最近、同業の友達と話をする機会があった。
僕たちの間ででる話は、だいたい、「治らなかった人」の話か、直し方の発見か、です。
「直した話」は、別に珍しくもなく参考にもならないからね。
で、そこででたのが、こういう人の例。
腰が痛くて曲げられない、肩が痛くて挙げられない、という女性。
施術を行なうと、ラクにはなるらしく、施術前と比べて、動きが格段によくなる。動かした角度とか見ていると、あともうちょっと、というレベルなんだとか。
でも、完璧には痛みは取り切れていないらしい。
二回、施術を行なったが、そこでその女性が言った言葉は。
「確かに良くなったんですが、治りません」。
良くなっている。でも、
治ってはいない。
わかります、非常によくわかります。
でもね、と友達は言ってました。
「治っていない方に目が向きすぎているのよね、、、」と。
「良くなっていることが置いていかれちゃってるんだもん」と。
その友人が良くしたわけではなく、お客さん自身が良くなって行ってるんだと。だから、それに関しては「もっと自分の身体のすごさを評価してやってほしい」んだと。
もっと言えば「良くはなったが治っていない」んじゃなく、「治ってきている」んだと。
身体には連続性がある。「昨日よりも良くなったが治っていない」、わけじゃなく「昨日から今日にかけてさらに治ってきている」じゃないか、と。「治ってない」?「良くなっている」?
なるほどなあ、と思いました。
確かに、痛いときは魔法のように痛みを消して欲しいもんです。消えなかったら、文句もでます。でも、身体の中では途切れずに「治そう」という力が働き続けている。そこは見ずに「痛い方」だけを見る、、、。それを彼は言いたかったのでしょうね。いえ、もっと奥のことも話してくれたのですが、ここでは商売上書けないこともありますので、、、ハイ。
僕なんかは未熟ですから、自分が痛いときにはとてもそんなことまで思いが至りませんが。でも、彼の言いたい事は、よく伝わってきました。実際に、痛いときでも、「痛い」だけじゃないですもんね。暑くもあれば寒くもあるし。辛くもあれば甘くもある。あれもできれば、これもできる。「ただ、どこそこが痛いだけ」、、、。そのなかの、自分なら「なにを見るか」、、、。痛いから治ったとは言わない。ごもっとも。でも、治る過程なんだとしたら?そこまで「治っていない」ことにこだわると逆に、、、。
僕たちの間ででる話は、だいたい、「治らなかった人」の話か、直し方の発見か、です。
「直した話」は、別に珍しくもなく参考にもならないからね。
で、そこででたのが、こういう人の例。
腰が痛くて曲げられない、肩が痛くて挙げられない、という女性。
施術を行なうと、ラクにはなるらしく、施術前と比べて、動きが格段によくなる。動かした角度とか見ていると、あともうちょっと、というレベルなんだとか。
でも、完璧には痛みは取り切れていないらしい。
二回、施術を行なったが、そこでその女性が言った言葉は。
「確かに良くなったんですが、治りません」。
良くなっている。でも、
治ってはいない。
わかります、非常によくわかります。
でもね、と友達は言ってました。
「治っていない方に目が向きすぎているのよね、、、」と。
「良くなっていることが置いていかれちゃってるんだもん」と。
その友人が良くしたわけではなく、お客さん自身が良くなって行ってるんだと。だから、それに関しては「もっと自分の身体のすごさを評価してやってほしい」んだと。
もっと言えば「良くはなったが治っていない」んじゃなく、「治ってきている」んだと。
身体には連続性がある。「昨日よりも良くなったが治っていない」、わけじゃなく「昨日から今日にかけてさらに治ってきている」じゃないか、と。「治ってない」?「良くなっている」?
なるほどなあ、と思いました。
確かに、痛いときは魔法のように痛みを消して欲しいもんです。消えなかったら、文句もでます。でも、身体の中では途切れずに「治そう」という力が働き続けている。そこは見ずに「痛い方」だけを見る、、、。それを彼は言いたかったのでしょうね。いえ、もっと奥のことも話してくれたのですが、ここでは商売上書けないこともありますので、、、ハイ。
僕なんかは未熟ですから、自分が痛いときにはとてもそんなことまで思いが至りませんが。でも、彼の言いたい事は、よく伝わってきました。実際に、痛いときでも、「痛い」だけじゃないですもんね。暑くもあれば寒くもあるし。辛くもあれば甘くもある。あれもできれば、これもできる。「ただ、どこそこが痛いだけ」、、、。そのなかの、自分なら「なにを見るか」、、、。痛いから治ったとは言わない。ごもっとも。でも、治る過程なんだとしたら?そこまで「治っていない」ことにこだわると逆に、、、。
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