かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

前方後円墳の世界

2010年10月21日 | Culture・Arts
peace羽田の国際線が、大幅に拡充された。今までの、みずぼらしい国際線ターミナルもずいぶんよくなったようだ。滑走路が、井桁型で、すごいなと思うが、そこは、ちゃんと管制されるのだろう。早い内に一度使ってみたい。横浜からだと、時間もお金も大幅節約になる。



本書は、古代史を、前方後円墳という切り口から、分析、推理した本だ。

最初に驚くのは、東日本にも沢山の前方後円墳がある事実。どうしても、多くの古墳は、関西、九州のイメージがあったからだ。田園調布の多摩川沿いにも、円墳群があるという。東の古墳が、西よりも遅いとも言えないらしい。一方、西の大和政権が、東を治め、国の統一がなったという従来の歴史観も、古墳群を分析する限り、疑わしいという本書はいう。各地の勢力が共存していたと考えざるを得ないという。

著者は、邪馬台国が、大和にあったという説をとるのだが(某書では、徹底的に非難されていたが)、それでも、魏志倭人伝との違いは多いという。どの説をとっても、矛盾は、次から次と出て来る。

由緒ある古墳群を言えば、やはり山の辺の道近辺の古墳群だが(私は、ほとんどここしか行っていない)、この古墳の数は、一人の天皇の時代に、5-6基になるという。

この巨大な古墳。単なるお墓ではなく、何らかの権力を示すためのモニュメントの意義があったとしか考えられない。最大の大山古墳を築くには、800億円の費用が必要だったと見積もられている。

著者は自問する。①経済が政治を規定?②何故出現が同時多発だったのか?③前方後方墳を選んだケースがあるのはなぜか?
まだまだ謎だらけだ。

前方後円墳が作られなくなったのは、突然に、610年ころという。これも謎だ。
古墳を分析する限り、西が東を平らげたというストーリーは見い出せず、日本書紀を基にした歴史観にすぎないのではないかというのが、本書の言いたかったことかもしれない。

古墳は、中国でも韓国でも見られるが、これだけ、ユニークな、巨大な、多くの古墳が見られるのは、日本だけ。副葬された銅鏡の数も、桁違いという。
平城京が作られた時、一部の古墳が破壊されたということを知り、全く我々は、勘違いをしていたのではないのかという気もしてきた。

著者も言うように、いつか、本書を片手に全国の古墳を回ってみたいものだ。

古代史ファンには、誰にでも、お勧めできる本。


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ビートルズ都市論

2010年10月20日 | The Beatles



またまた出たビートルズ本だが、これは、なかなかの本だ。

「研究という代物は、一つの現象を解明したいという知的欲求に突き動かされてするもので、その解明のために、客観的証拠を積み上げていく作業である。そして、最後にその膨大な数の客観的証拠の上に主観的提言を一つ二つ載せて完成となる。」

と著者は、後書きで述べているがその通りの本である。山口大学の教授による本。
いまさらながら、ビートルズ誕生の、必然と偶然に驚かされる。ビートルズの誕生において、リヴァプール、ハンブルグ、ロンドンでの活動は、偶然でもあったし、必然でもあった。
新書版の中に、これだけ、コンパクトに、効率的に事実を濃縮した作者に拍手である。
最後の東京は、おまけみたいなものだが、その中にも、作者の洞察が披歴されている。東京が取り上げられたのは、ビートルズの社会的メッセージを受けた都市の一例としてであり、作者がリアルタイムでそれを受け取った一人であるからという。

本書での一番の発見は、リヴァプールの特殊性かもしれない。16世紀には、人口1000人に満たない小都市だったが、奴隷貿易で大発展し、その交換で、砂糖、綿花が大量に入ってきた。まさに西欧が世界を支配した時期の中心の港だった。ビートルズの4人の内3人がアイリッシュだが、そのアイリッシュが多い町でもあるし、4人の親の職業も、このリヴァプールの特性にマッチしたものだ。アメリカの最新の音楽にも触れることができたというのは、よく言われている。

ハンブルグは、やはり港町だが、リヴァプールでは稼ぐ場所がなく、リヴァプールのバンドが200も、ハンブルグに出稼ぎに行っていたという。第二次世界大戦からの復興も、ハンブルグの方が、リヴァプールよりも早かったというから皮肉なものだ。そして、このハンブルグ時代にビートルズが完成した。ハンブルグには、イグジズファッションが流行っていて、ビートルズもそこで、その流行を取り入れたスタイルを確立した。ハンブルグは、戦勝国のリヴァプールよりも、文化的には、ずっと進んでいたのだ。

ロンドンに戻って、ビートルズは、世界に羽ばたくのだが、本書は、ロンドンのことは、あまりよく言っていない。日本でいえば、日本の地方の大都市出身者が、地元でメジャーになり、東京で、日本のスターになり、世界のスターになる?という構図があるが、やはり地元が重要というのと一緒の感覚だろう。4人の伴侶についても、ロンドンvsリヴァプールの構図が見え隠れする。

東京の章は、著者が日本人だから書かれたとも言えるが、ビートルズの海外ツアーの中で、特にユニークなものであったからということも言える。あの短いグローバルな活動期間に日本で、コンサートをしたというのは、奇跡に近い。
著者は、日本側は、ビートルズ公演を、オリンピック以来の国民的行事に仕立てたという。今となってはそうだが、当時それだけの話だったのかは、小2だった私にはわからない。
そして、あの過剰警備は、70年安保の予行演習だったという。60年安保では、闘争で死傷者が出て、アイゼンハワー大統領の来日が中止になったという事件があり(知らなかった、今の中国並?)、その二の舞を避けるため、予行演習をしたというのだ。
ビートルズが、何故日本公演をしたかというのには、諸説あるが、本書では、日本が亜細亜で唯一中・高生のお小遣いでビートルズのレコードが買えた国という経済的事情(当時、香港は、イギリス領、シンガポールは、マレーシア連邦から都市国家への移行期)と、ブライアンエプスタインが、ビートルズに、コンサート活動を続けさせるための妥協案と、分析をしている。たぶんそうだろう。
佐藤首相も「ビートルズ警備で頭が痛い」と発言したとか。武道館を使わせるかでまた大騒ぎになったが、「女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽施設」ということで、決行されることになった。なにもかもが、ハプニングだ。
「ビートルズ東京公演を一言で、表現すれば、現存する体制を国家権力で維持しようとする勢力と芽生え始めた変革への意識とのせめぎ合いの場であったといえる。」
流石、大学教授!思わず肯いてしまう。

インテリ、ジャパニーズ、ビートルズマニア?の一書として、文化人を自負するみなさんに、お勧めする。



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大日本・満州帝国の遺産

2010年10月19日 | Books


講談社さんの興亡の世界史シリーズも、遅れに遅れたが、これが最終巻。

満州国の話かなと思っていたのだが、岸信介と、朴正煕を主人公とした、現在の東アジアの創世記の物語といった方が合っている。
この辺の話は、高校の授業では、時間切れでほとんど習っていないし(もちろん先生にもよるだろうが)、今の東アジアの基礎になっているところだから、もっと研究が進められて、これからの東アジアの安定のために、反面教師という面もあるが、皆勉強していくべきだろう。

”生命線満蒙を守れ”は、1931年に提唱されたが、この言葉は、岸信介の叔父である松岡洋右のものだそうだ。日本は、帝国主義化を勧め、いつの間にか、この生命線が、事実上の「主権線」になった。そして、韓国は、満州と一体となった「満鮮」として、日本帝国の空間の中に位置づけられた。今の中国における内モンゴル、チベット、ウィグルのようなものか。

満州国は、関東軍に牛耳られる日本の傀儡国家であったが、その正当性を主張するため、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古の五民族が順天安民と民本主義に基づいて共存し(五族協和)、欧米帝国主義の派遣主義に対抗して東洋政道徳を打ち立て、安居楽業の理想郷を実現(王道楽土)することになるという「世界政治の模型」という理念を打ち出した。

そして、満州は、日本にとっても、朝鮮にとっても、理想郷のような、満州に行けばどうにかなるという風潮を造り出した。
そして、そこで辣腕を奮っていたのが、岸信介であり、朝鮮から、満州を目指したのが、朴正煕であった。岸は、満州国を、自らの作品とまで豪語したという。
戦後の韓国を支配した、朴正煕は、何と陸軍士官学校を経て、関東軍で中尉にまで上り詰めた。

満蒙は、「朝鮮の防衛」を全うするとともに、「露国の東漸」を牽制し、「支那に対し力強き発言権」を発揮するために不可決な「帝存立」の要石とみなされていた。
満州は、在満朝鮮人には、「東洋のエルドラド」であると同時に、多面では日本の特殊権益、ひいては朝鮮統治を揺るがしかねない「反日運動の策源地」でもあった。このイメージは、なかった。「東洋のバルカン」だったはずなのに、いつの間にか、「東洋のエルドラド」になっていたのだ。

満州には、日本の企業が続々と進出し、一大コングロマリットを作りあげた。その中心となっていたのが、「二き」(東条英機、星野直樹)と、「三すけ」(岸信介、松岡洋右、鮎川義介)であった。

朴は、敗戦で帰国し、共産主義にも加わり、粛清されそうになるが、軍に全面的に協力し、免れ、一旦文官となるが、朝鮮戦争で、また軍人になった。
何という運命の綾なのだろう。
岸も戦犯として収監されたが、その後驚異的なスピードで、政界での地位を高めていった。

岸と、朴は、戦前の経歴に強い郷愁といだいていた。満州への憧れと、満州での修羅場をくぐり抜けてきた共通体験だ。そして、二人は、肝胆相照らす仲になった。

その後、朴が、軍事クーデターを起こし、政権を握り、長期政権化するにつれ、独裁化したのは、よく知られるところである。
朴は、マクベス的な最期を迎え、岸は、91歳で大往生した。
戦後日本と、戦後韓国の指導者に、こんなつながりがあったとは、全く知らなかったし、今の東アジア、ロシア、アメリカと、微妙な駆け引きを必要としている日本は、この歴史を深く理解していないければ、ならないだろう。


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ロックと共に年をとる

2010年10月18日 | Music


ストレートな名の本が出た。
私達の世代の人の本かなと思ったら、もっと若い人(と言っても5歳ぐらいだが)の本だった。クィーンぐらいからというから、ロックについての印象もちょと違うかなと思って読み進んだ。
職業柄(著者は某大手新聞社の文化面の記者)、いろんなミュージッシャンとインタビューしており、いろんな経験をされている。
オジーオズボーンとの2回のインタビューなど面白いものがたくさん。ジョージとも亡くなる数カ月前にインタビューしている。

著者の分類によると、オジーオズボーンは天然系、マリリンマンソンは戦略派系、トレントレズナーは依存症系、ジョナサンディビスはトラウマ系、ロバートフリップは理論派系。独自の理論を展開。
プログレについでの分析に至っては、相当マニアック。
ELPのキースエマーソンとのインタビューでは、実は、ギタリストを入れることも考えていたという。ジミヘンドリックスを考えたが、当然無理で、その後若いギタリストが候補にあがったのが、スティーブハウだったという。すごい話。それが、成立していれば、ELPの音楽もずいぶん変わったし、YESは存在しなかった?
この手のifの話は、いくらでもできる。想像しただけで、楽しい。

著者の考えでは、ロック半世紀の歴史の中で、大きなインパクトを与えた出来事は、3回あったとする。
1960年初頭のビートルズの登場、70年代半ばのパンクロックの登場、90年代初めのオルタナティブロックの登場だ。「ロックルネッサンス15周年周期説」と、勝手に名付けている。
しかしその後20年経つが、大きなうねりは起こっていない。むしろ古典に回帰する方向すら見えると分析する。TVのコマーシャルを見ていてもそう感じる。
確かに、言われてみるとそうだ。いいか悪いかは別にして、ロックの伝統潔サが進んでいるのかもしれない。もはや上の世代を否定する必要がなくなったのではないかと筆者は結論づけている。

それにしても、この5~6年の、往年のロックスター達の来日ラッシュ。演奏も逆に円熟味が増している。著者の意見に賛成だ。
ということで、やっぱり私も、5歳ほど若い著者も同様に、ロックと共に年をとっていたのだった。
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三菱が夢見た美術館

2010年10月17日 | Culture・Arts

bye今日は、中央線のオレンジの車両のラストランだったそうだ。昔、中央線沿線に住んでいたのでよく乗った。車両をカラフルにした第一号だったそうで、デビューは、私が生まれる前だ。それから、路線毎に色を変えるようになったという。昔は、途中から、黄色い電車とか、緑の電車が出てきて、子供ながらに、不思議に思ったものだ。長い間、ご苦労様。



今日、新聞を見たら、三菱が夢見た美術館展の紹介記事が載っていた。
てっきり岸田さんに代表される日本の洋画家展と勘違いしていて、行く気はなかったのだが、いろいろありそうなので、ふらっと行ってみた。



この展覧会が開かれているのは、丸の内の三菱一号館美術館。
今日は、秋らしいさわやかな天気で、美術館が取り囲む公園では、散策する人が多く見られた。
A16という西海岸発のイタ飯屋でランチ。実は、ここは何回か来ているが、フュージョン系のイタリアンでおいしい。A16は、西海岸の店に行く時の高速の出口の番号だそうな。



今回の展示は、開館記念展第二弾。第一弾の時に、建物や、都会の真ん中の癒しスペースとしてはよいが、美術館としては、いかがなものかと書いた。
今回の展覧会で、やや見直した。前回は、いきなり洋物で、かつ目玉目当ての客寄せ展覧会のように感じたのだが、今回のは、まさにこの美術館をテーマにした、開館記念にふさわしい内容だった。



展示は、三菱グループが所蔵しているものと、その財団である静嘉堂、東洋文庫所蔵のものが中心。日本画、洋画、陶磁器、ポスター、古典籍、岩崎家の建物を多く設計したコンドルの設計図、古地図などバラエティに富んでいる。どれも、興味深いもので、見る者を飽きさせない。
この建物自体は、昭和40年代まで、存在したものの再建だ。コンドルの設計図がしっかり残っていたから、再建もできたのだろう。
このあたりが、三菱ヶ原と揶揄されたころの絵もある。ほとんど原っぱ。
そんな所を買ってどうするんだと聞かれた岩崎彌之助は、「なに竹を植えて、虎でも飼うさ」と、笑ったという。今、この丸の内地区は、三菱グループの宝になっている。
美術館の方は、構想だけで終わっていたというから、三菱グループは、この美術館を作ることによって、100年越しの夢をかなえたのだ。



龍馬に出て来る岩崎弥太郎が創始者の三菱グループ。小岩井農場の、岩が、岩崎家の岩とは知らなかったというか(たぶん)忘れていた。
これは、1909年の小岩井週報に掲載された100年後の小岩井農場。
夢があふれている。
人間は、なんで、いろいろ回り道しているのだろう。特に日本は。
小岩井農場展の方は無料。


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