く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡」

2017年07月05日 | BOOK

【七田忠昭著、新泉社発行】

 「遺跡には感動がある」をキーワードに新泉社(東京都文京区)が2004年に刊行を開始したシリーズ「遺跡を学ぶ」の1冊。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は筑紫平野のほぼ中央部に位置する。その遺跡が一躍注目を集めたのは1989年1月。新聞やテレビで「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じつくり」と大々的に報じられた。それから約28年。邪馬台国論争は収束するどころか、激しさは増す一方。吉野ヶ里に関しては「邪馬台国とは無関係」「邪馬台国より時代が古い」といった声も聞こえる。こうした見立てに対し、著者七田氏は「はたしてそうか」と疑問を投げ掛け、「いまあらためて発掘成果と魏志倭人伝の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」と主張する。

       

 七田氏は1952年、佐賀県神埼市神埼町生まれ。まさに吉野ヶ里遺跡のすぐそばで幼少期を過ごし、遺物の収集に没頭したという。大学では考古学を専攻し、卒業後、佐賀県教育庁に入庁。1986~2008年の22年間、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者を務めながら国営吉野ヶ里歴史公園の整備事業に携わってきた。吉野ヶ里への思い入れが人一倍強いのも当然のことだろう。遺跡の場所にはもともと佐賀県の工業団地が建設される予定だった。発掘調査が始まったのは86年5月。七田氏にとっては「自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命を感じながらの発掘調査となった」。

 調査が進むにつれ大規模な環壕跡や厖大な土器、甕棺(かめかん)、日本初の巴形銅器の鋳型などが次々に出土した。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の環壕集落が前期の2.5ha.から中期に20ha以上に、さらに後期には40ha超と、時代を下るにつれ「ムラ」から「クニ」に大きく発展する様子が明らかになっていく。後期の遺跡からは4基の物見櫓や弥生時代屈指の大きさを誇る大型建物、高床倉庫群などの遺構が出土した。こうした中で89年春、佐賀県知事が遺跡保存を表明。そのニュースを見て「これまでの精神的、肉体的な疲労も吹っ飛び、喜びがこみ上げてきた」。七田氏はその直前に佐賀を訪れ遺跡の重要性を強調した佐原眞氏(当時奈良国立文化財研究所指導部長)を〝吉野ヶ里の救世主〟として名を挙げる。吉野ヶ里遺跡は90年史跡に指定され、翌91年には特別史跡へ格上げされた。

 本書は5章構成で、1~4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。その中で両者の共通点として、①弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する②卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている③鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。吉野ヶ里遺跡はいま国営吉野ヶ里歴史公園に姿を変え、年間70万人の観光客が訪れる。その中核の環壕集落ゾーンには集落が最も繁栄した弥生時代終末期(3世紀前半)の大規模集落が復元されている。その時期はちょうど卑弥呼が倭国の女王だった時代とも重なる。

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