から移築して自らの菩提寺としたと伝わる。天主炎上の際は幸い類焼を免れたが、江戸時代末期に焼失した。大手道の石段には所々に石仏がはめ込まれていた。築城に当たり多くの石材は近郊の山々から調達されたが、石仏や墓石なども使われたことを示す。

 

 安土山の山頂に残る天主跡には、東西・南北約28mの平地に礎石が1.2mおきに並ぶ。ただ、ここは天主の穴蔵(地階部分)に当たり、天主台の広さははるかに大きくて2倍半近くあったそうだ。城内は御用絵師狩野永徳の障壁画や装飾などできらびやかに飾られた。『信長公記』は「三重め、12畳敷、花鳥の御絵あり、則、花鳥の間と申すなり」「六重め、八角四方あり、外柱は朱なり、内柱は皆金なり」などと記す。地上6階建ての安土城は以降の高層の城造りの出発点にもなった。

 

 本丸御殿跡があるのは天主から少し下った場所。中庭を挟んで3棟あったとみられるこの建物の構造は天皇の住まいである内裏の清涼殿に酷似する。『信長公記』は天皇行幸のための〝御幸の間〟が設けられていたと記載している。天主跡の西側直下の伝二の丸跡には信長公本廟(上の写真)がある。本能寺の変の翌年、遺品の太刀、烏帽子、直垂などを埋葬し、一周忌には織田一族や家臣を集め法要が盛大に執り行われたという。

 天主跡からの帰途、摠見寺の本堂跡に立ち寄った。少し傾いた「摠見寺本堂址」という石柱が立つだけの殺風景な広場だが、案内パンフレットでわざわざ「展望台(撮影スポット)」と紹介するだけあって眼下の眺めはまさに絶景だった。そばに立つ三重塔は室町時代の建物で、信長が甲賀の長寿寺から移築した。ただ保存修理工事中(9月下旬まで)で、覆屋で囲まれて見学できなかったのが少々残念だった。少し下った所にある二王門(楼門)も甲賀から移築されたもので、安置されている2体の金剛力士立像とともに国の重要文化財に指定されている。

 

 JR安土駅のすぐ南側にある「安土城郭資料館」には、二十分の一のサイズで城の内部まで精巧に復元した安土城の模型が展示されていた。製作者は『復元安土城』などの著書もある建築史家の内藤昌(あきら)氏(1932~2012)。内部の構造が分かりやすいように城が真っ二つに左右に動く仕組みになっていた。

 

 館内には「安土・南蛮図屏風 陶板壁画」も飾られている。信長は1581年、イエズス会派の神父に屏風絵を贈呈、神父は4人の天正少年使節と共に絵を携えローマ法王の元へ旅立つ。陶板壁画は彼らが辿った安土城から京都、長崎などを経てローマに至るまでの様子を6枚の画面(1画面は高さ約1.6m、幅約3.7m)で描いたもの(写真はそのうち「安土城」の部分)。2階の展示コーナーには当時の宣教師が描いたといわれる信長の肖像画の写真もあった。この肖像画は織田家の菩提寺、三宝寺(山形県天童市)の御霊屋に掲げられているもので、信長を描いたものの中では実物に最も似ているといわれているそうだ。

 


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