kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

卒業式

2018-03-03 | 陸上競技
卒業式。この日までに何をするか。そこが大切だと思っています。特別な日ですがこの日だけ何かを話すというのも違うなと。そこまでのプロセスで何をしてきたのか。ここは大きな話だと思っています。

担任をして最初の卒業生を送り出した時は私がDVDを作りました。2回目は生徒と一緒にDVDを作りました。3回目は生徒が自分で作りました。自ら動くという感覚が育てられたのかなと。私から与えるだけではない部分が欲しかったので。

今回は流れのまま。これまでも学校行事の時にはスマホで写真を撮ってデータを渡していました。ある程度のデータを追加で集めてDVDに焼いて渡すだけとしました。あとは少し時間をかけてポストカードにコメントを書いて渡す。話をするだけよりはメッセージを送りたいなというのがあったので。一人ずつ手紙を書いても良かったのですがあまりにも長くなるとどれだけ時間があっても足りません。ここは考えないといけない。話をするプラスメッセージかなと。

卒業式を迎えるまでに何度か教室で呼名練習をしてきました。生徒が返事をするというよりは私が読む練習をしなければいけないなと思ったので。体育館で練習をした時にマイクを使って呼名しました。すると、声が小さくて聞こえない&いつもと感じが違って分かりにくいというクレーム?がついたので今回もマイクを使わずに自分の声で名前を呼ぶことになりました。こういう部分、協調性がないとかスタンドプレーと言われるのかもしれません。それでも必要があればやるべきだと考えています。

卒業式の日、式直前に教室で練習。ここが一番ヤバかったですね。一人一人を目の前にして呼名する。顔が見えます。こちらの声に精一杯答えようとしてくれる感じがありました。後半にはこちらも涙が出てきて終わった時にはかなり(笑)早すぎです。生徒にもバレていたようでしたが。

式自体は良い返事でした。歌を歌う時にもかなり声が出ていました。感動。答辞は陸上競技部の選手が行いました。途中部活の話が出てきた時にはやはりこみ上げるものがありました。良い式だったと思います。

教室に戻り一人ずつ卒業証書を手渡し。そのタイミングでそれぞれが一言話をするという流れでした。これはうちの学校の流れのようなので。初めてでした。うちのクラスの生徒は3学期に全員「1分間スピーチ」をさせていました。かなり嫌がっていましたが(笑)それでも思っていることを人前で話すというのは必要かなと。卒業式で話すことがないじゃないか?!という噂もありましたが。今回は保護者への挨拶を含めてかなり涙を流しながら話してくれていました。こういう機会も必要かなと。

私からも少しだけ。今回学校新聞にコメントとして「与えられる」から「与える」へ、というタイトルで書きました。この辺りのことも含めて。保護者の前で話をするというのは微妙ですが「痛い目に合えばいい」という内容を。これまでは周りが失敗しないようにフォローしてくれていました。繰り返しになるかもしれませんがうちではほぼ至れり尽くせり感があったと思います。しかし、これからはそうはいかない。保護者も含めて「失敗しないように」という前提の中で話をします。でもそれでは本当に大切なものに気づかない事が出てくる。だからこそ痛い目にあって気づくこともあると思います。失敗しないように安全にやっていくだけでは何も変わらないかなと。

あとは「楽しむ」事が必要だと思います。ひたすら楽しむ。自分自身が楽しいと思えなければ周りも楽しめない。この辺りの感覚は話をしています。自分だけが楽しいというのはエゴにしかなりません。それでも楽しいと思えなければ何も変わらないと思います。その手の話をずっとしてきました。別に私が今更色々な話をする必要はないかなと。分かってくれていると思います。

もう少し書きたいなと思います。中身が薄いかもしれませんが。
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卒業式を迎えるまで

2018-03-03 | 陸上競技
色々と思う事がありました。前の記事にも書きましたが。前回卒業生を送り出してから5年。その次の学年は2年生が終わる時に転勤。卒業式を一緒に迎える事が出来ませんでした。「2年見たんだから十分」という人もいる。確かにそうかもしれない。単なる担任でしかないのだから。それでもかなりの想いはありました。送り出したかったな、と。離任式の時に教室で一人ずつ呼名をさせてもらいました。

転勤して新しい環境でやっていく。これまでとは色々と異なる部分がある。私の転勤と同時に入学してきた生徒達。思い入れはあります。転勤した当初は「受け入れられていない」と感じる部分がかなりありました。「これまでのやり方」を求められる。試合の前の土曜日は山で練習すると決まっていたのに何故競技場に行くのか?と否定される。「自分達でやる」という部分を徹底したいと思っていたがどちらかというと「与えられること」が当たり前になっていて待っていたら我々が何かをやってくれるという感覚。

感覚の違いというのは如何ともし難いと思います。どちらか一方の感覚をもう一方が共有できるとは限らない。色々な事が私にとって「否定される」という感覚がありました。至れり尽くせりというのは誰のためにもならないと考えてきました。が、手厚く細かい所まで世話をするという部分が大きくあった。悪いとは思わないが感覚的に私はそれができなかった。

前任校の生徒や選手に対する想いがあったというのもある。何かあったら気にしていた。選手に関しては県総体までは一緒に練習できるといいなと考えていた。もちろん、前任校の選手の中にも「転勤したのに関わってくるな」という感覚の者もいたと思う。そういうのもあり「何で他校と一緒に練習しなければいけないのか」という批判も噴出した。やることなす事マイナス方向への反応だった。特に部活動は自分達のやり方がある、というのが強くほぼ受け入れてもらえなかったかなと感じている。

そんな中で部活を離れたところでクラスの生徒達と関わる事ができた。ここにかなり救われていたと思う。雑談をしたりする中で忘れる事ができた。それは最近でも同様かもしれない。部活を離れたところであれこれ考える事が出来る機会は本当に貴重だったと思う。

今の時代、何かを発言したらそれに対して批判の声が集まる。一番楽なのは見て見ぬ振りをすることだと。大きな声で激怒することにより批判もでる。ダメなものはダメだと教えるというのはすごく大切な事だと思っている。誰もがやっていかなければいけない事。信頼関係が必要になると言われる部分もあると思うが、その場面その場面でダメだと伝えることは必要だと考えていた。全体で伝える機会も少ない。クラスでは感じた時に必ず話をするようにしてきた。真面目な話をすることも必要だと。このご時世、大声で指導するのは恫喝と言われる可能性が高いですからね。優しく諭すくらいしか求められないのたとは思いますが。

まーまとまらない話ですね。そんなこんなを卒業式を迎えるまでの一週間くらい考えていました。何をもって生徒のためという話になるのか。求められる事は何か。学校教育自体が大きく変革する時期に来ているんだろうなと。不易と流行。ここに関しては譲れないものがある。が、簡単ではない。それが今の時代なのかなと。

別に私自身を正当化するつもりはサラサラありません。様々な感情を持つ事が許されないというのであれば今の仕事はできないなと。普通なら隠して抑えてやっていかなければいけない部分なのがしれませんが。何となく感じながらやっています。

卒業式について書きたいと思っていたのにまた話が逸れました。まーいいか。
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