今年も終わりですね~。
この一年、本当にありがとうございました。
たま~に来てくださる方なんですが。
年末に、左の肩が痛い、と来られました。
肩をいくら動かしてもらっても痛くないそうです。
ただ、首を動かすと、左右どっちを見ても左肩が痛いそうです。
さて。
仮にこの方の骨盤が歪んでようと背骨が曲がってようと・・・。
骨盤が歪んだままで肩を動かしても痛くないけど、首を動かすと肩が痛い。
背骨が曲がったままで肩を動かしても痛くないけど、首を動かすと肩が痛い。
そして、肩を動かしても痛くないけど、首を動かしたら肩が痛い。
肩を動かしても、肩は痛くないけど、首を動かしたら肩が痛い。
という前提がわかれば、
首を動かしたら肩が痛い→首を「動かすこと」と肩の痛みには「この人に限っては、因果関係がある」ということが推察されます。
それであれば、「仮に」骨盤が歪んでようと背骨が歪んでようと、「首を動かす」と「痛い」という因果関係を見てはどうでしょう?という考え方が動作を分析する、うちの方法論です。
「もし」骨盤が歪んでたとして、この症状の方が来られたとして、果たして「因果関係(という大げさなものじゃないですね。笑)」を無視して「骨盤だー!」と言えるほどの強力な説明材料を(骨盤がこういうふうに歪んだときは、肩を動かしても肩は痛くならないけど、首を動かすと肩が痛くなるのは明確でしょ、といえるような)があるのだろうか、、、と思ったりね。
でも、もし肩が痛い人が来られて、検査をしたら骨盤が歪んでて、ということがわかったら「骨盤をほっといて施術できるか」。
僕が思うのに、「そこに因果関係があると『言える』のか」が問題なんじゃないかな、と思っているんです。
「どこそこに異常がありましたよ」「こんなふうに歪んでましたよ」という「異常個所」の追及だけではなく、「これをしたら痛い」という因果関係をみる、という方法論もあるのではないでしょうか。
今日もありがとう。
来年もよろしくお願いします。
よいお年をお迎えくださーい。
ありがとうございましたーーーー。
この一年、本当にありがとうございました。
たま~に来てくださる方なんですが。
年末に、左の肩が痛い、と来られました。
肩をいくら動かしてもらっても痛くないそうです。
ただ、首を動かすと、左右どっちを見ても左肩が痛いそうです。
さて。
仮にこの方の骨盤が歪んでようと背骨が曲がってようと・・・。
骨盤が歪んだままで肩を動かしても痛くないけど、首を動かすと肩が痛い。
背骨が曲がったままで肩を動かしても痛くないけど、首を動かすと肩が痛い。
そして、肩を動かしても痛くないけど、首を動かしたら肩が痛い。
肩を動かしても、肩は痛くないけど、首を動かしたら肩が痛い。
という前提がわかれば、
首を動かしたら肩が痛い→首を「動かすこと」と肩の痛みには「この人に限っては、因果関係がある」ということが推察されます。
それであれば、「仮に」骨盤が歪んでようと背骨が歪んでようと、「首を動かす」と「痛い」という因果関係を見てはどうでしょう?という考え方が動作を分析する、うちの方法論です。
「もし」骨盤が歪んでたとして、この症状の方が来られたとして、果たして「因果関係(という大げさなものじゃないですね。笑)」を無視して「骨盤だー!」と言えるほどの強力な説明材料を(骨盤がこういうふうに歪んだときは、肩を動かしても肩は痛くならないけど、首を動かすと肩が痛くなるのは明確でしょ、といえるような)があるのだろうか、、、と思ったりね。
でも、もし肩が痛い人が来られて、検査をしたら骨盤が歪んでて、ということがわかったら「骨盤をほっといて施術できるか」。
僕が思うのに、「そこに因果関係があると『言える』のか」が問題なんじゃないかな、と思っているんです。
「どこそこに異常がありましたよ」「こんなふうに歪んでましたよ」という「異常個所」の追及だけではなく、「これをしたら痛い」という因果関係をみる、という方法論もあるのではないでしょうか。
今日もありがとう。
来年もよろしくお願いします。
よいお年をお迎えくださーい。
ありがとうございましたーーーー。