く~にゃん雑記帳

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<立命文華会公開講座> 「会津八一」~奈良に遊び、奈良を詠う

2016年03月08日 | メモ

【講師の浅田隆氏「会津は奈良に〝幻視の古代〟を見ていた!」】

 立命館大学奈良県北部校友会主催の「立命文華会」公開講座がこのほど奈良市生涯学習センターで開かれ、浅田隆・奈良大学名誉教授が「『会津八一』~奈良に遊び、奈良を詠う」と題して講演した。35回も奈良を訪れ多くの歌を残した会津八一はなぜそれほどまで奈良を愛したのか。浅田氏は「古代への憧れが強かった八一は奈良を通じて〝幻視の古代〟を思い描いていたのではないか」などと話した。

 八一が奈良を詠んだ歌は歌集『南京(なんきょう)新唱』などに収められている。「あおによし奈良の都にありとある御寺御仏ゆきてはやみむ」。1908年(明治41年)初めて奈良に向けて旅立つときのはやる気持ちをこう詠んだ。そして奈良を去って東京に戻ってからも奈良をしきりに思い起こす。「ならやまを さかりしひより あさにけに みてらみほとけ おもかげにたつ」。

 

 八一には奈良で詠んだ古代思慕の歌も多い。「かすがのに ふれるしらゆき あすのごと けぬべくわれは いにしへおもほゆ」。浅田氏によると、八一にはもともと古代ギリシャへの憧れが強かった。「いにしへの ヘラスのくにの おほがみを あふぐがごとき くものまはしら」。巨大な入道雲からもギリシャの神を連想するほどだった。1920年(大正9年)には「日本希臘学会」を創立、そして3年後には同学会を解消して「奈良美術研究会」を旗揚げした。

 八一は知人への書簡に、もし欧州を訪ねるなら多くの人々が行くドイツ、フランス、イギリスではなくギリシャとイタリアだけを目指すと記した。末尾には「今の希臘人は品格なき俗物のみときゝ居れども、そは奈良に於て同断と存じ候」とも付け加えている。浅田氏は「八一が奈良に憧れたのは古代の痕跡を感じさせるからで、歴史のかけらを媒介にして古代を復元的に思い描いていたのだろう」と指摘した。

 八一は「歌人」と呼ばれることを嫌ったという。八一は短歌だけでなく俳句、随筆、書、東洋美術史など多方面に造詣が深かった。全国に60基ほどある歌碑のうち3分の1の20基を奈良県内で占める。いずれも自筆。「1人の歌碑が1つの県に20基もあるのはまさに稀有なこと」。最も新しい歌碑は法隆寺西院伽藍の一角に立つもので2014年秋に建立された(写真㊧)。その2年前には法隆寺参道脇の「斑鳩の里観光案内所」のそばにも建てられた(写真㊨は除幕式のときのもの)。前者の歌碑には「ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのたふ」、後者には「うまやとの みこのまつりも ちかつきぬ まつみとりなる いかるかのさと」の歌が刻まれている。


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