く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ススキ(薄・芒)> 秋の七草、万葉集にも40首余

2015年11月06日 | 花の四季

【語源は諸説、別名「オバナ」「カヤ」など】

 全国の日当たりのいい山野に群生するイネ科の多年草。秋の七草の1つで、根元から何本もの茎を出して株立ちし、先端に長さ20~30cmほどの白い花穂をつける。草丈は1~2.5m。ススキの語源には「すくすく立つ木(草)」から、神楽に用いる鳴り物用の「鈴の木」に因むなど諸説があって、はっきりしない。

 別名の「オバナ(尾花)」はふさふさした花穂をキツネなど獣の尻尾に見立てたもの。古くから屋根の茅葺き材をはじめ牛馬の飼料、燃料、炭俵や草履、簾(すだれ)、壁代の材料などとして利用されてきた。ススキは「カヤ(茅)」とも呼ばれるが、これは屋根を葺くイネ科の植物の総称として使われることが多い。ちなみに東京の日本橋茅場町の地名は江戸初期に幕府の命令でカヤを扱う商人たちが移り住んだことに由来するという。

 

 ススキは古くから歌や俳句に詠まれ、花鳥画にもよく描かれてきた。万葉集には40首以上も登場する。その1つに「人皆は萩を秋と言ふ よし我れは尾花が末(うれ)を秋とは言はむ」(作者不詳)。秋の七草を詠んだ山上憶良はススキを萩に次いで2番目に挙げたが、この歌の作者は「みんなが何と言おうと私は秋風に穂先がそよぐススキこそ秋の風情を代表するものだと言いたい」と詠んだ。

 ススキは「抱き薄」「薄の丸」「三つ追い薄」など、さまざまな文様が家紋にも使われてきた。奥州伊達氏も家紋の1つが「雪に薄」だった。ススキの仲間には常緑の「トキワススキ(常盤薄)」(別名カンススキ=寒薄)や暖地の海岸に自生する「ハチジョウススキ(八丈薄)」、葉幅が細い「イトススキ(糸薄)」などがある。奈良県曽爾(そに)村の曽爾高原はススキの群生地として全国的にも名高い(写真)。「山は暮れて野は黄昏の芒かな」(与謝蕪村)。

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<京都府南山城村> 風流優雅に「田山花踊り」、半世紀前に復活!

2015年11月04日 | 祭り

【府指定無形民俗文化財、氏神諏訪神社に奉納】

 京都府南山城村の田山地区で3日、雨乞い踊りの伝統を継承する「田山花踊り」が氏神の諏訪神社に奉納された。いつ始まったか詳細は不明だが、約220年前1794年(寛政6年)の踊り歌本が残っていることなどから江戸中期に行われていたことは間違いない。1924年踊りが神社に奉納されたのを最後に一時中断していたが、約50年前の1963年「田山花踊り保存会」が結成され悲願の復活を遂げた。それから今年で53回目。

 田山ではかつて旱魃の際に様々な雨乞い祈願が行われ、願いが叶うと願解き(がんほどき)の行事が繰り広げられた。花踊りはその最後に奉納されるもので、雨が降っても降らなくても必ず奉納しなくてはならない最も重要な踊りとされてきた。復活後は諏訪神社の例祭に合わせ家内安全、五穀豊穣を祈願するものとして奉納されている。1984年には京都府の無形民俗文化財に指定された。

 

 花踊りは午後1時、旧田山小学校の運動場で始まった。まず少年・少女5人が代わる代わる大太鼓を打つ「入端(いりは)太鼓」。続いて太鼓とほら貝、お囃子歌に合わせ円陣を組んで「愛宕踊」と呼ばれる踊りが始まった。主役は「中踊り」と呼ばれる10人余の青年たち。女装の長羽織に白の手甲を付け、足元は白い脚絆にワラジ姿。真っ赤な口紅が目を引く。背中には色鮮やかな造花や和紙、御幣で飾られた長さ2mほどの「シナイ」。胸元に小さな締め太鼓を付け、ゆったりとした風流な踊りを披露した。

 

 その後、神社に向けて道中行列が出発した。武士姿の警護役2人に先導されて女装の着流し姿の払い棒、棒術の少年たち、道化(天狗とひょっとこ)、大太鼓、「ヤァーハァ」と元気な掛け声を上げる幼児たち、中踊りなどが続く。神社に到着すると、保存会会長の挨拶などに続いて「神夫知(しんぶち)」と呼ばれる少年が軍配を手に神前に向かって五穀豊穣などの口上を述べた。境内で奉納されたのは「八ツ橋踊」と「御庭踊」。背にしたシナイをしならせながら大太鼓を打つ姿は力強く迫力に満ちていた。最後は紅白の餅まき。この日は地元テレビ局や大勢のアマチュアカメラマンに加え「文化庁 記録映像撮影」という腕章をはめた撮影クルーの姿もあった。

 

 

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<飛鳥資料館> 秋季特別展「キトラ古墳と天の科学」

2015年11月03日 | 考古・歴史

【古墳天井の天文図複製陶板などを展示】

 奈良文化財研究所の飛鳥資料館(奈良県明日香村)で開館40周年を記念する秋季特別展「キトラ古墳と天の科学」が開かれている(11月29日まで)。キトラ古墳は飛鳥時代の7世紀末~8世紀初頭に築造されたとみられる壁画古墳。天井には現存する世界最古級の本格的な天文図が描かれていた(写真㊨)。その精密な複製陶板を展示するとともに、最新の研究成果を紹介している。

   

 天文図に描かれているのは中国式の円形星図と日月像。3つの同心円と北西側にずれた1つの円が描かれ、その中に約350個の星を朱線で結んだ70を超える星座が配置されている。キトラ古墳の北約1.2キロにある高松塚古墳の星縮図に描かれているのは「二十八宿」と呼ばれる一部の星座などだけで、天の赤道や黄道などを示す円も描かれていない。

 キトラ古墳の星の大半は直径約6ミリの円形の金箔で表現されているが、3つの星はやや大きい9ミリの円形で示されていた。この3つは「天狼」「北落師門」「土司空」とみられるが、「その大きさは星の明るさを示すものではないようで、古代人にとってどんな重要な意味があったかは不明」という。

 天井に描かれた天文図はこれまで3つの同心円の大きさなどから観測地は北緯37.6度付近で、朝鮮半島の高句麗から伝わってきたのではないかといわれてきた。だが国立天文台助教の相馬充氏や元帝京平成大学教授の中村士(つこう)氏による星の位置の解析で、原図は中国からもたらされた可能性が高まってきた。天文図の推定観測年代は相馬氏が紀元4世紀頃、中村氏が紀元前1世紀頃とやや幅があるものの、観測地は北緯34度付近で当時中国の都があった長安や洛陽で観測された可能性が高いとみる。

 特別展ではキトラ古墳の石室の色味や質感を忠実に再現した模型や高松塚古墳の壁画の高精細スキャンパネル、キトラ古墳出土の棺の金具やガラス玉、石神遺跡から見つかった国内最古のカレンダー「具注暦」、水落遺跡出土の漏刻模型なども展示している。キトラ古墳の壁面、天井の壁画は漆喰の剥離が激しいため、現在取り外して保存修復中。2016年度に国営飛鳥歴史公園のキトラ古墳周辺地区に整備する保存・展示施設で公開される予定。

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<平城宮跡資料館> 秋季特別展「地下の正倉院展 造酒司木簡の世界」

2015年11月02日 | 考古・歴史

【造酒司出土木簡568点の一括重文指定を記念して】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館(奈良市)で「地下の正倉院展 造酒司(ぞうしゅし)木簡の世界」が開かれている。造酒司は平城宮で酒や酢の醸造をつかさどった役所。奈良時代を通じて内裏の東方の同じ場所に位置した。「地下の正倉院展」は秋季特別展として2007年から毎年開催。今回は造酒司出土木簡568点が一括して国の重要文化財に指定されたことから、それを記念して代表的な木簡75点を3期に分けて展示するほか、大きな甕(かめ)や祭祀具など関連遺物約30点を通期展示する。会期は11月29日まで(第Ⅱ期10月31日~11月15日)。

  

 造酒司は南北約125m、東西約110mの区画で、築地塀で囲まれていた。これまで発掘調査が行われたのは西側半分だが、掘立柱の建物や井戸が複数見つかった。掘立柱建物は内部に甕の据え付け穴が並ぶものが多いことから、醸造・保管のための施設とみられる。井戸は3基確認され、その1つは周囲に石敷きを巡らせ、六角形の屋形を持つ大きなものだった(写真㊧)。

             

 木簡は主に西側の井戸からの排水路から出土した。その中に造酒司からの呼び出し状(写真)や造酒司に酒を請求した文書、造酒司の役職名を記した木簡などが含まれていたことが、発掘調査地が造酒司であることの決め手になった。また「酒司□」(□は不明)などと墨書された土師器の杯の出土も補強材料の1つとなった。酒の醸造に用いられた酒米や赤米の荷札も多く見つかった。送り主は尾張や丹後、播磨、備中、伊賀、紀伊、美濃など広範囲にまたがる。中には「臭い酢、ネズミが入っている」という意味のメモが書かれた木簡(写真㊥)もあった。

 造酒司では酒の醸造・貯蔵に使われた甕が完全な形では出土していないが、文献史料から口径30cm以上、高さ80cm以上の大きなものだったらしい。並べられた甕の位置を示す木簡が口縁部分に紐で括り付けられていたとみられる。上段の写真㊨の甕は平城宮・京の各所で出土したもの。造酒司からは銅印(写真)も見つかった。甕の紐に取り付ける「封泥」(封をするための粘土)に押印するものだったのではないかという。ただ印面の記号が何を表すのかは不明。

 出土した造酒司木簡の中には聖武天皇の大嘗祭に関わるものも含まれていると推定される。大嘗祭は天皇即位後に最初に行う新嘗祭(にいなめさい)のこと。聖武天皇の大嘗祭は724年(神亀元年)11月23~26日に行われ、造酒司が饗宴用の酒類や神事に用いる供物の準備などを担当した。大嘗祭が行われた月の日付を記した付け札や大嘗祭に使う草木のリスト、大嘗祭で用いる酒の量などを記したとみられる木簡などが見つかっている。

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<セイタカアワダチソウ(背高泡立草)> 北米原産、代表的な帰化植物

2015年11月01日 | 花の四季

【旺盛な繁殖力、一時〝花粉症の元凶〟という濡れ衣も】

 北米原産のキク科アキノキリンソウ属の多年草。代表的な帰化植物で、空き地や川原の土手などに群生し、花期の10~11月頃、一面を黄色く染める。背丈は1~2mほど。日本全国に分布するアキノキリンソウ(別名アワダチソウ)に似て大型なことから「背高泡立草」の和名が付いた。「セイタカアキノキリンソウ(背高秋麒麟草)」とも呼ばれる。

   日本への渡来は明治時代中頃で、当初は観賞用や切り花として入ってきたといわれる。戦後、進駐軍が北九州に入ってきたのをきっかけに急速に広がり始め、昭和30年代後半以降、爆発的に分布域が広がったという。繁殖力旺盛で、地下茎を伸ばして増える。九州地方では閉山に追い込まれた炭鉱のボタ山などにはびこったことから、かつて「閉山草」とも呼ばれた。

 根からはヨモギなどと同様、他の植物の種子の発芽を抑制し生長を妨げる「アレロケミカル」という成分を出す。その現象は「アレロパシー(他感作用)」と呼ばれる。そのため群生地域周辺ではススキのほかにほとんど他の植物が見当たらないことが多い。ただ、この成分は自らの種子発芽も抑制するため、その自家中毒症状によって数年後には枯れてしまうそうだ。

 かつて一部マスコミが「花粉症の元凶」と取り上げたこともあって、一時嫌われ者の雑草とみなされた。「世の末の花かも背高泡立草」(矢野絢)。この句はその元凶説が信じられていた頃に詠まれたのだろうか。だがセイタカアワダチソウは花粉を風で飛ばす風媒花ではなく、昆虫によって受粉が行われる虫媒花。養蜂業者にとっては花の少ない晩秋の蜜源植物としてありがたい植物なのだ。欧米では「Goldenrod(ゴールデンロッド=黄色の杖)」の英名で親しまれており、米国のケンタッキー州やネブラスカ州では州花にもなっている。

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