く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「正岡子規と明治のベースボール」

2016年04月05日 | BOOK

【岡野進著、創文企画発行】 

 「球うける極意は風の柳かな」「若人のすなる遊びはさわにあれどベースボールに如くものはあらじ」――。俳人・歌人の正岡子規(1867~1902)はアメリカから日本に入ってきて間もないベースボールに熱中し、新聞で取り上げたり俳句・和歌を作ったりした。2002年には野球の普及に尽くした功績から〝野球殿堂〟に入っている。著者はその殿堂入りの新聞記事で、初めて子規が自ら野球をやっていたことを知り、その後、子規と野球の関わりの調査・研究に没頭した。

       

 「子規とベースボールの関係を巡って」「明治と子規のベースボール(野球)を検証する」「夏目漱石、秋山真之とベースボール(野球)」の3部構成。巻末の7ページにもわたる引用・参考文献一覧が、子規がベースボールに関わった全体像を探るため、いかに多くの関連資料や文献を渉猟したかを物語る。子規は1890年(明治23年)、本名の「升(のぼる)」をもじった「野球(の・ぼーる)」の雅号を使い始めた。ただし子規が「やきゅう」と発音したことはない。ベースボールを最初に「野球(やきゅう)」と訳したのは中馬庚(ちゅうまん・かのえ)だった。中馬は1899年に一般向けの野球解説書『野球』も出版している。野球殿堂入りは1970年で子規より随分早い。

 アメリカの南北戦争(1861~63)は誕生したばかりのベースボールが全土に広がるうえで大きな役割を果たした。戦闘の合間に兵士によって頻繁に行われ、戦争後は各地に帰郷する兵士たちによって鉄道の建設とあいまって瞬く間に広まったという。日本には明治時代の初め、1870年代前半に伝来した。子規は初めてベースボールに出合うのは1884年、17歳のときに東京大学予備門に入学してから。23歳のときには故郷松山に帰省した折、バットとボールを持ち帰り、高浜虚子ら松山中学の生徒たちにバッティングを披露した。

 ただ当時のベースボールは今の野球の方式やルールなどとは大きく異なっていたという。投手はアンダーハンドから打者が打ちやすい所に投げる、捕手や野手は素手でワンバウンド捕球する、打者はナインボールで出塁する、アンパイアは定位置が決まっておらず投手の後方に立つこともあった――。「子規は左利きだった」というのが半ば定説だが、著者は様々な根拠を挙げて「子規は右利きで、右投げ右打ちだった」とみる。その根拠として、幼少の頃に左利きを右利きに直されていたこと、腕力が左手より右手のほうが強かったこと、子規の写真や子規が描かれた絵図は全て右手を使ったものばかりであることなどを挙げる。

 子規はベースボールを題材にした俳句を9句作り、結核で病床にあった1898年(明治31年)にはベースボール短歌9首を詠んだ。その1つに「久方のあめりかびとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」がある。「天(あめ)」にかかる古い枕詞を「あめりか」にかけた万葉調の歌。そこにはベースボールが楽しくて夢中になっていた青春時代の熱い思いがあふれている。

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<甘樫坐神社> 熱湯による古代の裁判「盟神探湯(くがたち)」神事

2016年04月04日 | 祭り

【仏像を傷つけたのは誰か? 寸劇でその模様を面白おかしく再現】

 NHKの大河ドラマ「真田丸」で先日〝鉄火起請(てっかぎしょう)〟の場面が放映された。赤く焼けた鉄片を手に乗せて火傷(やけど)の有無で漁民同士の争いに裁定を下す――。中世には犯人捜しや村落間の争いに決着をつけるため、鉄火起請や湯起請という過酷な裁判が度々行われた。湯起請のルーツは古代の〝盟神探湯(くがたち)〟に遡る。3日、奈良県明日香村の甘樫坐(あまかしにいます)神社でその模様を再現した「盟神探湯神事」が行われた。

 盟神探湯は神に盟(ちか)って湯を探ること。湯釜の熱湯に手を入れ、供述に偽りがあれば火傷をするという古代の裁判方法だ。盟神探湯は日本書紀の允恭天皇4年(415年)の中に記述が見られる。氏姓(うじかばね)を詐称する者が多くなり、氏姓制度の混乱を正すために神前で盟神探湯を行ったという。その釜は710年の平城遷都後、神社が現在地に移されたときに一緒に運び込まれたが、いつの間にかなくなったそうだ。

 

 神事は故事に基づき毎年4月の第一日曜日に開かれているが、昨年は雨天のため中止だった。87代目の飛鳥弘文宮司がたたく板木を合図に神事が始まった。場所はしめ縄が張られた謎の巨石「立石」の前。宮司が煮えたぎった湯釜に米と酒を注ぎ、祝詞奏上の後、笹を打ち振って列席者や見物客のお祓いを行った。その後、地元の氏子や明日香村を拠点とする「劇団時空」のメンバーたちによる寸劇が繰り広げられた。鮮やかな古代衣装は考古学者の猪熊兼勝氏(京都橘女子大学名誉教授)の考案という。

 

 寸劇は寺の仏像を傷つけた犯人を盟神探湯で見破るというもの。3人の容疑者が引き出され、せかされて1人ずつ恐る恐る熱湯に手を浸す。その愉快な様子や苦しい言い訳に、何度も見物客から爆笑が起きた。犯人は青い衣装に身を包んだ「物部青人」だった。青人は実際に一瞬手を入れ、飛び散った熱湯のしぶきがかかった容疑者の1人は「あちっ」と大声を上げていた。この後、見物客たちは宮司から配られた笹の葉を熱湯に浸し、無病息災のお守りとして大事そうに持ち帰っていた。

 

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