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言葉と体の思想論

2005-08-25 09:57:59 | 健康 整体
言葉と体、意外と面白い。

たとえば、こういう人がいます。「せんせー、この1週間、腰が悪くて、、、」
その人、腰だけが悪いんでしょうか?本当は違うことが多いんですが、まあ、そうとしましょう。でも、意地悪なことを言えば「腰が悪くて、、、でも、私は悪くない。腰が加害者で『私』は被害者」って印象も受けますよね。案外、逆だったりして、面白いんですよね。つまり、、、『私』が加害者で『腰』は被害者だったりしてね。

今の話、おわかりでしょうか?腰と私というふたつに分けて考えてみたんですね。腰が痛くて私は迷惑してるんです、みたいな。じゃ、腰と私はいつから別の人格になっちゃったんでしょうか(笑)あなた、は、あなた全部の存在じゃないのでしょうか。

逆に、こんな言い方も有り得ます。今の逆のことを言って混乱させちゃうかもしれませんが。
「私は病人なんです」、、、。ん?それって、突き詰めて言うなら「私の体は、いま、なんらかの病状を表現してる」ってことですよね?私=病人では決して無く。私の体という部分、に病状が存在している、と。私のすべてが、病気で覆い尽くされてる、ということではないですよね。私の肉体には病気はあるが、私の肉体以外の部分には病気はない、ということも有り得るわけで。

この話、わかります?私という全存在と、そのうちの一部でしかない肉体とをわけちゃおう、という発想ですね。

あなた、と、体、は分けることができない。でも、体が、あなたのすべてでもない。
カニのはさみを見て「あれははさむツールなんだな」と人は理解する。でも、はさみがカニのすべてではない(なにを言いたいんだか。書きながら苦笑してます)

だれかが言っておりました。健康とは。体のどこにも意識がいかないこと。肩こりのない人は、肩のことを意識することはまずありません。腰が痛くなってはじめて「おお、ここに腰があったのか」ってなもんです。
その時。あなたは、自分の体に対して、どのような言葉を使うでしょうか。
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
言葉と体 (ジュンちゃん)
2005-08-25 12:09:17
もう難しすぎてついていけませんな。

でも、このままではくやしいので無理やりコメントします。

言葉は客観化の道具だから、言葉にした途端に自分から離れてしまうものだと思いますよ。

言葉によって客観化することによって、自らを意識できるし納得もできる。

しかも、言った人や書き手の人格の一部が宿ってしまう。これが言霊というやつ。

だから、体と別の人格になっていいなじゃなかと考えてます。だってそういう目的であるんですよ言葉って。

言葉は他者とのコミュニケーションの手段というだけではなく、自分を知る手段でもあるんだと思います。

かいつうCANさんを20年来知っている私には、どんな難しいことが書かれていても、おちゃらけな言霊が宿っているのを感じます。

完全に客観化できていないのですよ、たぶん。



Unknown (k3)
2005-08-26 01:30:52
これまた、営業やな・・・

私の体はこんな挑発にはのらんぞ!
Unknown (かいつうCAN)
2005-08-26 09:41:35
k3、あなたは来たくなある、来たくなある、来たくなある、、、、、、、、、、、、、、、、。



junちゃん、そういえば、鹿児島かどっかにDという頭と下半身の人格は別、って人がいましたなあ。あ、海外に赴任してるU君はある意味、完全に頭と下半身の人格が一致されてて気持ちいいくらいだが。



さて、junちゃんのコメントはまさそのとおりで、なにも付け加えることはございません。完全に客観化?できるときがきたら、私、悟っちゃいますから。「私は、私であり、また私ではない、私はすべてである」とか言い出したら、コドモの事を含め、後の事はお願いします(爆)。



ただ、言葉は、主観のための道具だとも思うんですよね。自分が見たものに名前をつける。この時点で見たもの、と言葉、は乖離していくわけなので、名前をつける行為は、ある意味、個人的な行為なんだと。腰痛という現象がある。それに対して「腰が悪い」と言葉を発するのも、単に「腰が痛い(なにかが『悪い』のではなく)」と捉えるのも、個人的な選択だと思うんですね。雨の日に「天気悪いなあ」という言霊を発するのか「『良く』ふりますねー」と言うのか、とかね。

将来の会社や異性を選ぶことだけが、人生の選択ではなくて、今の現象にどういう意味付けをするか(言葉を付与するか)、もまた、人生の選択だと思うんですよ。意味付けしながら、生きていくうちはね。意味付けしなくなれば、悟っちゃうかも知れないけど。

だから、僕ふうに言えば、言葉によって主観化?することで、自分はどういう人間なのかを知ることもできるし、言葉にした途端に、「それ」は自分にくっついちゃうもんだとー自分との位置関係が決まるー思うのよねー。



うーん、K3の肩こりが促進されたこと、間違いないな、これで。
Unknown (かいつうCAN)
2005-08-26 12:32:02
とある人(ジュンちゃんでもK3でもなく)から「言葉の主観化」ってなに?とメールをいただきました。すんません、ジュンちゃんのメールを見て、勝手に作った言葉です。そんな言葉がなかったら、ごめんなさい。たとえば、ですね。天から水が落ちてくる、雨ですよね。それが幾日も続くと、誰かが(気象庁が)梅雨だ、という。でも、それは、「雨」であり、天から落ちてくる「水」ですよね。つまり、名前をつける、言葉を発する、というのは、誰かの主観が反映されたものだ、と。気象庁が梅雨だ、と言わない限り、6月に長雨があっても梅雨じゃないんですから、、、。でも、気象庁が梅雨だ、といっても、それまでの雨と性質成分が変わったわけではない。名前をつけた時点で、「天から落ちてくる水」という現象から言葉が乖離していきますよ、と言うことなわけですね。これを裏を返すと、「梅雨入りしたんだって」という言葉ひとつで、誰にでも把握できる状態にもっていける。これがジュンちゃんの言う客観化のほうだと思うんですね。これまた、「水」という言葉が「梅雨」という別人格を持たされたことでもあって。同じことを言ってる、と思ったので「付け加えることはありません」が、ただ、こういう言い方もできますよ、と言ってみたんです。

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